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資料調査の楽しみ-北栄町大谷第1遺跡出土資料から

はじめに

 新鳥取県史編さん事業に伴う考古資料の調査は、平成18年度から行っています。この調査では、県内外の関係機関のご協力を得ながら資料の図化作業を進めており、現在までに約50遺跡、およそ2,000点の資料を図化しました。対象となる資料の時代や内容も多岐にわたり、これまで旧石器時代の石器(約20,000年前)から江戸時代の陶磁器(約300年前)まで手がけてきました。

 これらの資料は、来年度から3巻に分けて刊行する予定の『新鳥取県史資料編考古』に掲載していきますが、一部についてはすでに再整理報告書として公表しています(注1)

 考古資料の調査は、従来から知られていた資料の再評価を行うと同時に、これまで知られていなかった資料を見いだし、そうしたものに光を当てることも目的としています。いわば埋もれた考古資料の再発掘を行うわけですが、時として思いがけない発見があります。今回は北栄町大谷(おおたに)第1遺跡出土資料の調査についてご紹介します。

大谷第1遺跡の概要

 大谷第1遺跡は鳥取県東伯郡北栄町(旧大栄町)大谷に所在します。このあたりは大山から派生する低丘陵が樹枝状に広がるところで、大谷第1遺跡もそうした低丘陵の先端付近にあります。

 この周辺では1974(昭和49)年から土地改良事業が行われ、事業区域内における遺跡の有無を確認するため分布調査や試掘調査(注2)が広域にわたり実施されました。大谷第1遺跡もこうした経緯で発見され、1976(昭和51)年と1977(昭和52)年に試掘調査が行われ、大部分は現状のまま保存されることとなりました。

 試掘調査は大栄町教育委員会(当時)が主体となった調査団により行われ、出土資料から弥生時代及び中世の遺跡であることが判明しています。弥生時代に一般的な竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)は発見されておらず、土壙(どこう)、土壙墓(どこうぼ)、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)(注3)などを検出したと報告されています(注4)

遺跡の性格の再検討

 出土資料について触れる前に、大谷第1遺跡の性格を考えるうえで重要となる土壙墓、方形周溝墓について検討してみましょう。

 報告書によれば土壙墓は13基あったとされています。このうち4号土坑墓は和鏡(わきょう)(注5)が出土しており、平安時代と考えられ、35号土坑墓も出土した土師器(はじき)(注6)皿から同じ頃のお墓と考えられます。残りの11基が弥生時代のお墓と考えられています。方形周溝墓については説明文のなかではいつの時代のものか触れられていませんが、まとめを読むと弥生時代のお墓だと認識されていることが分かります。つまり報告書においては、大谷第1遺跡はおもに弥生時代の墓域であると位置づけられています。

 しかし土壙墓と報告された遺構(いこう)(注7)の図面を見ると、いずれも不整形な平面形態で、壁の掘り込みも直立的ではなく、底面も水平でないものが大部分です。また内部にたまった土の状況が分からないため、本来棺があったのか、あったとすれば棺の周りを固めた土と棺の中に流入した土との区別がつけられるのかといった検討ができません。そのため、これらが弥生時代の土壙墓だと断定できる要素は少ないと感じます。また方形周溝墓についても埋葬施設とされている35号土坑墓からは中世の土師器が出土していますし、方形周溝墓の周溝と重なり合う31号土坑墓は、弥生土器を伴ううえに土の堆積状況から方形周溝墓より古いと判断されています。こうしたことから方形周溝墓は弥生時代のものではなく中世の墳墓である可能性が高いと思われます。つまり試掘調査で検出された遺構から、ここが弥生時代の墓域と断定するのは難しいのではないかと思います。

 それでは大谷第1遺跡の性格は皆目不明なのでしょうか。その手がかりを与えてくれるものとして24号土壙と報告された遺構があります。この土壙は径1.1メートルの円形で、底面の外周にU字形の溝が巡っています。他遺跡の例からすると、この土壙は袋状貯蔵穴(ふくろじょうちょぞうけつ)(注8)の一部と考えられます。24号土壙からは弥生土器が出土しているので、この時代に掘られた遺構だと分かります。袋状貯蔵穴は集落の居住域かその近隣に設けられることが多いため、大谷第1遺跡は弥生時代には人びとが暮らした集落であり、試掘調査地点のごく近くに当時の居住域が存在するものと思われます。

