はじめに
第86回『県史だより』にて、天保7(1836)、8年の飢饉により農村が困窮し、堕胎、間引き、捨て子が増加した結果、鳥取藩により堕胎・間引きの統制が行われたことを紹介しました(注1)。そこでは、鳥取藩の出産統制政策により作成された「生育取調帳」の内容から分かる当時の出産の状況を述べましたが、今回は、江戸時代の鳥取の捨て子について紹介したいと思います。
鳥取藩の記録に残る捨て子
鳥取藩では、家老の業務日誌「家老日記」が作成され、明暦元(1655)年から明治に至るまでの200年余りの膨大な記録が残っています(鳥取県立博物館蔵)。その「家老日記」および鳥取藩領内の農村行政に関わる部署で作成された記録「在方諸事控」(注2)から捨て子に関する記事をまとめたものが次の表です。
【表】「家老日記」「在方諸事控」中の捨て子事例
No. |
捨子発見日 |
捨てられて
いた地域 |
年齢 |
性別 |
1 |
元禄6(1693)年1月14日 |
鳥取城下 |
赤子 |
― |
2 |
元禄7(1694)年夏 |
東伯耆 |
赤子 |
― |
3 |
元禄10(1697)年9月21日 |
鳥取城下 |
3歳くらい |
― |
4 |
元禄11(1698)年4月4日 |
鳥取城下 |
死候赤子 |
― |
5 |
元禄13(1700)年3月21日 |
鳥取城下 |
2、3歳くらい(死骸) |
男 |
6 |
宝永3(1706)年4月晦日 |
鳥取城下 |
産流し赤子 |
― |
7 |
宝永4(1707)年10月1日 |
鳥取城下 |
産褥の赤子 |
― |
8 |
宝永5(1708)年8月19日 |
鳥取城下 |
(死骸?) |
― |
9 |
正徳1(1711)年4月15日 |
鳥取城下 |
赤子 |
― |
10 |
正徳1(1711)年10月3日 |
鳥取城下 |
赤子 |
― |
11 |
享保8(1723)年6月4日 |
鳥取城下 |
(死骸?) |
― |
12 |
享保8(1723)年6月13日 |
鳥取城下 |
― |
― |
13 |
享保10(1725)年1月21日 |
鳥取城下 |
― |
― |
14 |
享保10(1725)年9月12日 |
鳥取城下 |
― |
― |
15 |
享保11(1726)年4月15日 |
因幡 |
赤子 |
― |
16 |
享保16(1731)年4月23日 |
鳥取城下 |
相果て |
― |
17 |
享保18(1733)年2月20日 |
鳥取城下 |
去夏出生くらい |
男 |
18 |
享保18(1733)年8月28日 |
鳥取城下 |
― |
― |
19 |
享保19(1734)年10月25日 |
鳥取城下 |
赤子死骸 |
― |
20 |
元文1(1736)年11月27日 |
鳥取城下 |
相果て |
― |
21 |
元文4(1739)年3月27日 |
鳥取城下 |
赤子(流産と相見え) |
― |
22 |
寛保1(1741)年3月8日 |
鳥取城下 |
死に居り申す |
― |
23 |
寛保3(1743)年3月29日 |
鳥取城下 |
7ヶ月くらい(流産の赤子) |
女 |
24 |
寛延4(1751)年2月25日 |
因幡 |
(死骸?) |
― |
25 |
寛延4(1751)年11月20日 |
鳥取城下 |
― |
― |
26 |
宝暦5(1755)年7月16日 |
西伯耆 |
― |
― |
27 |
宝暦6(1756)年4月15日 |
西伯耆 |
3歳 |
女 |
28 |
明和6(1769)年1~2月 |
因幡 |
― |
― |
29 |
明和8(1771)年4月29日 |
西伯耆 |
2歳 |
女 |
30 |
明和8(1771)年6月21日 |
西伯耆 |
4歳くらい |
女 |
31 |
明和8(1771)年11月17日 |
因幡 |
3歳くらい |
女 |
32 |
天明4(1784)年8月25日 |
西伯耆 |
病死 |
― |
33 |
天明4(1784)年10月27日 |
西伯耆 |
当春生まれくらいの乳呑子 |
― |
34 |
天明4(1784)年10月16日 |
西伯耆 |
二ツ子 |
男 |
35 |
天明5(1785)年7月21日 |
因幡 |
0歳 |
男 |
36 |
天明7(1787)年8月27日 |
西伯耆 |
2歳ばかり |
男 |
37 |
文化7(1810)年5月7日 |
鳥取城下 |
0歳 |
女 |
38 |
文化7(1810)年9月8日 |
鳥取城下 |
死体の赤子 |
― |
39 |
文化10(1813)年4月19日 |
西伯耆 |
(死骸?) |
男 |
40 |
文政8(1825)年8月1日 |
鳥取城下 |
流産の赤子 |
女 |
41 |
文政12(1829)年3月20日 |
鳥取城下 |
赤子 |
女 |
42 |
天保3(1832)年10月13日 |
