平成24年のホトホト行事
2012(平成24)年2月4日(土)に日野町菅福(すげふく)地区で行われているホトホト行事の調査を実施しました。
日野町菅福地区のホトホト行事は、蓑(みの)笠(かさ)を身につけた人たちが、厄年を迎えた61才、42才の人がいる家々の厄災を払うために御札と縁起物のわら細工を持って訪れ、その御礼として酒や祝儀をもらって帰る行事です。また厄年を迎えた家々の人はホトホトの一行に冷水を浴びせることで厄落としますが、それが楽しみになっています。
「ホトホト」という言葉は、菅福地区では戸を開けるときの音だと言います。蓑笠の一行が行事の間、「ホトホト、ホトホト」と口ずさみますが、これは訪れを家々に知らせるためです。
江戸時代から続けられてきたといわれる行事でしたが、高度経済成長期に一度途絶えてしまいました。しかし地域の良き伝統文化を掘り起こし、後世に受け継いでいこうと、2002(平成14)年に復活させたそうです。
現在のホトホト行事は、時系列に写真を並べてみると以下のような流れで行われています。
1 ホトホトの一行が蓑笠(みのかさ)を身につけて厄年の人がいる家に厄除けのお札などをもっていく。
2 竹ぞうきに入れられた厄年の家に届けられる厄除けのお札、藁馬と注連縄(しめなわ)。かつては藁馬だけではなく、鶴亀などのわら細工も届けられたという。
3 「ホトホト、ホトホト」と唱えながら厄年の家に向かう。
4 厄年の家にお札などを届ける。
5 厄除けのお札と藁馬を受けとった池座仁さん。池座さんは、数えで厄年を迎えた。今年、日野町菅福地区では、61才の厄年が3人、42才の厄年が3人あり、その家々をホトホトの一行が訪れる。
6 お札など届けると、厄年の家から一時立ち去る。
7 厄年の家は、お札などのお返しに祝儀やお酒を竹ぞうきに入れる。
8 「ホトホト、ホトホト」と唱えながら再び訪れた一行。
9 祝儀を受け取る。
10 祝儀を受け取って立ち去ろうとする。
11 立ち去ろうとすると一斉に冷水を打ちかける。この水かけによって厄年の厄が落ちるという。
12 さらに冷水を打ちかける。全身ずぶ濡れになって立ち去っていく。
13 そしてお札や藁馬をもって、次の厄年の家に向かっていく。
鳥取県内のホトホト行事
ホトホトは、かつて鳥取県内で広く行われていた行事です。正月14日、あるいは15日の夜に、子どもや青年などが手ぬぐいで「頬被(ほおかぶ)り」などをして顔を隠し、箕や笠をつけて各戸をまわり、門口(かどぐち)で「ホトホト」と言い、餅や金銭をもらう行事でした。
因幡地方(鳥取県東部)では次のような事例があります。
智頭町(ちづちょう)上板井原(かみいたいばら)では、子どもが旧1月14日、夕食の後、各戸を開けて「ホトホト、ホトホト」というと餅をくれました。もらった餅は、村の若いもん宿に持ち寄ってあぶって食べたといいます(注1)。
伯耆地方(鳥取県中西部)では次のような事例があります。
青年、男児が藁で作った馬、牛の綱、あるいは銭緡(ぜにさし)(注2)などを持って各家を訪問し、入り口で小さな作り声で「ホトホト、ホトホト」というと、各家では盆に餅(もち)や銭を載せて出し与えてくれます。餅や銭を与える側は声の主が誰か当てようとし、訪問する側は見破られないことを手柄とします。そして通例は、与える側がそっと水を汲んできて不意に打ちかけ、びっくりする地声を聞いて見破ろうとする行事であったそうです。時には手桶一杯の水をうまく打ち掛けたと思ったところ、それは小さい子どもで、泣き声を出して逃げていったこともあったといいます (注3)。
ホトホト行事の意味と子ども
ホトホトのような貰い物をする訪問者の習俗は全国にあり、九州には子どもたちが小正月に各家を訪問する「トベトベ」とか「タビタビ」と呼ばれる行事があります。この呼称は「給(た)べ」(注4)つまり「下さい」という言葉から来ているといいます。このような行事は小正月だけではなく、各地にあり、これについて柳田國男(やなぎた くにお)(注5)は次のように述べています。
(文意)
後には単に物を貰うためのみに歩くようになったが、以前はホトホトなどのように、家々にとって大切で、その幸福のために欠かせない任務を子どもたちが果たしたので、物はこれに対する報酬(ほうしゅう)に過ぎなかった(注6) 。
そして七歳になるまで子どもは神さまという地方もある。日本の神祭に伴う儀式でも童児(わらべじ)でなければ勤められない任務があり、ホトホトという戸を叩いて、神の詞(ことば)を述べ神の恵みを伝え来る役も、古くから子どもにさせた地方もあった(注7)。
日野町のホトホトは、厄年の人に厄払いのお札など届け、厄払いの役目を果たし、その報酬として祝儀や酒などを受け取っており、神の恵みを伝える役割を果たしている点で古風を伝えている行事といえます。
