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目次

「ち号演習」関係資料の発見

乏しい戦時関係資料と『ち号演習関係出面簿』の発見

 当館を初め、各市町村役場には先の大戦に関する公文書はほとんど残っていません。これは、終戦直前、内務省から、戦時体制に関する公文書の焼却指令が発せられ、本県下でもほぼ忠実に実行されたためです。このような状況から、戦後66年経った現在、戦時体制に県や当時の各市町村がどのように対応していったのかを知る事が極めて困難となっています。こうした中、特に旧役場文書が少ない県中部で新しい資料の発見がありました。

 きっかけは、昨夏、当室の職員が湯梨浜町宇野地区で旧宇野村役場資料を見つけたことでした。当室では、この4月から計4回にわたり、これら旧役場資料の調査を行いました。2度目の資料調査の際、白紙に覆われた公文書の綴りの表題をはぐると「ち号演習」の文字が目に飛び込んできました。この『ち号演習関係出面簿』は、県内で現在のところ唯一現存するち号演習関係資料です。

(写真1)『ち号演習関係出面簿』の真っ白な表紙の写真
(写真1)『ち号演習関係出面簿』の真っ白な表紙
(写真2)白紙をめくると現れた『ち号演習関係出面簿』の表題の写真
(写真2)白紙をめくると現れた『ち号演習関係出面簿』の表題

本県におけるち号演習

 「ち号演習」(チ号とも記される)、元来、陸海軍の秘匿作戦の名称です。これは『昭和19年7月24日捷号作戦準備下令に基づく沿岸骨幹築城作戦』のことで、敵の九州上陸を想定したものでしたが(注1)、戦況の悪化に伴い、昭和20年5月7日から、県下一斉に始まったとされています。

 具体的には中国山脈の山腹を中心に、コの字型の狙撃陣地・一人用の蛸壺・物資弾薬貯蔵庫など、約560の横穴や壕が掘られました。10月の完成を目標に米子・倉吉・鳥取の三地区を中心に、延5~60万人が総動員されましたが、鳥取地区では予定の3分の1、米子は5分の1、倉吉が8割方完了したところで終戦を迎えました。賃金は未払いで、倉吉地区だけで20万円(男2円に、女1円50銭が日当)に達したといわれています。さらに落盤事故による犠牲者や負傷者もあったといわれています(注2)。県中部に関しては高城村(現倉吉市高城)に建設された「高城飛行場」が有名ですが(注3)、ち号演習の実態は未だに不明な点が多いのが実情です。

宇野村でのち号演習の内容

 本県下ではち号演習は、昭和20年5月7日に初まったとされていますが(注4)、『ち号演習関係出面簿』、昭和20年の『役場日誌』を見ると宇野村では、5月5日から始まっていることがわかります。また、『役場日誌』には5月3日、午後1時から各常会長を集めち号演習の件で協議したとあり、さらに、翌4日には、村長が倉吉の工業学校に「チ号演習打合会」に出席していることが確認できます。

 『ち号演習関係出面簿』から、宇野村では、5月5日から14日、6月10日から6月30日、7月1日から7月25日、そして8月10、11日の4段階に分かれて、村内の各常会(当時の宇野村は6つの常会から構成されていた)から男女何名ずつかが、中隊長(5月のみ「隊長」と称し、村の有力者や村職員が担当)に引率されていたことがわかります。ただ、『役場日誌』によれば、6月10日からの演習は「義一号演習」と記されていますが、中隊長名や動員人数も『ち号演習関係出面簿』の6月10日の内容と一致します。この理由や「義一号演習」の内容も不明です。

 『ち号演習関係出面簿』によれば、5月は倉吉町(当時)の打吹山に、6月は宇野村、7月は宇野村と西郷村(現倉吉市)、そして8月は橋津村(現湯梨浜町橋津)と自村での労働だけでなく、他村へも動員されていたことがわかります。ただ、『役場日誌』によれば、6月29日に「チ号演習ハ今日から上井方面ニ毎日六名宛派遣。全員農業要員以外ノ者出動ス」とあり、必ずしも『ち号演習関係出面簿』の記述と一致しない記載も見られます。また、『ち号演習関係出面簿』には、6月29日から7月4日にかけて、男女5、6人が「長瀬集合者」と記載がありますが、これらの男女がどこへ、どのような作業に従事したのかは不明です。この他、7月13日に「チ号演習第一次終了」、翌日には「チ号演習第二次ニ着手ス」とありますが、具体的な内容は不明です。

 倉吉市では打吹山や下道山に狙撃陣などが掘られました(注5)。また、西郷村でも山に防空壕を堀り、昭和20年7月には西郷国民学校(現倉吉市立西郷小学校)の講堂を滑空機4機分の格納庫にする作業が行われました(注6)。また、橋津村では馬ノ山の遠見山に防空壕が掘られましたが、いずれも『ち号演習関係出面簿』には、各町村での具体的な作業までは記載がなく、宇野村民が実際にこれらの作業に参加したのかは不明です。

