前期旧石器時代存否論争とは
今から10年ほど前まで、日本には60万年前から人が住んでいた、と信じられていました。ところがそれは遺跡のねつ造であることが判明し、その後の検証によって東北から関東にかけて所在する、3万年以上昔とされていた「前期旧石器」遺跡がねつ造またはその疑いが強いと判定されました。そのなかには前期旧石器時代(注1)の存在を初めて立証したとして国史跡に指定(後に指定解除)された座散乱木(ざざらぎ)遺跡(宮城県)があります。その発掘調査報告書の結びには「前期旧石器存否論争はここに結着した」と高らかに宣言されています(注2)。その遺跡がねつ造と判明した今(注3)、前期旧石器時代存否論争は終わっていないと言えるわけですが、その論争とはどのようなものであったのでしょうか。
旧石器遺跡の発見と始原の追求
日本に旧石器時代が存在することを初めて明らかにしたのは、岩宿遺跡(群馬県)の発見(昭和21年)と、その後の発掘調査(昭和24年)による成果です(注4)。発掘調査は明治大学考古学研究室によって行われ、陣頭指揮をしたのは杉原荘介(すぎはらそうすけ)教授で、彼を支えたメンバーの中に当時学生だった芹沢長介(せりざわちょうすけ)氏がいました。
ふたりは旧石器時代の存在を立証すると、全国各地に目を向け、旧石器文化の広がりや地域性、石器製作技術の解明などを進めるとともに、その始原の追求、すなわちより古い石器の発見を追い求めます。
金木の発掘調査
昭和28年、杉原氏は青森県金木(かなぎ)の発掘調査を行いました。赤土の下の砂礫層から出土する「石器」が日本最古のものと確認するためです。しかしこの「石器」は自然状態のもとで生成された破砕礫(はさいれき)、つまり人工品ではなかったのです。発掘資金は当時としては多額を要したそうですが、杉原氏は潔く発掘の失敗を認め、以後、前期旧石器の存在に懐疑的となります(注5)。
前期旧石器時代存否論争の再燃
前期旧石器存否論争は、昭和37年に再び表面化します。大分県丹生(にう)台地から出土する石器類の形態が原始的であるとして、東京大学の山内清男(やまのうちすがお)教授や古代學協會主催者の角田文衛(つのだぶんえい)氏らが、これらを前期旧石器とする発表を日本考古学協会総会で行ったのです。またこの後、東北大学に赴任した芹沢氏は昭和39年に早水台(そうずだい)遺跡(大分県)を、翌40年から53年まで星野(ほしの)遺跡(栃木県)を発掘し、前期旧石器を発見したと報告するなど、前期旧石器の存在を認める立場としてリーダー的な役割を果たしていきます。
杉原仮説の提唱
そうしたなか、昭和42年、杉原氏は「”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”を破ってほしい」という一文を発表します(注6)。HYPOTHESISとは仮説を意味しますので、「杉原仮説を破ってほしい」というタイトルを付けたのです。杉原氏は丹生の資料については、古い地層から出土したものは自然石であり、人工品と認められるものは出土層位がはっきりしない、すなわち古い時代のものである確証がないと指摘します。また早水台の資料は「人工品があると思われない」として退け、星野についても、芹沢氏が前期旧石器であると主張する資料を「同意しかねる」と否定します。さらに、当時前期旧石器であるとされていた他の資料や「明石原人」(注7)等に対しても疑問を投げかけ、日本には前期旧石器文化は存在しなかったという仮説を提示したのです。
前期旧石器時代存否論争のその後
これ以降も前期旧石器の存在を認める意見と認めない意見が対立し、お互いの主張を繰り広げていきます。前期旧石器の存在を認める芹沢氏は自身が発掘した資料に対して「バーンズの鈍角剥離率」(注8)を応用したり、顕微鏡観察に基づく使用痕研究を推し進め、自説を補強しようとしました。これに対して芹沢氏が発掘した資料は人工品ではないとの反論が考古学研究者から提出されたほか、地質学者からもそれらは人工品ではなく、崖錐性堆積物(がいすいせいたいせきぶつ)(注9)であり自然品だとする主張がなされました。この論争は山陰地方にも波及し、山口大学の小野忠凞(おのただひろ)教授が空山(そらやま)遺跡や鳥ヶ崎(とりがさき)遺跡(ともに松江市)から出土した瑪瑙(めのう)・玉随(ぎょくずい)製資料を前期旧石器であると主張(注10)したのに対し、考古学、地質学の両面から疑問が投げかけられました(注11)。