しかし、日野町のホトホトは青年の行事ですが、柳田は本来ホトホトは子どもの行事と想定していたようです。一方、前述の智頭町のホトホトは柳田の想定どおり子どもが参加する行事ですが、必ずしも神の恵みを伝える役割を十分果たしておらず、これについては総合してさらに検討すべきでしょう。
ホトホト衰退の理由
ホトホトは、かつては鳥取県内に広く分布していたようですが、ほとんど消滅してしまいました。この理由は何でしょうか。
ホトホトのような行事が、急速に姿を消していったのは明治時代の早い時期といいます。それには1872(明治5)年の学制公布直後から近年にいたるまで画一化された学校制度の影響が大きいと言います (注8)。
最も考えられるのは、ホトホト行事のような活動が非「教育的」であるという学校側の考えによる規制、抑圧があったためと考えられます。ホトホト行事の中心となる信仰的要素は、大部分が神社信仰ではなく、より呪術(じゅじゅつ)的なものです。そのことは、国家にとってみれば、子どもたちが、淫祠(いんし)(注9)邪教(じゃきょう)迷信(めいしん)の類に関係することであり、速やかに排除されるべきものでした。また行事執行に際して、各家をまわって金銭や餅、米をもらい集めたり、通行人から同様にもらう行為が、乞食同様の醜悪(しゅうあく)な行為とみなされました (注10)。
智頭町上板井原の子どもたちが行ったホトホトは、1915、6(大正4、5)年ごろ小学校の先生に現場を見つかり、ホイト(乞食)みたいなことをするなと叱られ、それ以後しなくなったといいます (注11)。またホトホトについて、鳥取県西部の村是(そんぜ)(注12)報告書には、「教育の普及に従ひ其悪習なることを覚り、近来全く跡を絶ちたり」とあり (注13)、村是が多く編さんされた明治後期から大正初期には、多くが悪習として消滅していたことになるでしょう。
ホトホトの再評価
ホトホトは、明治後期から大正時代に教育上悪い習俗とされ衰退し、わずかに継承していた地域でも高度経済成長以後ほとんど途絶えてしまいました。
その中で、日野町菅福地区のようにホトホトを地域の良き伝統文化として再興し、後世に受け継いでいこうという、今までとは真逆の評価が起こっていることは興味深いといえます。これは地域の中の暮らしとは何か、伝統文化とは何かを再考するための興味深い事例であることは間違いありません。
(注1)智頭町誌編さん委員会『智頭町誌』下巻(智頭町、2000年)670頁。
(注2)銭緡とは、穴あき銭をまとめておくための、藁や麻のひも。
(注3) 柳田國男『小さき者の声』(1933年、《『柳田国男全集』7、筑摩書房、1998年、113~114頁》)。
(注4)柳田國男は、旅という言葉は、旅にて食料や寝床を確保するために、道沿いの民家に交易を求める(物乞いをする)際に、「給べ(たべ)」(「給ふ〔たまう〕」の謙譲語)といっていたことが語源であると述べている。柳田國男『豆の葉と太陽』(1941年、『柳田国男全集』12、筑摩書房、1998年、201頁)。
(注5)柳田國男(1875~1962年)は、日本民俗学の創始者。兵庫県福崎町生まれ、大学では農政学を学び、卒業後は農商務省の官僚として全国の農山村を視察する中で、民俗学という学問の必要性を感じ、『遠野物語』、『後狩詞記』を執筆。郷土会をはじめ、雑誌「郷土研究」を創刊、民俗学が独自の領域と主張を持つ基礎をつくった。昭和初期には民俗学をほぼ確立、昭和30年代初頭まで民俗学の発展に力を尽くした。
(注6)前掲柳田、1933年、112頁。
(注7)前掲柳田、1933年、113~114頁。
(注8)福田アジオ『時間の民俗・空間の民俗』(木耳社、1989年)230頁。
(注9)いかがわしいものを信じて祭ること。
(注10)前掲福田、233頁。
(注11)前掲智頭町誌編さん委員会、670頁。
(注12)明治後半から大正初期を中心に全国で作成された、郡や村の調査報告書。
(注13)前掲柳田、1933年、112頁。
(参考文献)鳥取県『子どもと地域社会-鳥取の民俗再発見-』(鳥取県、2010年)。
(樫村賢二)
7日
資料調査(公文書館、小山委員)。
8日
11日
資料調査(鳥取市立河原第一小学校、清水)。
12日
民具(倉吉千刃)調査(倉吉博物館、樫村)。
14日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
16日
資料調査(公文書館、岸本委員)。
19日
民具(モバ採集用具)調査(松江市八束支所、樫村)。
23日
県史事業に係る協議(北栄町、岡村)。
25日
30日
民具(倉吉千刃)調査(倉吉博物館、樫村)。
★「県史だより」一覧にもどる
★「第71回県史だより」詳細を見る