防災・危機管理情報


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戦争体験を後世に伝える

 私は民俗担当ですが、オーラルヒストリーすなわち、史実の関係者の声による歴史証言の重要性をよく感じます。民俗の聞き取りをしますと、ときおり戦争体験の話になることがあり、それはその人しか語れない重要な歴史資料と思うのです。しかしながら、民俗を専門にしていると、個人の従軍体験、行事や村仕事などと戦争のかかわりなどを聞き取りしてノートに記録しても、そのことを直接、報告書などに記載することはあまりなく、死蔵することが多いのが現実です。

 そのことについてジレンマを感じる民俗学研究者は少なくなく、新鳥取県史編さん専門部会(民俗・現代兼務)の喜多村理子委員のように民俗と戦争の関係について直接テーマとして、神社での祈願や山篭りには、徴兵忌避の願いも込められていた事実を聞き取り調査により解明するような研究者もいます(注1)

原爆投下から68年が過ぎて

 毎年、原爆の日を迎えるころ、必ず思い出す戦争体験に関するオーラルヒストリーがあります。

 私が茨城県北部の小学校に在学していた約30年前(昭和50年代)に、W先生がいました。恐らくすでに50歳代でしたが、体育が専門の厳しい眼光を放つ先生でした。軍隊、それも特攻隊あがりと噂で、悪ガキ達も恐れていました。

 W先生は放課後、児童たちに剣道の指導をしており、私も習っていました。小学校は戦前に建てられた木造平屋建ての校舎のみで、体育館もプールもありません。剣道の稽古は主に素足のまま校庭でしていました。互角稽古で砂に足を取られ滑って転び土ホコリまみれになったところを、相手から容赦なく面を打たれます。するとW先生は「なぜ黙って面を打たれる。真剣勝負なら死んでしまうのだぞ。転んでも胴なら打てるだろう!」と言います。W先生曰く、剣道がスポーツのようになったのは最近のことであり、生きるために相手を刀で切ることが本質である。よって竹刀でたたくのではなく、生きるために相手の肉骨を刀で断つつもりで稽古をするべきだと指導していました。今思えばW先生はその当時も「戦前の日本人」だったと思いますが、私は子どもながら、迫力ある指導とその説明に納得していました。

 体育や運動会の時、隊列を組む場合、W先生の「前へ倣(なら)え!!」「右へ倣(なら)え!!」の号令は鋭く、わずかなズレも許されない厳しさで、美しくそろった運動会の体操や行進は名物でした。W先生が、まるで戦前の軍国主義者のように聞こえるかもしれません。たしかに眼光は鋭く、厳しい先生だったことは間違いありませんが、学年の「三大悪ガキ」の一人とされていた私でさえ、W先生から一度も体罰を受けたことがありません。

 またクラスでいじめのような問題があったときに、担任の先生からその場にいなく関与していない私も連帯責任として職員室で正座をするように言われました。私は「していないことで怒られるのは絶対嫌だ」と正座を頑なに拒み、しばらく押し問答になりました。奥の方でしばらく聞いていたW先生が突然立ち上がり、私に「絶対、やっていないんだな?」と聞き、私は「そうです」と答え、クラスメートにも確認すると、担任に「やっていないのだからいいでしょう」と私を解放してくれました。みんなに恐れられ、笑顔をみせるようなこともほとんどない先生だったのですが、私にとっては信頼できる先生でした。

