はじめに
嘉吉元年(1441)6月24日、「前代未聞の珍事」と呼ばれる大事件が京都で起こりました。室町幕府の第6代将軍足利義教が、播磨守護の赤松満祐(みつすけ)によって京都で暗殺されたのです。高校日本史の教科書にも登場するいわゆる「嘉吉(かきつ)の乱」と呼ばれる事件です。
将軍を失った幕府は混乱に陥り、細川氏が中心となって再建を図りますが、求心力の低下を止めることはできず、有力武士たちの台頭を招いていきます。
中でも強大な勢力を形成したのが山名氏でした。山名氏は一族の結束が固く、惣領(そうりょう)山名持豊を中心に強固にまとまり、9ヵ国の守護職を保有して、細川氏と対立していきました。この対立が20年後に応仁の乱を引き起こしていきます。
この山名一族の中でも、惣領家に次ぐ勢力を持っていたのが伯耆山名氏でした。当時の当主である山名教之(のりゆき)は、嘉吉の乱をきっかけに台頭し、伯耆・備前の守護職を兼任するとともに、京都において将軍家とも積極的に関わっていきます。
今回は嘉吉の乱が山名教之に与えた影響や、乱後の京都における伯耆山名氏の活動について取り上げてみたいと思います。
嘉吉の乱と伯耆山名氏
将軍足利義教を暗殺した赤松満祐は、乱後、屋敷に火をかけて本国である播磨国に退去しました。一方、将軍を失った幕府は混乱に陥り、追討軍もなかなか派遣できない状況でした。本格的に赤松追討の動きが見られたのは、後花園天皇の綸旨(りんじ)が出された8月1日以降のことです。山名氏をはじめとする追討軍は各地で赤松軍と戦い、9月10日に満祐が立て籠もった城山(きのやま)城(兵庫県たつの市)を総攻撃しました。赤松満祐は自害し、彼の首はほどなく京都に送り届けられています。
このとき、赤松追討に大きな戦功をあげたのが伯耆山名氏でした。万里小路時房 (までのこうじときふさ)(注1)の日記である『建内記(けんないき)』には「満祐法師の首、火中より求めこれを出づる。山名伯耆守護これを感得す」と記されています。このことから、炎に包まれた城山城内から自害した赤松満祐の首を取り出したのが山名教之の軍勢であったことがわかります。
中原師郷 (もろさと)(注2)の日記である『師郷記(もろさとき)』にも「彼(赤松)の首においては、山名兵部少輔〔伯耆守護〕手の者、これを取る」と書かれています。ここでいう「手の者」とは『伊勢貞助記』に「小鴨、彼の首これを取るによる也」とあることから、小鴨氏を指していると考えられます。つまり炎に包まれた城内から満祐の首を取り出したのは伯耆山名氏の配下で伯耆国人の小鴨氏であったことがわかります。
首謀者である赤松満祐の首は山名軍によって京都に送られ四条河原に梟(きょう:さらし首)されました。これによって幕府は面目を保たれました。その意味では教之軍は赤松追討において最大の戦功をあげた一人と言っても過言ではありません。その結果、戦後の論功行賞において、赤松氏が持っていた播磨・美作・備前3ヵ国の守護職はすべて山名氏に与えられ、このうち備前国の守護職が山名教之に与えられました。こうして彼は伯耆・備前の2ヵ国の守護を兼任することになるのです。
京都における伯耆山名氏の活動
嘉吉の乱が山名教之に与えた影響はそれだけにとどまりませんでした。この乱を境に、山名教之の京都での活動が史料上で多く確認できるようになります。
次にこの点についてみていきましょう。
(1)『建内記』にみる山名教之
室町時代の公家の日記の中に『建内記』があります。作者の万里小路時房は公家の中でも最高幹部に属しており、嘉吉の乱当時は武家伝奏(ぶけてんそう)という公家・武家間の意思伝達を調整する要職に就いていました。いわば京都の武家のことをよく知る人物であったといえます。
そのためか『建内記』に登場する武士については、氏名が実に詳細に書かれています。表1は嘉吉元年(1441)9月当時の山名一族の人名表記を整理したものですが、これをみると、多くの人物が「右衛門督」「中務大夫」などの官職名や「時煕(ときひろ)」「煕貴(ひろたか)」などの実名が記されていることがわかります。
表1 『建内記』にみる山名氏の人名表記
しかし、その中にあって、山名教之だけは「山名伯耆守護」「山名某」と書かれ、「実名尋ねるべし」と注書がなされています。
つまり、嘉吉の乱当時、万里小路時房は山名教之について官職・実名とも全く知らなかったことになります。時房が武家をよく知る立場の人物であったことを考えるならば、当時、山名教之は京都においてはほとんど無名であったと言っても過言ではありません。
しかし『建内記』を読んでいくと、嘉吉の乱後、山名教之については「山名兵部少輔」「山名少輔」と官職名まで詳しく書かれていきます。嘉吉の乱は山名教之の京都における知名度向上のきっかけとなった出来事と言えるかも知れません。
(2)京都における伯耆山名氏
知名度だけでなく、嘉吉の乱後、京都における山名教之の活動は実に顕著にみられるようになります。
