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戦時下の国民登録と勤労動員

はじめに

 過日国政選挙がありました。「この一票がわたしたちの幸せに資する一票となりますように」と願い、私も一票を投じさせてもらったところです。
 さて、「国家(政府)は国民のために存在するもの」という考え方は、現在の日本では一般的に認識され、広く浸透している考え方だと思います。しかし今でも一歩海外へ出れば、それは当たり前のことではなく、日本も70年ほど遡れば、また事情が違っていました。

 今回は、こうした国家と国民の「あいだ」にまつわる資料を2つ紹介しようと思います

登録される国民

 近代部会の調査資料に当館所蔵の「旧大山村役場資料」があります。一つめはその中の簿冊『昭和19年労務動態関係綴』に綴じてある「国民登録指導員必携」という手引書を紹介します。簿冊の綴込み方から、昭和19年2月頃に使われたものと考えられます。

簿冊写真
簿冊『昭和19年労務動態関係綴』

 戦時中の日本では、国家総動員法に基づき国民の職業能力登録制度がつくられていました。この制度はもともと国の動員業務に国民を徴用する目的でつくられましたが、次第に拡張され、この頃までには政府指定の工場・事業場その他施設での総動員業務にまで徴用できることとなっていました(注1)

 この制度の下、村レベルで登録制度を実働・徹底させていたのが国民登録指導員です。

 国民登録指導員は名誉職で地方長官から任命される。市町村の区域毎に設置せられ、市区町村長又は国民勤労動員署長の指揮監督の下に、同補助員の協力を得て国民登録票用紙の配布及び蒐集、主旨の普及徹底等の事務に従事するものである。

 手引中にある記入心得・注意事項は長文で細かい指示があり、多くの一般村民は指導員の付添がないとなかなか正確に記入をすることは難しかったのではないかと思われます。もしかすると指導員は地区の一軒一軒をまわり、登録票を揃えていたのかもしれません。

国民登録徹底の背景

 この国民登録はなぜここまで徹底され、一人一人細かく調べ上げられたのでしょうか?

 戦争の目的完遂の為には、(中略)国民の一人一人を国家の必要とする職域に挺身奉公(ていしんほうこう)せしめ、其の「働き得る能力」を完全に発揮せしめねばならぬ。(中略)国民職業能力令を改正し、「働き得る能力」を有する国民全般を登録し、以て決戦下の国民動員体制の完璧(かんぺき)を期する…

 このころ、戦線は絶対国防圏まで退き、国内では労働力が絶対的に不足するという、まさに国家は苦境に立たされている状況でした。

 追い詰められた政府は、労働力となり得る国民全てをその身体・精神の状況まで細かく調べてデータ登録し、その能力に応じた労働を強制的に割り当てようとしたのです(注2)

 こうした事実に、我々は何を学べるでしょうか。政府が国民の情報をある程度把握することは必要なことですが、どこまでの情報把握を許容し、かつその情報が何にどう使われるのか、現代に生きる我々は今一度敏感にならなければいけないのではないでしょうか。国家と国民個人の「あいだ」に適切な関係・距離をどう築いていくかあらためて考えること、それも過去に学ぶことの一つなのだと思いました。

勤労動員された一隊長のこと

 二つ目は、昭和19年に勤労動員で大山村から福岡県に坑夫として送り出されていた人物(仮にAさんとします)と当時の大山村役場との間で交わされた手紙等一連の資料10点です。同じ『労務動態関係綴』の資料ですが、事務文書が大半の役場資料にあって、一個人の率直な思いや苦労がつぶさに語られている資料がみられるのは大変珍しいです。

(4月29日ごろ、1通目の手紙、Aさん→大山村役場)

偖(さ)て小生等の任勤期間も折迫致後十日位の折柄、昨日舎監より後一ヶ月の延期云々の座談的申渡之有り(中略)隊員(所子、庄内、名和、高麗、淀江、宇田川)各人共非常に困却致居り(中略)何等かの理由によって一旦小生を帰して貰って話をすれば好都合と思いますので、小生宛事故名義か何かで帰して貰う方法を取って戴けば…

