遺跡を発掘すると、たくさんの遺物(いぶつ)が出土します。土器、鉄器、青銅器、石器、木器など、さまざまなものがあり、これらを基に過去の暮らしぶりを復元することができます。
しかし、出土した遺物が何に使われたのか、分からない場合もあります。今回は、「地下の弥生博物館」と呼ばれる青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)の遺物から、そんな「謎の遺物」について思いを巡らせてみようと思います。
粘土玉のなぞ
写真1は径3センチメートルほどの粘土玉に穴を開けて、木の枝を細く削って環状に通したものです。通常の遺跡では木や骨などは腐ってしまい残らないため、粘土玉だけが出土することが多く、こうした穴の開いた粘土玉は魚を捕るための網につけるおもりだと考えられていました。ところが青谷上寺地遺跡では湿った土にパックされていたためか、木の枝の輪が残っており、しかも粘土玉ひとつひとつに輪が通してあることが分かり、どうも網のおもりではないということが分かりました。さらに土器の壺のなかに粘土玉がたくさん入っている事例も見つかり(写真2)、粘土玉は複数で使われたものではないかと推定できるようになりました。
私は、この粘土玉が大量に見つかり、かつ大きさもそろっていることから、数を数えたり、数を表したりするものではないかと思っています。
写真1
写真2
石の棒のなぞ
次に写真3を見てみましょう。石を磨いて棒のような形を作り、うすく仕上げた上の方には穴を開けています。当初これは、銅鐸(どうたく)の内側にぶら下げて音を鳴らすための舌(ぜつ)だと考えました。ところが舌であれば、表面がすり減ったり傷がついたりするはずですが、詳しく見てもそのような痕跡はありません。どうも舌ではないようです。もしかすると銅鐸そのものの形をコピーした製品ではないかとも考えました。銅鐸のミニチュアを粘土で作った事例が全国的に知られているからです。
写真3
はかりのおもり?
しかし近年、このような遺物が別の視点で評価されています。それは古代中国や朝鮮半島に事例がある、権(けん)と呼ばれる「はかりのおもり」ではないかという意見です。
「謎の遺物」の正体
青谷上寺地遺跡は、古代中国や朝鮮半島、さらに国内の諸地域の品々が出土する、海上交易の拠点です。こうした交易拠点には様々な物資が集散するため、数の管理がどうしても必要になります。「謎の遺物」は、交易を支えた重要な遺物である可能性が高いのです。
発掘調査の醍醐味は、様々な出土遺物から過去の様子を解明することにありますが、何に使われたか分からない「謎の遺物」に、あれこれと想像を巡らせるのも楽しみのひとつです。
※写真提供:鳥取県埋蔵文化財センター
(湯村 功)
5日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取市、渡邉)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
9日
10日
千刃及び写真資料調査(米子市立山陰歴史館・松江市本庄町、樫村)。
12日
15日
古墳測量の地元関係者協議(中部総合事務所、湯村)。
16日
資料調査(県立博物館、湯村)。
17日
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
古墳測量の打ち合わせ及び現地確認(湯梨浜町教育委員会、古墳現地、湯村)。
21日
22日
23日
古墳測量事前協議(湯梨浜町教育委員会、湯村)。
24日
資料借用(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
26日
資料調査(国立国会図書館、西村)。
30日
門脇家(大山町)訪問(大山町、渡邉)。
31日
資料調査(倉吉千刃)(鳥取市佐治歴史民俗資料館、樫村)。
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