第127回県史だより

目次

小鴨神社所蔵の扁額をめぐって

はじめに

 歴史を解き明かす資料といえば、古文書など紙に書かれた文書を思い浮かべる方も多いと思います。しかし、歴史資料は紙に書かれたものだけではありません。石造物・梵鐘・棟札など、いわゆる「モノ」としての資料も、地域の歴史を明らかにする極めて重要な資料です。

 鳥取県内には中世に作成された数多くの「モノ」資料が存在します。それらの中には文字が記されているものも多く見受けられ、古文書には見られない貴重な歴史情報を我々にもたらしてくれます。

 以前、第62回県史だよりで米子市の八幡神社所蔵の唐櫃(からびつ)の銘文について取り上げたことがありました。唐櫃の側面に朱書された僅か28文字の銘文ですが、これまで知られていなかった西伯耆の戦国武将の実名が判明したほか、戦国時代の武将と神社に関する新たな歴史像を浮かび上がらせることができました。

 今回は、そのような「モノ」資料の一例として、倉吉市の小鴨(おがも)神社所蔵の扁額(へんがく)を取り上げてみたいと思います。

小鴨神社と小鴨氏

 倉吉市大宮に鎮座する小鴨神社は、社伝によると応永24年(1417)に京都の下鴨神社を勧請したことに始まるとされています。中世においてはこの地域の有力武将である小鴨氏の氏神として崇敬を集め、「小鴨大明神」と称していました。

 小鴨氏は現在の倉吉市南部の小鴨川流域に形成されていた小鴨郷を基盤とする一族です(注1)。小鴨郷の中央部を南北に流れる小鴨川は北上すると天神川に合流して日本海に通じているほか、南側は小鴨川に沿って後世に「備中往来」と呼ばれる山間交通路が通っており、関金を経由して備中国へ通じていました。この関金には古代~中世の製鉄遺跡が多く確認されており、応永14年(1407)にはこの地域に広がる矢送庄(やおくりのしょう)という荘園に対して、鉄1万挺が年貢として賦課されています(注2)。また永禄6年(1563)には「小鴨中金屋」の大工が伯耆国長谷寺の鰐口(わにくち)を鋳造しており、この地域に金物を扱う鋳物師集団がいたことを示唆しています(注3)。これら小鴨川水系・山間交通路・関金の鉄資源などが小鴨氏の経済的基盤に大きく関わっていたと考えられます(注4)

小鴨神社周辺地図
小鴨神社周辺地図

 また、この小鴨郷は伯耆国府にも近接しており、平安時代の小鴨氏は国衙(こくが)の役人でもありました。『大山寺縁起』(1398年成立)に「当国には、村尾・小鴨とて、東を固め西を守る二人の大将あり。(中略)小鴨は月光坊(中門院)の旦那なり」とあることから、古代の小鴨氏は西伯耆の有力武将村尾氏とともに伯耆国を二分するほどの勢力を持っており、大山寺ともつながりがあったことが窺えます。

 小鴨神社の鎮座する大宮は、このような小鴨郷のほぼ中央部に位置していました。小鴨川をはさんだ向かい側には「市場」という地名があり、中世にはここで牛馬市が開かれて多くの人々で賑わっていたという伝承も残っています(注5)。この大宮や市場が小鴨郷の中心地であったと考えられ、小鴨神社は地域社会の中心的存在であるとともに、この地域に勢力を誇っていた小鴨氏の氏神として一族の精神的な拠りどころとなっていたと思われます。

小鴨神社の扁額について

 小鴨神社には、応永24年の年号を持つ男神坐像や、同時期のものと思われる木造狛犬、また天文6年(1537)の年号の記された三十六歌仙額など、数多くの貴重な中世資料が所蔵されています。

 この小鴨神社の拝殿入口の中央上部に「小鴨大明神」と金字で大きく書かれた扁額が掲げられています。縦111cm、横87cmの檜製で、「小鴨大明神」の文字の左右には「孝顕寺住以寧筆」「寛正二年辛巳十二月十三日 願主鴨部隠岐守久基」と記されています。

小鴨神社扁額の写真
小鴨神社扁額の写真

 鴨部というのは小鴨氏のことであり、この銘文によれば、この扁額は寛正2年(1461)に小鴨隠岐守久基によって小鴨神社へ奉納されたものであることがわかります。

 中世の年号を持つ社名扁額は管見の範囲では県内に例がなく、もし当時のものであるならば、年号の記された県内最古の扁額となります。しかし小鴨久基の名は他の史料では確認できず、孝顕寺や以寧についても定かではありません。そのため、この扁額が寛正2年当時のものであるかどうかを銘文の内容のみから判断することは慎重にならざるを得ませんでした。

