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因幡・伯耆の戦国武将たち(4)―山田重直について―

 戦国時代の因幡・伯耆は周辺大名がぶつかり合う狭間に置かれ、数多くの戦いに見舞われました。その中で、この地域の武将たちは、戦線においてさまざまな役割を担いつつ、乱世の時代をたくましく生きていました。

 県史だよりでは、これまでにも、あまり知られていない因幡・伯耆の戦国武将たちを取り上げ、その活動や生き様について紹介してきました。

 今回は、東伯耆の武将である山田重直(やまだしげなお)を取り上げてみたいと思います。

山田重直について

 山田氏は久米郡北条郷山田荘(北栄町)を本拠とする一族で、嶋村の堤(つつみ)城を居城としていました。 16世紀前半、山田重直の代に尼子氏が伯耆へ侵攻します。このとき、重直は国外に退去し、但馬山名氏の庇護(ひご)を受け、一時的に長田氏を名乗りました。永禄5年(1562)に毛利元就が因幡へ進出すると毛利氏に属し、同9年には「出雲守」に任じられています(注1)

 その後、毛利から伯耆東三郡(河村・久米・八橋郡)を安堵された羽衣石(うえし)城主南条氏の奉行衆に加えられます。しかし、後述するように、天正7年(1579)に南条元続が毛利を離反すると、家中を離れて毛利方の吉川氏に属し、以後は東伯耆の東郷池周辺で南条軍と交戦しています。その後も一貫して吉川氏の配下として、関ヶ原合戦後は吉川広家とともに岩国(山口県岩国市)に移っています。

 なお、戦国時代には、同時期に2人の「山田出雲守」が存在していました。1人は萩山田家の系統の人物であり、1人は岩国山田家の系統です。このうち重直は、後者の岩国山田家の系統を引く人物です(注2)

 岩国徴古館には、山田家に伝来した100点を超える文書が残されています。今回はこれらの文書をもとに、特に1580年前後の山田重直の活動を取り上げてみたいと思います(注3)

南条氏の毛利離反と山田重直

 1570年代頃、重直は毛利氏によって南条家に送り込まれ、奉行衆の一部を構成していました。当時の重直は毛利氏と南条家を結ぶ窓口的役割を担っていたと思われます。

 しかし、毛利と織田の対立が深まる中、天正7年秋頃、南条氏が毛利氏に反旗を翻し、織田方に寝返ります。

 このときの家中の動きを少し整理してみましょう。

 当時の南条家の当主である南条元続は、かねてより毛利に対して不穏な動きをみせていました。そのため、毛利側は山田重直を通じて、元続に対して人質の提出を再度命じます。

 しかし、元続はこれを受け入れず、それどころか、元続自身が重直の居館へ押しかけ、重直の命を奪おうとします。これに対して、山田重直・元直の父子はかろうじて難を切り抜け、鹿野へ逃れています(注4)

 その後、元続は毛利氏に対して「自分たちは謀叛(むほん)の意思はない」と血判の起請文(きしょうもん)を出して弁明しますが(注5) 、毛利方の不信感を払拭することはできず、同年11月には織田方の宇喜多氏と内通していることが判明し、以後は毛利方と敵対していきます。

羽衣石城の写真
毛利氏と南条氏の戦いの舞台となった羽衣石城(湯梨浜町)。
後方にみえるのは東郷池。(鳥取県教育委員会文化財課提供)

山田重直と南条元続の戦い

 こうして、天正8年(1580)以降、東伯耆の東郷池~羽衣石城周辺は、毛利勢と南条勢がぶつかり合う舞台となり、各地で激しい攻防戦が繰り広げられることになりました。

 このとき毛利方として最前線で活躍したのが山田重直です。重直は伯耆国最大の戦国武将である南条氏を相手にさまざまな戦いを仕掛けていきました。

 同年11月には、山田配下の馬田長左衞門や赤木某をはじめとする軍勢が、南条氏の重臣の一人である泉養軒(せんようけん)長清の館を襲いました。このときの夜襲で山田軍は南条兵数十人を討ち取るとともに、人質として捉えられていた重直の息女の救出に成功しています。またこのときの攻撃で南条方の兵十人余りが毛利方へ寝返っています(注6)

 また、天正9年7月頃には重直勢は羽衣石城周辺に「野伏(のぶし)」を派遣し、各地で待ち伏せを行っています。当時、秀吉が2万の大軍を率いて因幡に攻め込んでおり、南条氏は軍事的支援を取り付けるため、何度か秀吉のもとへ使者を派遣しています。これに対し、山田勢は各地で待ち伏せを行ったり、通路でのゲリラ的攻撃を通じて、秀吉軍と南条軍のつながりを断ち切っています(注7)