 この他、『役場日誌』によれば、6月19日には、落盤事故が起こり、負傷者が1名出ていることが記載されています。

 『役場日誌』によれば、ち号演習は、8月11日を最後に16日まで休止すると記載されていますが、休止期間内に戦争は終了し、19日には資材の取り片付けや返却が行われています。『ち号演習関係出面簿』から、8月22日にち号演習が解除されたことがわかります。その後、同年10月から翌年初めにかけて日当計算や土地、作物の精算などが行われたことがわかります。上述したように、日当は、男性が2円、女性が1円50銭とこれは、宇野村でも同様です。ただ、『ち号演習関係出面簿』の記述から動員者を引率した中隊長には、日当として3円が支払われたことが判明しました。『ち号演習関係出面簿』には、当時ち号演習に参加した男女全員の動員日数、日当が各常会毎に記載され、同年11月6日に、各常会長宛に日当が支払われた領収書が残されています。このようにしてわずか3ヶ月ばかりのち号演習は終わりを告げました。

ち号演習の痕跡をもとめて

 宇野村で行われたち号演習の作業内容を知るべく、8月12日に、伊藤泰博宇野地区公民館長さんの案内で、ち号演習で掘られたという壕を案内していただきました。宇野地区の西外れにある山の中腹付近に確かに「防空壕」がありました。片方の穴はふさがれていましたが(写真3参照)、その穴の反対側、十数メートルの所に貫通穴が残っていました。こちらの穴はふさがれていませんでしたが、容易に立ち入りが出来ないよう枯竹でふさいでありました(写真4参照)。

(写真3)ふさがれた防空壕入口付近の写真
(写真3)ふさがれた防空壕入口付近
(写真4)今も残る防空壕の貫通穴の写真
(写真4)今も残る防空壕の貫通穴

 その後、宇野地区公民館で月2回、行われている「ほのぼの会」に参加させていただき、実際にち号演習に参加された松浦八重野さん(95歳)、木村恒男さん(84歳)にお話しを聞くことができました。お二人とも「防空壕を掘る」と聞かされていたとのことでした。松浦さんは、作業がとてもきつかったこと、木村さんは山腹に壕を掘ることから「防空壕」ではなく、食糧貯蔵や弾薬保管が目的の壕ではなかったかと当時から思っていたと語ってくれました。お二人とも日当を受け取った記憶はなく、あるいは常会費に補填されたかもしれないとのお話しでした。

 今後も調査を続け、現在でも不明な点の多いち号演習の実態を明らかにしたいと思っています。

 旧宇野村役場文書にはこの他にも戦中・戦後盛んに行われた松根油の採取や製塩に関する文書も残っています。これについても今後の県史だよりで紹介したいと思います。

(注1)山根淳「チ号演習・ホ号演習」『子と孫に伝えたいふるさとの終戦秘話』(ふるさとの終戦秘話を語る会、2006年)25~27頁。

(注2)『鳥取県史 近代 第2巻 政治篇』(鳥取県、1969年)634頁、『鳥取県史 近代 第4巻 社会篇』(鳥取県、1969年)278頁。

(注3)『鳥取県史 近代 第2巻 政治篇』(鳥取県、1969年)634頁、『高城史』(高城史編纂委員会、1998年)166~167頁。

(注4)上記引用書の他、松尾茂著『鳥取昭和史―新聞にみる世相―』(国書刊行会、1975年)80~82頁及び『新聞に見る山陰の世相百年』(山陰中央新報社、1982年)418頁。

(注5)『西郷誌』(西郷誌編集委員会、1998年)103~104頁、『羽合町史 後編』673頁。

(注6)『西郷―西郷小学校創立100年誌』(西郷小学校教育振興会、1974年)42頁。

(清水太郎)

活動日誌:2011(平成23)年7月

2日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
5日
新鳥取県史編さん専門部会(現代)開催。
7日
資料調査(湯梨浜町宇野地区公民館、清水・大川・足田)。
遺物調査(むきばんだ史跡公園、湯村)。
民俗調査(岩美町網代、樫村)。
12日
民具調査(~13日、日南町印賀・霞、樫村)。
14日
古墳測量地元協議・現地確認(倉吉市教育委員会・湯梨浜町橋津、湯村)。
16日
中世史料調査(鳥取市歴史博物館、岡村)。
21日
『新鳥取県史資料編 近世1東伯耆』掲載資料検討会開催。
資料調査(湯梨浜町宇野地区公民館・琴浦町逢束自治公民館、清水・大川・足田)。
22日
新鳥取県史編さん専門部会(近世)。
23日
古墳測量地権者交渉(湯梨浜町光吉、湯村)。
25日
古墳測量地権者交渉(湯梨浜町橋津、湯村)。
27日
古墳測量地元協議・現地確認(県中部総合事務所・倉吉市巌城、湯村)。
28日
資料調査(~29日、国立公文書館、清水・大川)。
古墳測量地権者交渉(湯梨浜町野花・長和田、湯村)。

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編集後記

 今回は、太平洋戦争が終わった8月にあわせて、戦時下、一般国民を動員した「ち号演習」についての記事です。偶然発見された資料から戦時下の状況がよくわかります。また貴重な証言がとれたことや、「ち号演習」で作られた防空壕の位置やその遺構を確認できたことも大きな成果です。

 今回は近代担当が執筆する番でしたが、終戦の月に合わせて現代担当の記事としました。また今回の記事は調査活動の報告を含むため、「最近の活動から」はお休みします。

(樫村)

  

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