防災・危機管理情報


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昭和20年の総動員 ち号演習と高城飛行場

 戦後70年を迎える今年は、テレビや新聞などで戦争関連の特集が多く組まれました。米子市立図書館の米子空襲や大山口列車空襲、永安丸の爆撃に関する展示、鳥取市歴史博物館の鳥取連隊や風船爆弾に関する展示などにより、新たな戦争被害の実態も分かってきました。

 一方、県民60万人が動員されたとされる「ち号演習」と延べ12万人が動員されたとされる「高城飛行場」の建設作業については、戦争中のつらい作業として多くの人々の記憶に残り、各種の手記にも記されていますが、軍事動員という性質のためか同時代の史料に乏しく、不明な点も多く残されています。

 このたび8月23日に倉吉博物館の主催講座でこの2つの大動員について報告する機会を得ました。準備の過程でいくつか新たな発見がありましたので、ご紹介します。

  • ち号演習~本土決戦のための陣地構築

外江村「勤労義勇隊チ号演習出動人名簿」

 「ち号演習」関係資料については、以前ご紹介した宇野村役場『ち号演習関係出面簿』以外にも、尚徳村役場『ち号義号演習出動表』が知られています。昭和20年5月28日から8月上旬まで延べ男1431人・女1763人が、幡郷村の越敷山(現伯耆町)に出動しています(注1) 。しかし、これらの資料は村人の参加者名簿で、チ号演習全体の動員計画や指揮命令系統は不明のままでした。

 今回、以前調査を行った外江村役場資料『勤労義勇隊チ号演習出動人名簿』(境港市立図書館所蔵)の内容をあらためて確認したところ、昭和20年4月に作成された「勤労義勇隊動員要綱」という資料により、演習の実働組織として「勤労義勇隊」が全県的に編成されていたことが判明しました(注2)


勤労義勇隊チ号演習出動人名簿の写真
勤労義勇隊チ号演習出動人名簿の写真

勤労義勇隊の編成

 「動員要綱」は冒頭、勤労義勇隊結成の趣旨として「時に第二次チ号演習の実施せらるゝにあひ、県民挙り起ちて忠誠心をたぎらせ勤労義勇隊を組織動員」し、「政府に於て結成を期待せる国民義勇隊の精神的基盤を錬成せん」と述べます。ここに出てくる「国民義勇隊」とは、昭和20年3月19日政府において閣議決定した本土決戦のための国民総動員組織で、地域や職場ごとに編成し、空襲被害の復旧のほか陣地構築や兵器弾薬糧秣(りょうまつ)の補給など「軍ノ作戦行動二対スル補助」を行うものとされていました。鳥取県ではこの国民義勇隊の編成に先立ち、ち号演習動員に特化した組織を「勤労義勇隊」という名で編成したのです。

動員計画

 勤労義勇隊の動員対象者は国民義勇隊と同様、男子(15~65才)・女子(15~45才)で、動員期間は4月下旬から6月末まで。一般土木作業者約7千名・運搬作業者約2千名が毎日参加する計画でした。指揮命令は県・地区・郡・市ごとにおかれた動員本部を通じて行われ、市町村支部長(市町村長が兼務)が部落会や町内会ごとに30名を一単位とする作業班を編成し送出しました。一日の作業手当として、男性2円、女性は1円50銭が支給されることになっていて、宇野村や尚徳村に残された「出面簿」は、市町村から鳥取地区司令部に送付されたこの手当の月締めの請求書の根拠資料として作成されたものだったのです。

県内6ブロックで陣地構築

 では、県内の人々はどこで作業を行ったのでしょう。県史は「中国山脈の山腹を中心に、コの字型の狙撃陣地・一人用の蛸壺・物資弾薬貯蔵庫などを建設」(注3)と記しますが、「動員要綱」とその関係通知によれば、県内が6地区に区分され、それぞれのブロック毎に主要な作業場所が決められていたものと推定されます。(図表参照)。昭和20年7月28日の大山口列車空襲の死亡者には「ち号演習」の動員者が含まれていますが、いずれも西伯郡(旧大山町・名和町)の方で東伯郡以東の方が含まれないのは、このブロックわけによるものと考えられます(注4)