 Aさんは大山村からのある勤労協力隊の隊長を任されていました。Aさんたちの協力隊は無事に任勤期間を終えたものの、交代要員が決まらず、動員先の会社から期間延長の命令が出たようです。困り果てた隊員を前にAさんは、一度村に帰って交代要員を見つけ何としても現隊員を帰村させたい、と役場に援助を頼みました。手紙には、事故か何かの理由をつけた帰村要請書類を作ってほしい(注3)、とあります。依頼を受けた役場も早速米子の「勤労動員署」(注4)に帰還命令を要請しており、このあたりは見事な村民と村役場の連携プレーです。

(4月29日ごろ、同日2通目の手紙、Aさん→大山村役場)

 五月末迄延期との云渡を受るも当山としては役場より家事上是非必要と認められ五月九日迄是非共帰還方申請さへあれば帰すとのことです。(中略)皆其々各町村より打電して貰って帰って居ります状況で真面目に勤めたら又々でも延期致す間敷き状況です。

 Aさんたちは同時に、会社と延長取消しを求めた交渉を行ったようです。その結果、役場が必要と認めれば止むを得ない措置として帰す、との回答を得ました。そのため、村からの電報を送ってほしい、といったこの日2通目の手紙を役場に送り、役場もそれに応えて、5月1日付で会社側に以下の電報を送っています。

A B(Aさんと同じ大山村出身の動員者) 
5ツキ(5月) 9ヒ(9日) カイヤク タノム       
トットリケン サイハクグン ダイセン ソンテフ(村長)

 このやりとりから、当時の村役場がAさんからのSOSに迅速に対応していることがわかります。村民と役場の距離の近さがうかがえます。しかし、一方でAさんはこの時の心境をこうも書いています。

悪い籤を引当て、小生も困却致して居ります。何分隊員の選出方法も各市町村によって異なって居まして、唯町村の顔立てとか、すぐ帰ってこいとか云って来させて居るもありますので、其の統制をとるため、実際泣きたいくらいです。

 国家による大動員の実行と、一村民生活を守ることとの「あいだ」にいる現場の長に「泣きたい」ほどのしわ寄せがいっている。組織と個人との板挟みになるAさんのような人は、いつの時代、どの組織問わず存在するものなのかと思いあたるのは私だけでしょうか。

Aさんのその後

(5月2日、Aさん→大山村役場)

 現在、宮崎県は(中略)隊長一人宮崎県へ帰県致し、動員署並びに関係各町村と連絡を取りし処、(中略)全員帰国致し、目下一人も滞在者なき状況。尚徳島県も連絡を取りし処、左同様の意見にて、同県は5月6日には確実に帰る都合となっています。

 Aさんのような役を担った人は、他県出身者にも相当数いたのだと思われます。こうした人々の奔走のかいあって、宮崎や徳島の隊では数日後の帰村が叶っています。さて、鳥取の状況はどうだったのでしょうか。

(徳島 六日全員帰ル 官電 来タ 鳥取 ナゼ デヌ) 
回答  一ヶ月延期ニナッタ事ハ勤労署ニ於テモ良く承知致シテ居ル (中略)併シ 先方ノ立場モ考ヘモ見 又 農村ノ立場モ顧ミ 
(中略) 貴殿ヨリ当縣アテ折衝アリタシ 尚縣ノ指示ニ基ヅキ 
廠支(へいし) 余ハ承知ス            労務課長

 5月2日に監督署から役場に返ってきた電文は「事情は理解しているが、直接県庁に問い合わせてくれ。県の指示があれば動く(注5)」という、何とも煮え切らないものでした。結局村の電報だけでは解決をみず、他県の者が帰郷し人が少なくなる中で、Aさんがこの報を受け愕然としたであろう様は察するに余りあります。残念ながら、この後Aさん達がいつ帰村できたのか、手紙や電報はこれ以上綴られておらず、この簿冊からはわかりません。