西伯耆 |
小児 |
女 |
43 |
天保8(1837)年3月12日 |
因幡 |
3歳 |
女 |
44 |
天保8(1837)年6月12日 |
東伯耆 |
2歳 |
女 |
45 |
天保8(1837)年7月3日 |
因幡 |
6歳くらい |
男 |
46 |
天保8(1837)年11月 |
西伯耆 |
3歳くらい |
男 |
47 |
天保8(1837)年12月 |
西伯耆 |
3歳くらい |
女 |
48 |
天保8(1837)年12月 |
東伯耆 |
4歳くらい |
男 |
49 |
天保10(1839)年4月21日 |
西伯耆 |
4歳くらい |
女 |
50 |
天保10(1839)年6月22日 |
東伯耆 |
4歳くらい |
男 |
51 |
天保10(1839)年12月22日 |
西伯耆 |
5、6月頃出生 |
女 |
52 |
天保11(1840)年8月4日 |
因幡 |
4歳くらい |
女 |
53 |
天保12(1841)年12月20日 |
東伯耆 |
小児 |
― |
54 |
天保15(1844)年2月10日 |
鳥取城下 |
赤子(水死) |
男 |
55 |
天保15(1844)年2月25日 |
鳥取城下 |
赤子(死体) |
― |
56 |
天保15(1844)年4月13日 |
因幡 |
死体の赤子 |
― |
57 |
弘化2(1845)年10月6日 |
因幡 |
出産間もなき死骸 |
男 |
58 |
弘化3(1846)年6月2日 |
東伯耆 |
4、50日たち候程 |
男 |
59 |
嘉永1(1848)年11月2日 |
鳥取城下 |
赤子(相果て) |
男 |
60 |
嘉永4(1851)年3月26日 |
鳥取城下 |
赤子(相果て) |
男 |
61 |
嘉永4(1851)年8月27日 |
鳥取城下 |
赤子 |
女 |
62 |
嘉永7(1854)年4月2日 |
東伯耆 |
6歳くらい |
女 |
63 |
安政2(1855)年3月17日 |
鳥取城下 |
赤子(相果) |
女 |
64 |
安政4(1857)年7月16日 |
因幡 |
0歳(死骸) |
男 |
65 |
安政6(1859)年1月5日 |
東伯耆 |
7歳くらい |
女 |
66 |
安政6(1859)年4月26日 |
東伯耆 |
5歳くらい |
女 |
67 |
万延1(1860)年2月24日 |
因幡 |
1、2日前に出生(死骸) |
男 |
68 |
文久1(1861)年9月14日 |
因幡 |
― |
男 |
69 |
慶応3(1867)年8月7日 |
鳥取城下 |
0歳 |
男 |
70 |
慶応3(1867)年9月16日 |
西伯耆 |
赤子(惣身腐穢) |
― |
71 |
明治3(1870)年8月24日 |
因幡 |
3、4歳くらい |
男 |
200年余りの記録の中で、捨て子の記事は71件ありました。単純計算すると3年に1件発生したという計算になり、捨て子はあまり多くなかったようにも思われます。しかし、後述するように、すべての捨て子について「家老日記」に記録されているとは限らないため、捨て子の件数はこれより多かった可能性があります。
71件のうち、性別が判明するのは40件ですが、男子と女子は20件ずつあり、捨て子に性別の差は見られません。
捨て子が発生した地域に目を向けると、全体的に鳥取城下の事例が多く見られ、農村部、特に現在の鳥取県中部・西部地域については18世紀後半にならないと記録されません。これは「家老日記」の掲載基準の違いによるものと思われます。すなわち、以前は農村部の捨て子は家老の分掌ではなく、そのため「家老日記」にも掲載されなかったのだと考えられます(注3)。
捨て子の年齢を見ると、18世紀前半までは「赤子」(=乳児)が多く、天保8~15年頃には2~4歳の幼児が目につくようになります。背景には、天保7、8(1836~37)年の飢饉により、子どもが育てられなくなったことがあるのではないかと推測されます。
次に、捨て子の発生件数を25年ごとにまとめたものが次のグラフです。
【グラフ】鳥取藩「家老日記」「在方諸事控」中の捨て子の発生件数の推移
〈明暦元(1655)年~慶応4(1868)年〉
前述のとおり、農村部の捨て子が「家老日記」に記録されるのは18世紀後半からですので、単純に比較することはできないのですが、1826~1850年の捨て子の数が突出して多いことがこのグラフから分かります。やはり天保7、8年の飢饉を含むこの時期に、捨て子が増加していることが読み取れます。
捨て子への対応
このようにして捨てられてしまった子供は、その後どうなるのでしょうか。次の「家老日記」の記事には、その対応の様子が書かれています。
【史料1】「家老日記」天保10年6月13日条