 そのようなW先生が毎年、夏になると行う恒例の授業があり、その授業内容こそW先生の戦争体験、私にとってどうしても忘れられないオーラルヒストリーなのです。

W先生の授業とオーラルヒストリー

 とても暑い夏の日、体育の運動がひとしきり終わると、W先生は私たちを校庭の桜の木陰に集合させます。そして次のような戦争体験を語りました。

 第二次大戦の末期、私は広島県の瀬戸内海の島(注2) にいた。そこではベニヤ板のようなもので造った粗末なボート(注3)に、爆弾を積んで敵艦に突っ込むための練習を毎日していた。敵艦に見立てた目標物に向かって突進していき、ターンすることを繰り返していた。海の特攻隊のようなもので、もうすぐ死ぬのだと思っていた。ある夏の日の朝、とてつもない閃光と爆発音、爆風がきた。瀬戸内海を隔てた広島の町の方を見るとすごい雲があがっていた。8月6日の広島原爆である。
 すぐ広島に救援に行くことになった。船で広島に行くと市内を流れる太田川には死体がたくさん浮いており、上流から次から次へと流れてくる。熱くて我慢出来なくなった人が川に飛び込んだのだろう。大きな都市であった市内は、焼け野原になっており、痛ましい遺体、瀕死の人があふれていた。真夏であり大量の遺体は、すぐ痛み始めたのでガソリンをかけて火葬したが間に合わない。負傷者には物資もなく救護らしいことは何もできなかった。
 ある瀕死の人が「実は非常用の米を土の中に埋めて隠してある。せめてそれを食べて死にたい」というので、掘ってあげることにした。1メートル以上深く掘ったところに箱があり、その中の1升瓶に黒く焦げたものが入っていた。地中に埋めてあった米さえ原爆の熱で焦げてしまったのだ。その米の持ち主はがっかりしていた。原爆というのは恐ろしいものであった。

 そんな話であったと思います。夏の暑い日差しが、W先生にあの広島の出来事を思いださせ、子どもたちに伝えずにはいられなかったのだろう思います。だいたい話が終わる頃、チャイムが鳴り授業は終了しましたが、やんちゃな私たちもさすがに衝撃を受けかなりブルーになったことを覚えています。

 後から周囲に聞いたところでは、W先生も被爆者健康手帳(注4)をもっている方であり、広島での活動後はかなり体調がすぐれなかったそうですが、そのような話はほとんどされませんでした。

 W先生の広島体験は強烈なイメージとして焼き付いており、この30年以上の間忘れたことがありません。いまでも原爆の日が近くなると、あの暑い日に校庭の木陰で聞いたヒロシマの話を思い出し、非人道的な戦争や核兵器について考えさせられます。

 ある日、興味深い本を入手しました。池田真徳さんという方が執筆した『ヒロシマの九日間』 (注5)です。読んでみると驚くほどW先生のオーラルヒストリーと同様の内容です。

 池田さんは、昭和19年に17歳で陸軍船舶兵特別幹部候補生として入隊し、翌20年に広島県の江田島にある第十教育隊(陸軍幸の浦基地)に配属されます。そこで池田さんは、「マルレ」と呼ばれた小型戦闘舟艇、四式肉薄攻撃艇で敵艦に体当たりする特攻訓練を連日している中で広島原爆を目の当たりにし、その直後から、広島で惨状を目の当たりしながら救援活動を行ったとあります。W先生は、この池田さんと訓練生として同時期に江田島の幸の浦基地にいたものと思われ、W先生の証言を詳しく知る資料となりました。

広島爆心地と幸の浦基地の位置の図
広島爆心地と幸の浦基地の位置

歴史証言を後世に残す

 今日、戦争体験がある方は極めて高齢化しています。私は小学校の授業で広島原爆を経験した先生から戦争体験を聞き、さまざまなことを考えることができました。しかしこれからの子どもたちは、直接戦争体験を聞くことは出来ず、映像や書籍などの記録で戦争とはいかなるものか学び考えることになります。それらには当事者が語るライフヒストリーほどの迫力やリアリティーは無いかもしれません。我々は歴史に係わる仕事をしている以上、戦争体験を含めてさまざまな歴史・文化に関する記録、資料を後世に伝えていくことが使命であると改めて感じます。その使命による成果として、新鳥取県史編さん事業では、 (『孫や子に伝えたい戦争体験』上・下(2009、鳥取県)を刊行しています。68回目の原爆の日、終戦記念日を迎えたこの夏、一読いただければと思います。