おわりに

 高校現場を離れて早や4ヶ月。日々資料の海の中で溺れもがく毎日ですが、手にとる資料の一冊一冊が、何かしらのメッセージを伝えてきている気がしています。

 今回は、国家による国民情報の管理といった大きなテーマと、国家による権力的な労務配置の中でもがく一人の人物をそのままとりあげました。

 特に私が着眼したのは、戦争中に生きた人のもつ「意識・感覚」です。たとえば、勤労動員について、高等学校教科書の記述からでは「動員された側」の心のありようを把握するのは不可能ですが、今回のような資料にアクセスできれば、動員者の低い労働モチベーションなど、表面では読みとりづらい現場の実態なども生々しく伝えることができたりします。これが原資料のもつ力です。

 これからも、アンテナを高くして、資料が発信している「現代に生かせる教訓」を様々な人へ伝えていければ、と思っています。

(注1)『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』(法政大学原社会問題研究所 1964年)。

(注2)同綴の紙背資料には勤労先の企業が作成した動員者の検査証が綴じられており、身長体重をはじめ弁色力、欠歯・冠歯・義歯の本数、内臓の状態までに至る詳細な個人データを企業側が把握していたことがわかる。

(注3)昭和19年「国民登録事務取扱要項」(鳥取県立公文書館蔵)によると、動員には病気による帰郷が認められている。

(注4)国民勤労動員署のこと。1944年3月、国民職業指導所から改称され、国民登録票の保管整理、徴用関係の事務を行った。

(注5)当時、県庁には大政翼賛会県支部事務局が置かれており、その中に勤労報国隊指導本部があった。

(謝辞)この稿を書くにあたり、近代部会の田村委員、岩佐調査委員には多くのご助言を戴きました。この場を借りてお礼申し上げます。

(前田孝行)

資料紹介【第2回】

翼賛因伯67号(昭和18年10月5日号・旧大山村役場所蔵)

廃品回収の写真 

 「翼賛因伯」は大政翼賛会鳥取県支部が発行した広報誌です。ここには、昭和18年の鳥取大地震後、家屋を失った住民に廃品を「一片でも放棄せず」「戦力増強に供せ」と呼びかけています。非常災害をも戦時体制づくりに利用していたさまがよくわかります。

活動日誌:2013(平成25)年6月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
3日
資料編執筆交渉(埋蔵文化財センター大山調査事務所・青谷調査事務所、湯村)。
5日
史料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
6日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館、樫村)。
9日
古墳測量の地元協議(米子市、湯村)。
10日
新鳥取県史編さん専門部会(公文書館会議室、足田・岡村・前田)。
第1回近現代合同資料検討会(公文書館会議室、前田)。
12日
史料調査(~13日、米子市立山陰歴史館、渡邉)。
資料編執筆交渉(倉吉市、湯村)。
13日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館、樫村)。
14日
尚徳大学講師(鳥取市、岡村)。
17日
資料編執筆交渉(埋蔵文化財センター気高調査事務所、湯村)。
18日
資料調査(大山町教育委員会、湯村)。
19日
資料編執筆交渉(倉吉博物館、湯村)。
21日
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
25日
千刃調査(倉吉博物館、樫村)。
26日
遺物返却および資料調査(県立博物館、湯村)。
27日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館、樫村)。
28日
考古部会の事前協議(鳥取大学、湯村)。
30日
鳥取西高校近畿同窓会50周年記念講演講師(大阪市、岡村)。
新鳥取県史巡回講座(鳥取県立博物館、足田・樫村・前田)。

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編集後記

 今回の県史だよりは、今年4月に八頭高校から県史編さん室に異動となったばかりの前田専門員が担当しました。わずが4か月の県史編さん業務の中で、興味深い資料を発見し、それを報告しました。しばらくは県史の業務に尽力してくれるはずですが、やがて高校教育の現場に帰ったとき、県史編さん業務の中で出会った原資料から見た歴史を、授業に生かしてくれるものと今から期待しています。

(樫村)

  

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