修史事業における民俗学的視点と方法
日本における代表的な修史事業は、古代には国家が正史として編さんした『日本書紀』からはじまる六国史(りっこくし)(注1)。鎌倉幕府編さんの『吾妻鏡』(あずまかがみ)、近世には江戸幕府が編さんした『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)、水戸藩編さんの『大日本史』などがあげられます 。これら国家等による歴史書編さんは、現代の地方自治体等が編さんする自治体史に引き継がれているといえます(注2)。
現在では、自治体史にも民俗に関する書籍が刊行されることが多くなってきています(注3)。 県史レベルで古いものでは、昭和37(1962)年に刊行された『秋田県史 民俗工芸編』があります。続いて昭和39(1964)、42(1967)年に刊行された『福島県史 各論編 民俗』1・2の2冊、昭和40(1965)年刊行の『岩手県史 民俗編(衣食住・舞踊その他)』が見られます。比較的、古文書が多く残っているといわれる西日本では文献史学が盛んで、古文書が少ない東北を含む東日本では民俗学が盛んだと一般的にいいますが、このように東北地方から県史事業の中で「民俗」に関する書籍の刊行がはじまっていることは興味深いことです。
民俗が重視され、独立した「民俗編」が刊行されるようになったのは、早くても1960年代です。今回はそれ以前、一般庶民の民間伝承を取り扱う民俗学のような視点と方法が、実は江戸時代の修史事業の中で取り入れられていたことについて述べたいと思います。
徳川光圀の歴史書編さんの姿勢
平成18(2006)年4月に総務部総務課に県史編さん室が設置され、「新鳥取県史編さん事業」スタートしてはや5年半が経過しました。私は平成19年2月に鳥取県職員として採用され、県史編さん室で民俗担当として勤務することになりました。
新鳥取県史編さん事業という修史事業に携わることになった時、ある人物とある文を思い浮かべました。ある人物とは水戸黄門として知られる水戸藩の2代藩主、徳川光圀(みつくに)です。
私は、茨城県水戸市の北方20キロメートルほどの常陸太田(ひたちおおた)市という場所で育ちました。ここには、徳川光圀が晩年隠居した西山荘(せいざんそう)や、水戸徳川家累代の墓所である瑞龍山(ずいりゅうさん)があります。
茨城県常陸太田市の位置
徳川光圀が隠居した常陸太田の風景
奥の山々は阿武隈(あぶくま)山地、手前は久慈(くじ)川で、鮭の梁(やな)が設置されている
私はこの瑞龍山の麓で育ったのですが、私が通った常陸太田市立瑞龍小学校では毎年、瑞龍山の清掃作業とともに、高学年は「梅里先生碑文(ばいりせんせいひぶん)」というものを覚え、暗唱することが恒例となっていました。「梅里先生碑文」とは、光圀が元禄3(1690)年に隠居するときに立てた壽藏碑(じゅぞうひ)に刻まれた漢文で、光圀が執筆した自伝が全299文字で記されています(注4)。
県史事業に携わるにあたり、小学生のときは、苦労し、嫌々覚えたはずのこの碑文を思い出したのです。特に思い出した部分は以下の部分です。
【漢文】
(前略)
蚤有志于編史。
然罕書可徴。
爰捜爰購求之得之。
微遴以稗官小説。
摭實闕疑、
正閏皇統、
是非人臣、
輯成一家之言。
(後略)
※句読点は筆者が便宜上付けた
【読み下し文】
(前略)
蚤(はや)くより史を編むに志有り。
然れども書の徴すべきもの罕(まれ)なり。
爰(ここ)に捜(さぐ)り爰に購(あがな)ひ、之を求め之を得たり。
微遴(びりん)するに稗官(はいかん)小説を以てす。
實(じつ)を摭(ひろ)ひ疑はしきを闕(か)き、
皇統を正閏(せいじゅん)し、
人臣を是非し、
輯(あつ)めて一家の言を成す。
(後略)
これは光圀がはじめた『大日本史』編さんの基本コンセプトを簡潔に記した部分です。文意は、次のようになると思います。
若い頃から国の歴史書を編さんする志があった。
しかしそのための参考とするべき文献(史料)は、なかなか手に入らなかった。
そこで各地を捜し、文献を買い求め、手に入れていった。
史実は細かく探求し、身分の低い役人の史料(民間伝承)なども用いた。
それによって真実と、疑わしい点も明らかにした。
そして皇統の正統なものとそうでないもの、
その家来が正しかったかを明らかにした (注5)。
この編さんを通じて独自の意見を示した。
ここで特に「微遴(びりん)するに稗官(はいかん)小説を以てす」という部分が、注目されます。「稗官(はいかん)」(注6)とは、古代中国の官名であり、民間の風聞を集めて王に奏上した下級役人で、のちに身分の低い小役人を示すようになったといいます。「稗官小説」とは、民間伝承(言い伝えなどを記録した文字史料を含む)のことであり、徳川光圀はその当時、歴史の勝利者、支配者が残した史料ばかりでなく、低い身分の者、時には歴史の敗者に伝わる民間伝承にも注目すべきと考えていたということです。