 さらに、同年8月には、長瀬表(湯梨浜町)で南条軍が「苅田(かりた)」を行っているところを、軍勢を派遣して討ち取っています(注8)

 このほかにも、関係資料をみると、天正8~9年に、山田勢は東郷池周辺や南条氏の本拠である羽衣石城周辺で実にさまざまな攻撃を仕掛けています。個々の戦いの規模は決して大きくはありませんが、それは着実に南条勢にダメージを与え、切り崩しに成功していることがわかります。

山田重直の軍事力について

 当時の山田重直の軍事力はどのようなものだったのでしょうか。

 関係資料からは、重直の軍事力について、以下のような特徴が指摘できます。

 その1つは「案内者(あないもの)」の存在です。案内者とは、合戦などにおいて現地の案内役を務めるだけでなく、戦線地域の郷村の懐柔や調略などを行って、戦線地域と大名権力を結びつける接点としての役割が期待された者たちです。そのため案内者の任にあたる者は地域社会における指導者的な人物であることが求められました(注9) 。先ほどの馬田長左衞門も案内者の1人で、地域の指導者クラスの人物であったと考えられます。

 第2に、敵方の「落人(おちうど)」(戦いに敗れて降伏した兵)を軍勢に加えていることです。先ほどの赤木某については、もと南条氏の配下でしたが、夜襲をかける3日前に、使者を送って毛利方への降伏を申し出た「落人」であり、毛利方もこれを受け入れています(注10) 。羽衣石城周辺に詳しい「落人」を案内役に加えたことが、人質の救出を可能にしたものと思われます。

 第3に「野伏」「足軽」を編成していることです。「野伏」「足軽」とは地侍や農民の武装集団のことです。兵農未分離の時代には、多くの土豪や農民たちが武器を保有し、「野伏」や「足軽」として合戦に参加していました。重直の戦いではこの「野伏」「足軽」たちの活躍が多くみられます。

 このように、重直の戦いでは「案内者」「落人」「野伏」などの働きが顕著でした。

 重直は南条氏を攻撃するにあたり、羽衣石城周辺の地理や羽衣石城内の事情に精通し、郷村の調略にも長けた人物を軍勢に取り込むとともに、土豪・農民ら地下人による「野伏」を自軍の中に編成していました。このことが敵地における夜襲などの奇襲戦法やゲリラ的な戦いを可能にしたと思われます。当時の山田重直の軍勢は、このように地域社会の指導者層や在地の事情に詳しい者たちとの深い結びつきのもとに構成されていました。

 山田勢が個々の戦いで討ち取った敵兵の数をみると、1人から数人程度のものがほとんどです。おそらく大部分の戦闘行為はゲリラ戦を中心とした小規模なものだったと思われます。しかし、「境目」地域社会の事情に詳しい者たちを自軍に取り込むことによって、数々の戦果を収め、それが着実に南条勢の切り崩しにつながっていったのです(注11)

羽衣石落城と山田重直

 このように、山田重直は、地侍・土豪・百姓を含めた東伯耆地域社会を味方につけることのできる存在でした。ゆえに、毛利輝元が「彼者(重直)の事は方角別して馳走入魂の者に候間、我らにおいて少しも忘却存ぜず候」と述べているように(注12) 、毛利方にとっては南条氏との戦いを優位に進める上で不可欠の存在であったのです。

 では、山田氏と南条氏の攻防はその後どうなったのでしょうか。

 天正10年(1582)7月、山田重直は東郷池南部の高野宮(たかのみや)城(湯梨浜町埴見)へ在番し、羽衣石城と対峙していました。当時、毛利氏の主力は本能寺の変後の秀吉との領地交渉のため備前国に集まっており、伯耆への援軍は困難な状況でした。

 このとき、毛利氏は重直宛ての書状の中で「東伯耆については、自分たちは手出しをしない。」と告げています(注13) 。その理由は定かではありませんが、いずれにしても、南条氏との戦いは、山田重直をはじめとする東伯耆の在番衆に託されることになりました。

 羽衣石城が落城するのはその2ヶ月後のことです。それは「羽衣石衆少々申し通じ、固屋以下焼き崩され候」(注14) とあるように、南条勢の中で毛利方に寝返った者があらわれ、羽衣石城内でクーデターが起こったことによるものでした。そして退散する南条勢を山田勢が「退口」で討ち取り、勝利を収め、羽衣石城を占拠しています。