 県史の「中国山脈」という表現は適切ではなく、海岸から10キロ以内に位置する丘陵の山腹に、狙撃陣地や武器・弾薬・燃料の保管場所として横穴や壕が掘られました(注5) 。横穴の天井や壁面は山から切り出した生板で補強され、『子と孫に伝えたいふるさとの終戦秘話』には、淀江の製材所から宇田川山の作業陣地までの運搬の山道の苛酷さが記されています(注6)

表 「ち号演習」のブロック別動員範囲と主な動員場所
「ち号演習」のブロック別動員範囲と主な動員場所

チ号演習地区別地図
出典:昭和20年4月30日付「勤労義勇隊幹部集合場所変更ニ関スル件」(『勤労義勇隊チ号演習出動人名簿』)及び各市町村誌のち号演習関係記述一覧から作成
  • 高城飛行場~本土決戦に備える秘匿飛行場建設

 ち号演習以上に同時代資料が少ないのが、昭和20年に倉吉の高城地区に建設された高城飛行場です。県史は昭和21年8月の新聞記事(注7)をもとに、「県民の空しい労働奉仕に頼ったものに、東伯郡高城飛行場がある。郡民12万人を動員して、田地20町歩の整地が終り、一番機が着陸したのが8月であった。かくて6月11日から始められた突貫工事は、無用の広場と化したのであった」と記すのみです。

 戦後50年に出された倉吉市報の特集記事や地元の人たちの証言に基づく記録集等によれば、昭和20年5月6日に高城村役場で軍人による飛行場建設命令が出され、建物疎開と高城小学校生徒を動員した麦刈りが開始。6月11日から建設作業が本格化し、国府河原の石の運搬と地ならし作業が8月10日頃まで続きました。また付属施設として、飛行機の格納庫、燃料物資の貯蔵穴が周囲の山裾に造られました。指揮には航空総軍の将校と数名の軍人があたり、旧社村青年学校の日輪校舎が現地動員本部として利用されました(注8)

秘匿飛行場の1つ

 地元に残された資料は乏しいため、国会図書館や防衛研究所戦史研究センターなどの資料を調査したところ、高城飛行場が本土決戦に備えて秘密裡に建設が進められた秘匿飛行場の一つだったことがわかりました。「秘匿飛行場」とは、米軍の空襲を避けるため飛行場それ自体を秘匿するという考えのもとに急ピッチで建設が進められたもので(注9) 、20年4月以後全国で38の秘匿飛行場の建設が進められました(注10)。倉吉飛行場の建設命令は、昭和20年5月28日に航空総軍から出されていることも分かりました(注11)

 ところで、大山村所子村から飛行場建設に参加した人の体験談によると、参加者の多くは年配者や主婦で、西倉吉駅まで汽車(運賃は無料)で行き、そこから徒歩で現場まで移動。人員報告、作業内容説明、用具配給、作業班編成が行われました(注12) 。ブロック単位の動員だったち号演習と異なり、高城飛行場への動員は郡をまたいで、全県的に行われていたようです。

 このように県民を大動員して建設された秘匿飛行場でしたが、8月6日には米軍の写真偵察機により上空から撮影されていたことが記録に残っています(注13)

おわりに

 今回の調査により、「ち号演習」は国民義勇隊の創設に先立って本県で独自に編成された「勤労義勇隊」による県・郡・市町村を一貫した動員だったことが明らかとなりました。また、「高城飛行場」は航空機や航空資材を秘匿・分散配置するために選定された県内唯一の秘匿飛行場だったことも明らかとなりました。

 終戦間際の2つの大動員は多くの人々の記憶に刻み込まれてきました。今後も史料調査を継続し、「銃後」が「前線」に変わろうとしていた終戦末期の状況を浮き彫りにしていきたいと思います。