これは常民(じょうみん)ともいう、一般庶民の民間伝承を史料とし歴史研究する民俗学に通じる姿勢です。また個人的には公職にあって民間伝承を収集する自分の立場が、「稗官」に重なるものがあり、この一文には親しみを感じています。
結果的に『大日本史』編さんに民間伝承が大きな影響を与えたとは言いにくいのですが、編さんの発起人である徳川光圀が、支配者でありながら現代の民俗学に近いスタンスをもっていたことが意外であり、興味深い点です。
また文献、史料調査においても、「書の徴すべきもの罕」、つまり参考になる重要な史料が少ないため、『大日本史』の編さん局であった彰考館(しょうこうかん)で修史事業に携わった佐々宗淳(さっさ むねきよ:通称、介三郎。水戸黄門、助さんのモデル)や安積澹泊(あさか たんぱく:通称、覚兵衛。格さんのモデル)らが全国を駆け巡り史料・文献を調査し、記事に出典を記して考証にも気遣っている点は、今日、県史事業でも当然重視され、足を使った史料調査、原本調査、根拠の提示に通じると思います(注7) 。
県史事業における民俗
今日では、都道府県による多くの修史事業において、民俗に関する書籍が編さんされています。高度経済成長以後、伝統的な暮らしや行事が大きく変容し、かつての姿の記録化が重視されるようになり、民間伝承が再評価されるようになったと考えられます。
その一方、現在では聞き取り調査における話者は、ほぼ昭和生まれであり、戦前の伝承を収集することも困難になってきています。民俗においても「書の徴すべきもの罕」な状況になってきているのです。足を使った調査をしていますが、民俗調査も新たな展開が必要になってきているのかもしれません。
それに関係し、新鳥取県史編さん事業では、都道府県レベルの自治体史では初めての『新鳥取県史 民具編』の刊行を目指しています(注8) 。これは修史事業の中で、庶民生活の物的証拠である民具という有形史料に大きい役割をもたせる試みです。徳川光圀が、それまで修史事業の中で重視されてこなかった史料としての稗官小説(民間伝承)を取り入れようとしたように、修史事業における民俗も、民具のようなあまり重視されてこなかった史料をさらに取り入れる時期に来ているようです。
(注1)奈良・平安時代に編さんされた六つの官撰の歴史書。日本書紀・続日本紀(しょくにほんぎ)・日本後紀(にほんこうき)・続日本後紀・文徳実録・三代実録。
(注2)坂本太郎「歴史編纂の沿革」(『修史と史学 坂本太郎著作集5巻』吉川弘文館、1989)183~268頁。
(注3)奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編さんし、天皇に献上させた『風土記』などは現代の民俗にも関係する記述も多いですが、これはまれなものでしょう。
(注4)「梅里先生碑文」については、宮田正彦『水戸光圀の『梅里先生碑』』(水戸史学会、2004)を参照。
(注5)徳川光圀は『大日本史』の中で、南朝を正統と考え、楠木正成を忠臣としました。
(注6)「稗」はヒエで、つまらぬ穀物の意味。
(注7)このように書くと、郷土偉人を称えるような文ですが、私の郷土の心情は複雑です。私の出身地の常陸太田市周辺は、常陸国を支配した戦国大名佐竹氏(のちの秋田藩主)の発祥の場所です。常陸太田では、佐竹氏の遺臣が多く、つい最近まで新しい支配者である水戸徳川家を素直に認められない心情がありました。もちろん徳川光圀への尊敬の念もありますが、光圀が常陸太田市の西山に隠居したのも、佐竹遺臣が多い地を自ら監視するためという言い伝えもあり、反発する心情もあります。ただし、こうした中でも、光圀の学問への姿勢は高く評価されています。
(注8)過去にも『福島県史』のように、民俗編の中に民具に関する項目を設けている書はあります。
(樫村賢二)
2日
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
7日
資料返却(湯梨浜町宇野、坂本)。
8日
民具調査(~9日、日南町立郷土資料館、樫村)。
9日
資料調査(倉吉博物館、坂本)。
小鴨地区ふるさと講座講師(倉吉市小鴨地区公民館、岡村)。
12日
資料編執筆者協議(鳥取県教育文化財団美和調査事務所、湯村)。
16日
シベリア抑留関係調査(公文書館、清水)。
22日
26日
28日
資料編執筆者協議(米子市教育委員会、湯村)。
29日
民俗(平家落人伝承と後醍醐天皇伝承)調査(大山町・米子市、樫村)。
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