前期旧石器時代存否論争はこのように展開していきますが、それぞれの主張が平行線をたどり膠着状態となります。このような背景のもとで座散乱木遺跡の発掘は行われ、「3万年前より古い地層から人工品が出土した」という「事実」に基づき、事態は打開したかに見えましたが、ねつ造の発覚により白紙に戻っています(注12)。現在、早水台や星野で前期旧石器と主張された資料は人工品ではないというのが大方の理解であり、丹生の資料も問題となった礫石器は後期旧石器時代前半(3万年前以降)のものである可能性が示されています(注13)。ねつ造事件の検証を経た今日、3万年前より古い石器ではないかという候補はいくつかありますが、いずれも決め手に欠け、確実に3万年を遡る前期旧石器文化が存在したとは言えないのが現状です。
杉原仮説が教えてくれるもの
「日本に前期旧石器時代は存在しなかった」とする杉原仮説は、その提唱から約半世紀を過ぎた現在でも破られていないのです。しかし一方で杉原氏は、前期旧石器時代の存在について「絶対にあり得ないということをいっているのではない」とも述べています。またその主張もあくまで「仮説」であり、前期旧石器時代の存否を論じる際に「より慎重な学風が起こってくるならば、それだけでもわたくしの希望が満たされるわけである」と結んでいます。杉原氏は前期旧石器遺跡ねつ造事件が発覚するより前の昭和58年にこの世を去っています。同事件は旧石器研究者に大きな教訓を残しましたが、そこで立ち止まっているわけにはいきません。杉原仮説を今一度思い起こし、我が国における旧石器文化の始原を追い求めていく責務があるのです。
今回は鳥取県についてふれていませんが、次回は鳥取県の旧石器研究の歩みを振り返ってみたいと思います。
(注1)ヨーロッパなどでは、3万年以前の時代を前期旧石器時代と中期旧石器時代に区分していますが、本稿ではこれらを総称して前期旧石器時代と呼びます。
(注2)石器文化談話会1983『座散乱木遺跡発掘調査報告書3』。
(注3)前期旧石器遺跡としては否定されましたが、後期旧石器時代から古代の遺跡として周知されています。
(注4)杉原荘介1956『群馬県岩宿遺跡発見の石器文化』明治大学文学研究所。1981年株式会社臨川書店から再版。
(注5)昭和48年に行われたシンポジウムで杉原氏は、「ぼく自身は発掘最中にだめだと思いました」と述懐している。渡辺直経編1979『シンポジウム日本旧石器時代の考古学』株式会社学生社。
(注6)杉原荘介1967「”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”を破ってほしい」『考古学ジャーナル』No8 ニュー・サイエンス社。
(注7)昭和6年に兵庫県明石市西八木海岸で直良信夫(なおらのぶお)氏が発見した寛骨(かんこつ)。昭和20年の東京大空襲により現物は焼失したが、残されていた石膏模型をもとに東京大学の長谷部言人(はせべことんど)教授が原人化石であると主張した。それに対して縄文時代以降の人骨であるとする説もある。
(注8)A.バーンズにより提唱されたもので、石の塊から石片をはぎ取る場合、人工品であればその剥離角度が鋭角をなすことが多く、鈍角剥離はおよそ20パーセント以下の割合でしか生じないことを示した。
(注9)急傾斜地などから流れ落ちた岩屑(がんせつ)類が堆積したもの。
(注10)小野忠凞1972『空山遺跡』八雲村教育委員会。小野忠凞1977「鳥ヶ崎遺跡の旧石器文化-島根県玉湯町鳥ヶ崎遺跡の予察-」『山口大学教育学部研究論叢』26巻。
(注11)稲田孝司1975「出雲産『前期旧石器』について」『考古学研究』第21巻第4号。大久保雅弘1975「『出雲旧石器』はほんとうの石器か?」『国土と教育』第29号。
(注12)座散乱木遺跡などの「前期旧石器遺跡」に対しては、ねつ造発覚以前から「石器製作時に生じる砕片が伴わない」、「層理面に貼り付くように出土するのは不自然」などの疑問が提出されていた。
(注13)鈴木忠司編1992『大分県丹生遺跡群の研究』財団法人古代学協会。
(湯村 功)
屋根の葺き替え作業(日野町教育委員会所蔵)
この写真は1965(昭和40)年の春に日野町下黒坂で撮影されたものです。ススキの茅葺の場合、大体20年くらいで屋根全体を葺き替えることが多いようですが、この写真は痛みの激しい頂点付近の補修をしているようです。このような作業は通常、隣近所で協力して行いましたが、今ではこの技術を持つ人もほとんどいないようです。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
8日
地権者調査(鳥取地方法務局米子支局、湯村)。
現代政治編打合せ会(公文書館会議室)。
9日
遺物借用にかかる協議(倉吉市藤井政雄記念病院、湯村)。
資料執筆交渉(倉吉博物館、湯村)。
15日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。
23日
26日
古墳測量の地元協議(米子市等、湯村)。
28日
資料編執筆交渉(伯耆町教育委員会・琴浦町教育委員会、湯村)。
★「県史だより」一覧にもどる
★「第90回県史だより」詳細を見る