(注1)喜多村理子『徴兵・戦争と民衆』(1999、吉川弘文館)

(注2)江田島(広島県江田島市)と推定される。

(注3)四式肉薄攻撃艇。通称はマルレ。全長5.6m、全幅1.8m、満載排水量約1.5t、主にトヨタ自動車と日産自動車製の60馬力程度の自動車用エンジンを搭載したモーターボートで、艇体後部に250kgまたは120kg2個の爆雷を装備していた。装甲はなくベニヤ製であった。

(注4)「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づき交付される手帳。所定の用件を満たした者は、医療費などの支援を受けることが出来る。

(注5)池田真徳『広島の九日間』(2006、文芸社)

(樫村賢二)

資料紹介【第3回】

舟入(フナイレ)の記録写真(鳥取県立公文書館所蔵)

舟入(フナイレ)の記録写真 

 舟入は、弓浜半島の内浜(中海側)にあった舟を入れる入江のようなものです。米子市彦名町にはかつて7つの舟入があったといいます。写真右側に舟小屋が見えることから、こちらの岸が舟を停泊させるフナスエであり、左側の撮影者がいる岸が舟入と集落とつなぐ舟入道(フナイレミチ)、また写真右の岸に盛られている黒いものは中海で採集された肥料用の藻葉(モンバ)と思われます。撮影年代、場所は不明ですが、戦前に弓浜半島で撮影されたものと推定されます。

活動日誌:2013(平成25)年7月

1日
史料調査(大阪城天守閣、岡村)。
2日
資料調査(公文書館会議室、前田・田中)。
3日
資料調査(公文書館会議室、前田)。
4日
資料調査(公文書館会議室、前田・田中)。
5日
考古部会(公文書館会議室、足田・岡村・湯村)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
8日
遺物借用(大山町教育委員会、湯村)。
9日
古墳測量の地元協議(米子市、湯村)。
千刃調査(倉吉博物館、樫村)。
11日
史料借用(山陰歴史館、渡邉)。
12日
史料調査(大山町教育研究所、渡邉)。
13日
鳥取城フォーラム(とりぎん文化会館、湯村)。
14日
新鳥取県史巡回講座(米子コンベンションセンター会議室、足田・岡村・樫村・前田)。
18日
史料編執筆交渉(鳥取県教育文化財団、湯村)。
19日
史料編執筆交渉(下坂本清合遺跡・鳥取市教育委員会、湯村)。
22日
史料編執筆交渉(鳥取市教育委員会、湯村)。
23日
史料編執筆交渉(鳥取市福部町総合支所、湯村)。
民具調査(日野町歴史民俗資料館、樫村)。
25日
第1回新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室、足田・県史編さん室職員)。
史料調査(公文書館会議室、渡邉)。
26日
史料調査(鳥取市個人宅、岡村)。
31日
史料編執筆交渉(若桜町教育委員会、湯村)。

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編集後記

 鳥取は、暑い日が続いています。今回の記事は、8月6日に原爆の日、同月15日には終戦記念日を迎えて、この時期に必ず思い出す小学生の時に聞いた戦争体験をテーマとしました。小学生の頃は、暗くて恐い話を聞いたと思う程度でしたが、成長するにつれて、W先生がどんな思いで何を伝えたかったを考えるようになりました。三つ子の魂百までと言いますが、子どもに体験者が事実を語ることは、その後の成長に強い影響を与えるのではないでしょうか。

 さて8月12日に 鳥取県史ブックレット13『鳥取県の妖怪-お化けの視点再考-』を刊行しました。鳥取県内の妖怪についての話が多く掲載されており、その妖怪についての解説・分析もしてあります。難しい話はちょっと…、という方は水木しげる先生の妖怪イラストを見ながら、妖怪に関する話だけを読んでも楽しめますので、御参考にしてください。

(樫村)

  

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