久米郡新田村へ、四歳ばかりの男子捨てこれ有るに付き、村方へ養育の儀申し付け置き候処、同村弥三郎と申す者、永代養育願い出候に付き、先例の通秋米三俵遣わさるの儀、郡代申し達し、承り届け候事。
天保10年6月、久米郡新田村(現倉吉市新田)に4歳くらいの男児が捨てられており、村へ男児の養育を申しつけておいたところ、同村の弥三郎という者がその養育を願い出たので、先例の通り米三俵を弥三郎へ遣わされた、という内容です。この事例のように、捨て子はしばらく捨てられていた村で養育され、引き取り手が現れた場合は、その者に養育米が渡されていたようです。この養育米は、捨て子記事が「家老日記」に初めて現れる元禄6(1693)年(注4)から見られるもので、その後明治初年に至るまで行われていました。
子を引き取る側の理由が書かれている史料は多くありませんが、実子がないこと(注5)、逆に授乳可能な女性が家にいること(注6)などがあります。
捨て子の原因
人々は、どのような理由で子を捨てるのでしょうか。次の事例は、捨て子の親が見つかり、子を捨てた理由が記されている数少ない事例のうちの一つです。
【史料2】「家老日記」享保11年4月24日条
佐久間甚左衛門家来今平と申す者、去る十五日法美郡宮下村に赤子を捨置申に付き、御郡方にて捕え置き、吟味致し候処、有体に白状申すに付き、去る十九日御目付共方へ、右の今平相渡し候様に、御郡方役人へ申し聞き、御目附方へ請け取り、尚又吟味致し候処、弥相違これ無きに付き、入籠申し付け候、然れども、不勝手にて、養育致し候儀成り難く候故、捨て置き候はば、誰にても拾い養育致すべきやと存心底にて捨て候様に相聞き候に付き、いずれも相談の上にて、御国追放申し付け候、左の通、御目付共手前にて申し渡し候事。
鳥取藩士の佐久間甚左衛門の家来の今平という者が、享保11(1726)年4月15日に法美郡宮下村(現鳥取市国府町宮下)に赤子を捨てたということで、捕らえられます。藩の役人が取り調べたところ、今平は「不勝手」(=暮らし向きが悪いこと)で子を養育できないため、捨て子にすれば誰かが拾って養育してくれるだろうという思いで捨てたのだと述べたということです。今平は子を捨てた罪により「御国追放」(=因幡国居住を許さず、伯耆国へ住居地を限定すること)となっています(注7)。やはり捨て子の原因には貧困があること、また捨て子もいずれ誰かに養育してもらえるという考えが一般に浸透していたことが伺えます。
おわりに
貧困や食糧不足を主な原因とする捨て子は、天保7、8年の飢饉後に増加していることが鳥取藩の記録からも確認できました。捨てられた子は引き取り手が現れるまでその村で養育され、養親には藩から養育米が支給されました。子を捨てる親の側にも、いずれ誰かが養育してくれるという期待があって子を捨てている事例もあったようです。これらの史料から、子どもを社会全体で育てるという当時の子育て観が伺えます。
(注1)渡邉仁美「江戸時代の出産と鳥取藩」(『県史だより』第86回、2013年6月)、森納「鳥取藩内での人口制限と藩の対策」(森納『因伯医史雑話』、1985年)
(注2)『鳥取県史』9~13巻(鳥取県、1975~81年)
(注3)表には「家老日記」の他、「在方諸事控」の記事から抽出した捨て子記事も掲載している。「家老日記」には掲載がなく「在方諸事控」のみに掲載されている事例はNo.36、39、49、51、53、65、66の7件である。
(注4)貞享4(1687)年以降のいわゆる生類憐み政策により、捨て子の取締りが行われた(沢山美果子『江戸の捨て子たち』吉川弘文館、2008年)。
(注5)「在方諸事控」明和8年12月18日条(『鳥取県史』9巻、841ページ)
(注6)「在方諸事控」天明7年8月27日条(『鳥取県史』10巻、49ページ)
(注7)今平の妻は子捨てに関与していないということで罪に問われず、子どもも妻に渡っている。
(渡邉仁美)
2日
銅鐸計測の協議(鳥取市教育委員会、湯村)。
巡回講座にかかる協議(鳥取県教育センター、岡村・前田)。
4日
民具調査(賀露公民館郷土資料室、樫村)。
5日
6日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
7日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
9日
銅鐸計測の協議(やまびこ館、湯村)。
11日
民具調査(賀露公民館郷土資料室、樫村)。
12日
13日
14日
資料調査(山陰歴史館、前田)。
15日
資料調査(島根県立公文書センター、前田)。
18日
史料撮影(鳥取市歴史博物館、岡村)。
民具調査(賀露公民館郷土資料室、樫村)。
20日
図書館土曜講座「郷土史入門」(北栄町図書館、渡邉)。
24日
銅鐸計測の協議(県史編さん室、湯村)。
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