 こうして、天正8年から繰り広げられてきた山田勢と南条勢の戦いは、南条勢が内部崩壊したことにより、山田勢の勝利でひとまず幕を閉じます。

 小規模ながらも、地域社会を確実に取り込んだ戦いを展開した山田重直。一方、秀吉の援軍を待っていた南条氏は、秀吉軍がほどなく姫路に帰ったため、結果的に十分な軍事支援を得ることはできませんでした。

 戦国末期の東伯耆の戦いは、軍事力の規模ではなく、地域社会とのつながりの差が明暗を分けた戦いだったのかも知れません。

(注1)永禄9年1月25日毛利元就官途書出写(「藩中諸家古文書」巻十山田平次右衛門)

(注2)長谷川博史「補論 山田出雲守考」(『戦国大名毛利氏の地域支配に関する研究』科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告集2003年』)

(注3)山田重直に関する史料は、岩国徴古館所蔵「山田家古文書」「藩中諸家古文書纂十山田平次右衛門」に約120点が存在する。

(注4)(天正7年)9月8日毛利輝元書状写(「山田家古文書」巻3)

(注5)(天正7年)9月7日吉川元春書状(『大日本古文書 家わけ第11小早川家文書』386号)

(注6)(天正8年)10月19日吉川元春書状写(「山田家古文書」巻1)など。

(注7)(天正9年)6月26日吉川元長書状(「山田家古文書」巻6)

(注8)(天正9年)8月21日吉川元長書状(「山田家古文書」巻2)

(注9)岸田裕之「『新出岡家文書』について」(『史学研究』第203号 1993年)

(注10)(天正8年)11月16日吉川元春書状(「譜録」山縣鎮辰)

(注11)岡村吉彦「戦国末期伯耆国「境目」地域における動向と諸勢力」(『鳥取地域史研究』第16号2014)

(注12)年月日不詳毛利輝元書状写(「山田家古文書」巻3)

(注13)(天正10年)7月26日吉川元春書状(「山田家古文書」巻1

(注14)(天正10年)9月29日吉川元春書状(「山田家古文書」巻1)

(岡村吉彦)

資料紹介【第9回】

酒津のトンドウと韓国のタルチプ(달집)

鳥取市酒津のトンドウの写真
鳥取市酒津のトンドウ(2008年1月、県史編さん室撮影)
韓国京畿道高陽市のタルチプの写真
韓国京畿道高陽市のタルチプ (2014年2月、朴銓烈氏撮影)
韓国全羅北道井邑市貞良里のタルチプの写真
韓国全羅北道井邑市のタルチプ (2014年2月、県史編さん室撮影)

 日本全国では、左義長、どんど焼きなどと呼ばれる火祭りが小正月に行われます。鳥取ではトンド、トンドウなどと呼ばれ、鳥取市気高町酒津のトンドウは国指定重要無形民俗文化財になっています。

 韓国でも小正月の火祭りは盛んであり、竹や木材で組まれて燃やされるタルチプと呼ばれる構造物は、酒津のトンドウと並べると高陽市一山のタルチプは円錐状の形態、井邑市貞良里のタルチプは藁蓑が巻かれているところが類似しています。

 小正月の火祭りのような文化は、東アジアの農耕文化という大きな視点で考察すべき問題であることが、この写真資料からもわかります。

活動日誌:2014(平成26)年1月

9日
資料調査(やまびこ館、前田)。
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
11日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。 
12日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
15日
遺物返却及び借用(鳥取県立博物館、湯村)。
16日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
17日
図面用台紙の受け取り(鳥取県教育文化財団美和調査事務所、湯村)。
18日
出前講座(北栄町図書館、樫村)。
21日
遺物返却(藤井政雄記念病院、湯村)。
27日
資料調査(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
29日
資料調査(国立国会図書館、前田)。
30日
巡回講座開催による協議(境港市役所、樫村)。
資料調査(国立公文書館、前田)。
31日
資料調査(国立国会図書館、前田)。

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編集後記

 「因幡・伯耆の戦国武将たち」も第4回を迎えました。乱世に中で幾度となく難しい選択を迫られる戦国武将の人生には読んでいてはらはらさせられます。

 また資料紹介は、日本と韓国の小正月行事における火祭りの構造物です。今年の旧小正月にあたる2月中旬、韓国と鳥取の綱引き行事との比較のために、韓国全羅北道井邑市で小正月の綱引き行事を調査しました。火祭りについては調査を想定していませんでしたが、調査先で実は火祭りも行われることがわかり、合わせて調査しました。韓国調査についてはまた別の機会に紹介したいと思います。

(樫村)

  

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