(注1)『新修米子市史』通史編近代(米子市史編さん協議会、2007年)77ページ

(注2)『勤労義勇隊チ号演習出動人名簿』の内容の一部は、『境港市五十五周年史』(境港市、2013年)にも翻刻掲載されています。

(注3)『鳥取県史』近代政治篇、634ページ

(注4)『鳥取県の戦災記録』(鳥取県の戦災を記録する会、1982年)455ページ

(注5)越敷山の「ち号演習」跡については、『越敷山古墳群・金廻芦谷平遺跡発掘調査現地説明会資料』(米子市埋蔵文化財センター)を参照。2015年現在、ホームページでも閲覧可能。

(注6)『子と孫に伝えたいふるさとの終戦秘話』(ふるさとの終戦秘話を語る会、2004年)

(注7)大阪毎日新聞鳥取版昭和21年8月14日

(注8)「市報くらよし」(平成7年8月1日号)、『高城史』(平成10年)、『久米中学校創立50周年記念誌』。なお、『朝鮮人強制連行調査の記録(中国編)』には、高城飛行場の物資保管庫と想定される隧道工事に京阪神や岡山方面からの朝鮮人労働者が携わったことが記録されている。

(注9)「本土沿岸防備陣地配置地点及兵力」(防衛研究所戦史研究センター蔵)

(注10)「昭和21年12月本土航空作戦記録」(国会図書館蔵)

(注11)「航空総軍後方関係命令綴」(防衛研究所戦史研究センター蔵)

(注12)『大山町史』S55、p595

(注13)『米軍の写真偵察と日本空襲』(工藤洋三、2011)

(西村芳将)

活動日誌:2015(平成27)年7月

2日
資料調査(江府町歴史民俗資料館、樫村)。
3日
史料調査(用瀬町個人宅、渡邉)。
4日
資料調査(~7日、秋田県内、前田)。
7日
史料調査(鳥取市古市個人宅・鳥取大学附属図書館、渡邉)。
9日
10日
資料調査(湯梨浜町羽合歴史民俗資料館、湯村)。
11日
近代部会(公文書館会議室)。
12日
現代部会(公文書館会議室)。
13日
調査データに関する協議(江府町教育委員会、樫村)。
14日
出前講座(鹿野町中央公民館、岡村)。
史料借用(用瀬町個人宅、渡邉)。
出前講座(白兎会館、前田)。
15日
遺物借用(鳥取県立博物館、湯村)。
史料調査(大雲院、渡邉)。
16日
資料調査(むきばんだ史跡公園、湯村)。
資料調査(倉吉博物館等、樫村)。
17日
資料調査(県立図書館、前田)。
18日
資料調査(大神山神社本社、前田)。
21日
22日
県史編さんにかかる協議(埋蔵文化財センター、岡村・湯村)。
23日
銅鐸等の運送(県内~奈良文化財研究所、湯村)。
史料調査(鹿野町、渡邉)。
民具資料調査(賀露地区公民館、樫村)。
24日
資料の開梱等(奈良文化財研究所、湯村)。
26日
資料調査(豊岡市等、樫村)。
27日
史料調査(東京都立中央図書館、国立公文書館、渡邉)。
28日
史料調査(国立国会図書館、渡邉)。
29日
遺物返却(北栄町歴史民俗資料館・南部町教育委員会、湯村)。
31日
資料調査(湯梨浜町羽合歴史民俗資料館、湯村)。
義勇軍関係取材対応(敬愛高等学校、西村)。

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編集後記

 今回は70年前、戦時下についての記事です。私事ですが、1991(平成3)年、大学で民俗学を学び始めた私は長野県北佐久郡立科町で民俗調査実習に参加し、本格的な聞き取り調査を初めて経験しました。聞き取りがまだまだ下手なこともあり、担当の信仰について聞いていたはずが、いつの間にか戦争中や戦地での苦労話になってしまったことが幾度もあったことを思い出します。戦後70年がたち、戦争に関する証言を聞くことはあまりなくなりました。戦争については聞くものではなく、資料を読むものになりつつあります。貴重な資料を後世に伝えていくことが、さらに求められる時代になってきています。

(樫村)

  

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