大谷第1遺跡の弥生土器

 弥生時代は前期、中期、後期、終末期と区分されます(注9)。それぞれの時期で土器の形や文様などに特徴があり、時期を決定する手がかりとなります。鳥取県全域を対象として、弥生時代前期から終末期までの土器のセット関係と変遷を示したものとして清水真一氏の業績(注10)があります。そこでは第1様式(前期)、第2様式(中期前葉)、第3様式(中期中葉)、第4様式(中期後葉)、第5様式(後期)、第6様式(終末期)の区分が提示されています。これに従って大谷第1遺跡の弥生土器を位置づけてみましょう。

 写真1は甕(かめ)と分類される土器です(注11)。体部上半に櫛状工具による多条沈線文が施されており、その下に三角の連続刺突文を配します。甕の口に当たる部分にも同様の連続刺突文が見られるところがやや異質ですが、清水編年の第2様式に該当する土器です。大谷第1遺跡の土器は、この甕のように櫛状工具による多条沈線文を施す壺や甕の破片が多く、第2様式を中心とする土器群だと分かります。若干ではありますが、ヘラ状工具を用いた沈線文を施す資料もあり、これらは第1様式に遡ります。

写真1 第2様式の甕
写真1 第2様式の甕

 写真2は無頸壺(むけいつぼ)と呼ばれる土器の一部で、頸に相当するところがなく、ラグビーボールのような形状をもつものです。この土器は第3様式に属するものです。このほか第3様式の土器が数点見られます。

写真2 第3様式の壺
写真2 第3様式の壺

 つまり大谷第1遺跡の弥生土器は第1様式から第3様式まで認められ、主体となるのは第2様式であることが分かります。

管玉製作資料の発見

 大谷第1遺跡の資料が入っている箱の中を調べていると、石の塊のようなものが入ったビニール袋を見つけました。なんだろうと中をのぞいてみてびっくりしました。そこには碧玉(へきぎょく)(注12)を使った管玉(くだたま)製作資料が入っていたのです(写真3)。

写真3 管玉製作資料
写真3 管玉製作資料

 これらをよく観察してみると表面に擦り切り溝を入れ、そこから分割して直方体の素材を作っていたことが分かります(施溝分割技法)。その後、砥石で磨くなどして円柱状に整え、穴を空けて管玉と呼ばれる装身具を作るわけですが、大谷第1遺跡にはこの段階の資料は見られません。擦り切り溝を入れる石鋸(いしのこ)も1点確認しましたので、大谷第1遺跡で管玉製作が行われていたことは間違いありません。

 大谷第1遺跡における管玉製作資料の発見には二つの意義があります。ひとつはこの遺跡の時期が新しくても第3様式までに限定でき、北陸西部から山陰東部に広がる施溝分割技法の、県中部への導入時期を考えるうえで重要な資料となることです。もうひとつは同じ町内にある西高江(にしたかえ)遺跡における水晶製玉作資料との関わりです。西高江遺跡は第4様式にあたる玉作工房が複数発見され、水晶製の玉作資料は国内最古級です。この西高江遺跡より一段階前に大谷第1遺跡で管玉製作が行われていたことは、すでにこの地域に玉作技術がもたらされていたことを示し、西高江遺跡もその系譜上にあるのではないかという見通しが得られたことになります。

資料調査の楽しみ

 大谷第1遺跡の資料調査では、弥生土器が第2様式を中心とするものであることを確認し、新たに管玉製作資料を発見しました。はじめにも書きましたが、資料調査では時として思いがけない発見をすることがあります。こうした発見を新鳥取県史資料編に反映し、もの言わぬ考古資料に代わって歴史の代弁者となるように努めていきたいと思います。


(注1)高田健一編 2013 『鳥取市古郡家1号墳・六部山3号墳の研究-出土品再整理報告書-』鳥取県。

(注2)分布調査は地表面に土器などが散布していないか、あるいは古墳と思われる高まりがないかなどを歩いて調べるもので、試掘調査は部分的に掘り下げて遺跡の有無を確認するものです。

