はじめに
救急医療や産婦人科医師の不足は現代の大きな社会問題ですが、昭和12(1937)年に創設された鳥取県社会保健委員制度は、無医村・無産婆村問題に対する本県独自の政策として注目されました。
この制度は、無医村・無産婆村出身で、満18歳以上30歳未満の女性を選考し、養成所で病理・衛生・保健等の学科と看護師・助産師等の実習指導を1年間行い、修了時には看護師・助産師の資格をとって帰村させ、村内の保健衛生指導にあたらせるというものでした (注1)。委員第1期生である津村たみゑさん(八頭町)に制度創設期の様子をうかがいました。
受験には校長と村長の推薦が必要
試験は身体検査と口頭試問だけで学科試験はありませんでした。村長と校長の二人の推薦が必要で、出身村の保健・衛生に従事させるために「婿取り」が条件でした。学費は県の負担でしたが、修業期間中は月6円の手当しか支給されないため「ある程度家に財産も必要」で、同期生には「村長の娘が3人」、「助役や収入役の家の娘」もいました。
第1期生は、県内でも無医村・無産婆村の多かった山奥の村出身の女性がほとんどでしたが、2年目3年目となると市・町部出身者も多くなります。
助産師はあこがれの職業
「とにかく助産婦の資格が欲しかった」。津村さんはこの一心で社会保健委員に応募します。「小学校時代の初恋の人の母親が村中で一人の助産婦さんで、頭が良くて、器量も良くて、自転車で颯爽と駆け抜けている姿が印象的な人でした。当時の産婆は村長・校長に継ぐ職業で、女性の職業のあこがれ」でした。大正期から職業婦人の増加とともに、専門職として自立自活できる助産師の評価は高まっていましたが(注2)、「村長・校長に継ぐ職業」という言葉は、地域における助産師の地位の高さをよく表しています。
詰めこみ主義の講義内容
医療や看護の経験のなかった津村さんにとって、たった1年で専門的な知識を習得するのは至難の業でした。「1日8時間の猛勉強で、午前中看護学校に行ったかと思うと、午後は助産婦学校に行く。だいたい看護学が済んでからじゃないと分かりにくいのに、一緒くたでねぇ。鳥取に5人いた産婦人科の医者に1ヶ月ずつ講義を受けました。詰めこみ主義で、ノートしようにも眠くてしょうがなかったです」。
助産師実習として妊婦を養成所に招いての経過観察や赤ちゃんの沐浴、鳥取市役所嘱託吉田喜久代訪問婦とともに貧民屈の家庭の訪問指導、育児院や戦傷者授産所、長島愛生園の視察も行いました。
鳥取県社会保健委員第1期生の国立療養所長島愛生園訪問(昭和12年7月)
保健委員としての活動
養成期間の満了を前に、助産師と看護師の資格試験がありました。修了者22名のうち合格者は10名。津村さんは2つの資格試験に合格し、東伯郡の実家に戻り、村の保健委員として活動を始めます。しかし、「自転車で家庭を訪問し、ホケン委員ですと告げると、うちは保険は要りません」と言われたこともたびたびでした。保健委員はまだまだ身近な存在ではありませんでした。資格はあっても経験不足は否めず、倉吉町の厚生病院に3ヶ月寄宿しての看護研修や、産婆宅に住み込みでの実地研修が補習的に行われました。
社会保健委員制度の変容
昭和16(1941)年「保健婦規則」が制定され、当時さまざまな呼称で活躍していた「保健婦」の身分と呼称が保証されるとともに、国家統制が強化されます。総力戦体制下にあって、農業労働力の保持や食糧増産の下支えとしての保健婦の役割が政府に認識されるようになってきました(注3)。昭和12(1937)年にスタートした鳥取県の制度は、保健婦養成事業の先駆けとして注目を浴び、県もそのことを誇示しました。
保健婦事業はこの一二年来人的資源の国策に乗って一躍国家及地方の一大事業に発展したのであって本県が其の先鞭をつけて以来本年度に入つて二十数府県が其の養成配置の計画をしてゐる盛況で、政府としても愈々保健婦規則を制定して其の身分資格を確立し其の養成及普及方に乗り出さうとしてゐる次第である。本県が此の新興事業の先進県として全国的名誉を博している事は洵に快心の事(注4)
同年、県は鳥取県社会保健委員に「速成科」を設置し、既に助産師か看護師の資格を持つ人を3ヶ月の短期講習で養成し、保健委員の資格を与えました。津村さんはその後、この速成科の指導員として県の社会課に籍をおき、講師の手配等の仕事に従事しました。
助産師としての面倒見の良さから津村さんを慕って今でも義勇軍の生徒が訪れます。
聞き手は現代部会小山富見男委員(平成21年4月27日)
おわりに
長島愛生園の視察に見られるように、鳥取県社会保健委員が設置された昭和12年という年は、財団法人鳥取県癩予防協会が設立された年でもあります。保健衛生先進県としての広範な取り組みのなかに無らい県運動もありました。(鳥取県史ブックレット2『鳥取県の無らい県運動』を参照)
津村さんはその後、県社会課で満州移民事業に興味をもち、青少年義勇軍の幹部指導者の妻となって渡満します。その後の経緯については、別の機会に紹介したいと思います。
(注1)「鳥取県社会保健委員養成所要領」(『鳥取県史』近代第5巻資料篇、1967年、768頁)
(注2)谷口啓子「助産制度の整備と近代的産婆」(『鳥取県立公文書館報』第10号、2000年)
(注3)下西陽子「戦時下の農村保健運動」(『年報・日本現代史』第7号戦時下の宣伝と文化、現代史料出版、2001年)、大国美智子『保健婦の歴史』(医学書院、1973年)
(注4)「鳥取県公報」昭和16年12月23日付第1295号。
(西村芳将)
2日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
民俗調査(大山町赤松、樫村)。
9日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
21日
民俗調査に係る協議(倉吉市関金町・三朝町、樫村)。
22日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
23日
民具調査(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
24日
資料調査(鳥取大学附属図書館、西村・大川)
民具調査に係る協議(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
27日
義勇軍に関する聞き取り調査(八頭町、西村)。
28日
民具調査協議(鳥取市中央公民館、樫村)。
30日
民具(道谷笠)調査(兵庫県宍粟市)。
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