表2 伯耆山名氏の京都における活動
表2は山名教之の京都における活動を記したものですが、嘉吉の乱以前は京都での活動が全く確認できないのに対し、乱後は在京して将軍足利義尚(よしひさ)の誕生に参賀したり、惣領持豊とともに勧進猿楽(かんじんさるがく)の桟敷(さじき)に列席したり、大嘗会(だいじょうえ)に錦綾(きんりょう)代を献上するなど、他の有力大名と同じような活動を示していることが窺えます。
また、室町幕府が作成した番帳をみても、嘉吉の乱前の「永享以来御番帳」には伯耆山名氏は登場しませんが、嘉吉の乱後の「文安年中御番帳」(1444~)以降は外様衆や国持衆として山名教之の名が登場しており、幕府の中でも重要な地位を占めていたと思われます。
さらに、1460年代には教之の子息である豊之(とよゆき)・豊氏(とようじ)も京都で活動しており、寛正6年(1465)には将軍足利義政の南都下向に御供衆(おともしゅう)として同行しているほか、同年には父教之とともに将軍義尚誕生に参賀して太刀・馬を献上しています。また、その後、豊之は伯耆守護、豊氏は因幡守護に任じられています。特に因幡守護はこれまで惣領家である但馬山名氏の一族が任じられており、伯耆山名家から出されたのは初めてのことです。
このように、嘉吉の乱を契機とする伯耆山名氏の京都での活動はめざましいものがあります。当時の史料をみると惣領山名持豊の次に教之の名が登場しており、15世紀半ばの伯耆山名家は一族の中でも惣領家に次ぐ地位にあったと思われます。
むすびにかえて
15世紀半ばの日本列島は、嘉吉の乱や応仁の乱などの動乱が起こり、室町時代から戦国時代への転換期を迎えていました。特に嘉吉の乱における将軍足利義教の暗殺は、幕府権力のありかたを変質させ、諸大名の自立化を進めていく結果となりました。
先述したように、乱後、細川氏が将軍に代わって幕府の実権を掌握していったのに対し、山名氏は一族の結束による強大化を図って細川氏と対立しました。
今回は伯耆山名氏を取り上げ、嘉吉の乱が与えた影響や、乱後の京都における活動について紹介しましたが、嘉吉の乱を契機とする15世紀半ばの伯耆山名氏の京都での活躍ぶりは、この時期の山名一族の勢力形成とも関わりがあるように思われます。
最後に伯耆山名氏のその後について少し触れておきたいと思います。
応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発し、全国各地が戦乱の渦に巻き込まれていきました。そのような中、文明3年(1471)に伯耆守護山名豊之が由良(東伯郡北栄町)の地で殺害されるという事件が起こります。この事態に対応するため、山名教之自身が京都から伯耆に下向しますが、すでに高齢であった教之は同5年(1473)2月に病死します。豊之・教之を相次いで失った伯耆山名家は、やがて家中が分裂し、南条・尼子といった国内外の国人たちの台頭を招いて各地で激しい戦闘が繰り広げられていきます。こうして伯耆国は戦国乱世の時代に突入していくのです。
(注1)1395~1457年。室町時代の公卿。従一位内大臣。18歳で後小松天皇の蔵人となり、翌々年参議となる。32歳のときに権大納言となり、武家伝奏・南都伝奏を勤めた。法号は建聖院。
(注2) 1387~1460年。中原氏は内記の草した詔勅の勘正や奏文案の作成等を担当する外記(げき)のうち大外記の職務を代々世襲していた。
(岡村吉彦)
2015(平成27)年10月1日、県史編さん室に新たなメンバーが加わりました。
専門員 八幡 一寛(やわた かずひろ )
担当:近世
この度、新鳥取県史の近世部会を担当させていただくことになりました。まずは自分自身が鳥取県の歴史を勉強し、その面白さなどを皆様にお伝えできればと思います。よろしくお願いいたします。
2日
青銅器調査の立ち会い(奈良文化財研究所、湯村)。
4日
資料検討(むきばんだ史跡公園、湯村)。
5日
現代部会資料検討会(公文書館会議室、西村)。
9日
10日
講演会打ち合わせ・史料調査(米子市文化ホール・山陰歴史館、岡村)。
11日
12日
史料返却(河原町個人宅、渡邉)。
14日
中世資料調査(鳥取県立博物館、岡村)。
18日
遺物返却(南部町教育委員会、湯村)。
遺物借用(琴浦町教育委員会、湯村)。
中世資料調査(個人宅、岡村)。
19日
古代中世部会(公文書館会議室)。
20日
22日
24日
青銅器運送(~25日、湯村)。
中世棟札調査(武宮神社・杉谷神社、岡村)。
大山寺資料調査にかかる協議(大山町教育委員会、岡村)。
25日
大山町教育研究所調査(大山町教育研究所、西村)。
28日
中世棟札調査(菅福神社、岡村)。
29日
中世資料調査(因幡万葉歴史館、岡村)。
30日
文化財課との協議(公文書館会議室、岡村)。
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