(注3)竪穴住居は床が地表面より低くなるように地面を掘り下げた半地下式の住居。土壙墓は埋葬用に掘られた穴で、棺の痕跡が認められれば木棺墓(もっかんぼ)、石棺墓(せっかんぼ)などと呼びます。土壙は埋葬用と断定できない穴を指し、「土坑」と表記する場合があります。方形周溝墓は埋葬用に掘られた穴の周りを方形の溝で囲んだものです。

(注4)馬渕義則・原田雅彦編1979『大栄地域遺跡群分布調査報告書3』大栄町教育委員会。

(注5)和鏡とは背面に鳥や草花の文様を表現した日本式の鏡で、平安時代以降に作られました。

(注6)縄文時代や弥生時代の土器は、縄文土器、弥生土器と呼びますが、古墳時代以降の土器は、従来の伝統を引き継ぐ土師器と朝鮮半島から製作方法が伝わった硬質の須恵器(すえき)とに呼び分けています。

(注7)住居跡や墓など、人間が大地に対して働きかけた痕跡を遺構と呼んでいます。

(注8)地面に掘られた貯蔵用の穴。入口は狭く、奥が広く掘られているため、フラスコのような形状となります。

(注9)前期の前に早期を設けたり、終末期を後期に含めたりと、時期区分には様々な考え方があります。

(注10)清水真一 1992「因幡・伯耆地域」『弥生土器の様式と編年-山陽・山陰編-』株式会社木耳社。

(注11)弥生土器の器種には壺、甕、鉢、高坏などがあります。現在、「甕」は貯蔵容器を意味しますが、弥生土器の「甕」は煮炊きに使われたものを指します。

(注12)細かい結晶性の石英の一種。安山岩の溶岩が噴出した際に、珪酸を含む熱水が安山岩の割れ目の中で脈状に固結したもの。

※第1~6様式は、実際にはローマ字数字を使用しています。

(湯村 功)

資料紹介【第11回】

旧国鉄発行の行商鑑札(鳥取県立公文書館所蔵)

旧国鉄発行の行商鑑の写真 

 写真の資料は、旧日本国有鉄道が行商組合員に発行したもので、行商人はこれを「国鉄の鑑札」と呼びました。湯梨浜町泊で行商をされていた方が、行商用の竹籠やカンカンと呼ばれるブリキ製の運搬具につけていたものを寄贈いただきました。行商の大きな荷物を国鉄の車両に積み込むためには、その許可の証しにこのプレートを運搬具につける必要がありました。行商人が列車に乗り込む姿を見なくなって久しいですが、行商人が活躍した当時を偲ばせる貴重な資料です。

活動日誌:2014(平成26)年5月

1日
遺物借用(鳥取県立博物館、湯村)。
民具調査(境港市海とくらしの史料館・日吉津村民俗資料館、樫村)。
考古資料編執筆にかかる協議(文化財課、湯村・岡村)。
資料調査(現代部会)(湖山、前田)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
7日
遺物実測図の検討(むきばんだ史跡公園、湯村)。
15日
史料調査(鳥取大学附属図書館、渡邉)。
16日
遺物実測図の検討(遺物実測室、湯村・文化財職員)。
19日
資料検討会(近代政治・軍事兵事)(公文書館会議室、前田)。
22日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館亀谷収蔵庫、樫村)。
23日
遺物返却(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
26日
近世部会(公文書館会議室)。
27日
史料検討会(近世)(公文書館会議室、渡邉)。
史料調査(近世)(鳥取県立博物館、渡邉)。
資料編執筆についての説明(倉吉市教育委員会他、湯村)。
29日
民俗調査(狩猟)(大山町鈑戸、樫村)。
30日
資料編執筆についての説明(鳥取市埋蔵文化財センター、湯村)。

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編集後記

 鳥取は蒸し暑い日が多くなってきています。しかし今回の考古部会の報告のとおり、調査や史資料の編さんは着実に進行しています。その活動や成果の一端を毎月紹介してきた「県史だより」もまもなく第100回を迎えます。すでに8年以上も続いてきたことになります。大きな発見を示すことはなかなか難しいですが、これからも少しづつ県史編さんの活動を紹介させていただきます。

(樫村)

  

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