県史編さん室は公文書館内にあります。今回は、その公文書館の来館者には目の届かない場所に何気なく存在する隠れた逸品を紹介します。
私は言い伝えやしきたりなどの口承伝承や庶民の日常道具である民具を主な資料とする民俗担当です。公文書館は歴史資料としての公文書を保存し、その調査研究を行い、その歴史資料を広く県民の利用に供するとともに、県政に関する情報を提供するという業務を主としています。よってその業務に直接関係することはほとんどありません。しかし公文書や歴史的資料の重要性は認識しており、公文書館が広く利用され社会に貢献できることを望む者の一人です。
さてタイトルにあげた逸品との出会いは、2008(平成20)年4月に県史編さん室が総務課から公文書館に移管された頃です。平成20年4月から翌年3月までは、公文書館内の組織になりましたが諸事情で県史編さん室はまだ県庁本庁舎の4階に執務室があり、公文書館には協議や公文書に公印を押すためにときどき出向く程度でした。
公文書館の執務室で業務を終えて、出ようとしたとき執務室の出口扉の上に額縁に入れられた色紙が目に入りました。
公文書館執務室ドア上の額
色紙部分
「二郎」の墨書と「岩上二郎」印
その色紙には「忍」と大きく記され「二郎」の署名があります。また「岩上二郎」の印も見えます。私は感動しました。
岩上二郎(いわかみにろう:1913年~1989年)は、茨城県知事(1959~1975)を勤め、それを退任後、茨城県歴史館長(1975~1978)になり、合わせて全国歴史資料保存利用機関連絡協議会長(1975~1978)として歴史史料保存法(後の公文書館法)制定に向けた運動に心血を注ぎました。また知事在任中に「茨城県史編纂事業」を推進し、その事業で発掘・収集された史料を永遠に保存するために茨城県歴史館(茨城県の公文書館機能を持つ施設)の設立にも尽力された方です(注1)。後に参議院議員(1978~1989)に転身し、岩上が中心となって発議した「公文書館法」は幾度の挫折を乗り越えて、議員立法として全会一致で成立させました。岩上の歴史的文書の保存が大変重要であるという、強い政治信念が発端となって公文書館法が成立し、以降、各自治体に公文書館設置が進みました。
また岩上は文化行政に偏らず、茨城県知事時代は茨城県の「『後進性』を一挙に取り戻さんとする活発な政治・経済の動き」(注2)として鹿島臨海工業地帯・筑波研究学園都市の開発と米軍水戸射爆場(跡地は常陸那珂港になった)の返還に尽力し、「農工両全」の地域開発を行いました。
かつて茨城県の鹿島地方は北浦や利根川などによって陸上交通が遮断された孤島のような場所で、第一次産業が中心でしたが砂丘地帯が多く生産性が低い地域でした。かつて鹿島地方で警察官として勤務した伯父からは、砂畑にムギの種を蒔いても蒔いた種よりも収穫が少ないこともあるような厳しい場所だと聞いたことがあります。またかつては教員でも鹿島地方は勤務希望者が少なく、私が大学生だった25年くらい前でも、小学校教諭の採用試験に鹿行地方(茨城県の鹿島郡と行方郡)に限定した特別な採用があり、こちらの方が比較的採用されやすいと言われていました。
岩上二郎は、このような鹿島地方の教育レベルの向上も目指し、地域のリーダーを養成する私立中高一貫校の設置に関与し、1977年に初代理事長となりました。
今日では鹿島臨海工業地帯は関東でも有数の工業地帯であり、高速道路、鉄道などインフラ整備も進み、サッカーJリーグの鹿島アントラーズのホームとして有名になっています。教育、文化、学術だけでなく、地域産業育成の成果があることが知事として評価される点であると思います。
また岩上二郎は水戸藩校弘道館の書籍を引き継いでいる旧制茨城中学校(元私立茨城高等学校)の卒業生で、徳川光圀が大日本史編纂事業で生み出した水戸学の気風を受け継いだことが(注3)、自治体史編纂の中で「県史研究」という研究雑誌を初めて刊行するなど工夫を凝らした茨城県史編纂事業の推進や、歴史史料保存法制定に向けた活動を経て苦労の上に公文書館法を制定させた原動力になったといいます。
まさにその苦労は色紙にある「忍」によって乗り越えたのだと思います。また少年期、厳しいいじめにあったと自書にありますが(注4)、それを乗り越えたことも「忍」の心を強くしたのかもしれません。色紙には「閒曠」(かんこう)という落款印があります。「心にゆとりがあって静かなこと」という意味のようですが、これは公文書館法制定によって得た安堵を示しているのかもしれません。
色紙にある「閒曠」(かんこう)という落款印
どのような経緯でこの岩上二郎の色紙が、公文書館の執務室に掛けられたか確認できていません。日本に公文書館が普及する土台となる公文書館法をつくった岩上の色紙は、公文書館が発展し社会に貢献する姿を見守っています。また岩上も公文書館法にかかわる直接のステップは「茨城県史編纂事業」に求められると言っています(注5)。岩上は、新鳥取県史編さん事業も「忍」の心で望めと諭しているような気がします。
この公文書館内執務室にさりげなく掛けられる岩上の色紙は、歴史資料の保存活用を後世に託す公文書館にふさわしい逸品ではないかと思います。
(注1)岩上二郎、1988年、『公文書館への道』共同編集室、39~47頁。
(注2)岩上同書、42頁。
(注3)岩上同書、40頁。
(注4)岩上同書、39頁。
(注5)岩上同書、40頁。
(樫村賢二)
1日
資料調査(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
6日
9日
資料調査(鳥取市佐治総合支所、前田)。
12日
資料調査(~13日、国文学研究資料館、東京大学史料編纂所、岡村)。
民具調査(~14日、隠岐の島、樫村)。
13日
資料調査(倉吉農業高校・米子市立図書館、前田)。
21日
資料調査(東大総合図書館、前田)。
22日
資料調査(神奈川近代文学館、前田)。
23日
資料調査(宮内公文書館、前田)。
27日
28日
民俗部会に関する協議・民具調査(米子市個人宅、樫村)。
30日
史料調査(賀茂神社、八幡)。
★「県史だより」一覧にもどる
★「第127回県史だより」詳細を見る