 そのような折、小鴨神社の井上宮司の取り計らいにより、この扁額について、建築の専門家の方々と合同で調査をする機会をいただきました。その結果、この扁額について以下のような知見が得られました。

 まず、この扁額に用いられている檜は、木曽地方で切り出された良質の檜であること、額面と飾縁は別の檜が用いられていることが判明しました。また、額面は鉇(やりがんな)で丁寧に調製された上に、全体に黒漆を塗って胡粉(ごふん)を施し、ベンガラや緑青を用いて鮮やかに彩色されていることや、中央の「小鴨大明神」の文字は金箔ではなく金泥(きんでい)が用いられていることなども明らかにすることができました。その結果、木の材質や工法その他の特徴から、この扁額は中世の時代に作成されたものである可能性が極めて高いという結論に達しました。

小鴨久基について

 この結果を踏まえ、改めて銘文の内容に目を向けてみたいと思います。願主である小鴨久基については、残念ながら文献上での確認はできませんでした。しかし、同時代の小鴨一族には、伯耆守護山名教之の守護代として「小鴨安芸守之基」の名が確認できます。小鴨之基については、第45回県史だよりでも取り上げましたが、嘉吉元年(1441)に起こった嘉吉の乱の際に、首謀者である赤松満祐の首を取った人物であると考えられています。乱後、之基は山名教之とともに京都で生活しており、文化人との交流もさかんで、之基の館では、文化人たちが集まって論語の勉強会が行われていたり、連歌の会が催されていたことなどが知られています。

 小鴨久基が小鴨之基と同時期の人物であることや、伯耆小鴨氏の通字(つうじ)である「基」の字を名乗っていること、之基同様に「守」の受領(ずりょう)を与えられていることなど勘案するならば、小鴨久基は小鴨之基に近い血縁を持つ小鴨一族内の人物である可能性が高いと考えられます。

 以上の点から、この「小鴨大明神」の扁額に関して、以下のような歴史像が浮かび上がってきます。この扁額は材質や工法から中世のものと考えてほぼ間違いなく、木曽地方で切り出された檜を加工して、黒漆や金泥を用いて制作されたものであり、伯耆小鴨氏の一族である小鴨久基が願主となり、孝顕寺の住僧である以寧が揮毫して、寛正2年に小鴨一族の氏神である小鴨神社に奉納されたものと考えられます。その時代背景や具体的な経緯は定かではありませんが、当時、小鴨氏が伯耆守護とともに在京していたことを考えるならば、この扁額が京都で作られた可能性も否定できません。

 いずれにしても、中世の年号を持つ社名扁額は県内ではこれが唯一であり、中世における神社と国人との関係を考える上でも貴重な歴史資料であると考えられます。

むすびにかえて

 平成28年10月21日、県中部を震源とする震度6弱の地震が鳥取県を襲いました。この地震により、倉吉市・湯梨浜町・北栄町をはじめとする鳥取県中部地域では多くの家屋が損壊し、各地の神社でも鳥居や石垣が倒壊するなどの大きな被害に見舞われました。

 今回紹介した小鴨神社の扁額は幸いにも難を免れましたが、県内各地の石造物や仏像等の中には震災により破損したり現状が損なわれてしまったものも多く見受けられます。

 冒頭にも述べたように、石造物や棟札などの「モノ」資料は、古文書には見られないさまざまな地域の歴史や先人の営みを我々に教えてくれる貴重な歴史資料です。自分たちの住んでいる地域のどこにどのような歴史資料があるのかを知っておくことは、地域の文化財を保護するのみならず、地域の歴史や文化を後世に伝えていく上でも大切です。

 長い歴史の中では、戦乱や災害で失われてしまった資料も数多くあります。しかし現在に残る歴史資料の中には、多くの先人たちの熱意や努力によって困難を乗り越え守られてきたものも少なくありません。貴重な歴史資料が確実に次の世代に受け継がれるよう、地域と協力してできる限りの努力をしていきたいと思います。


※調査にあたっては、井上智史氏(小鴨神社宮司)、根鈴智津子氏(倉吉市教育委員会文化財課課長補佐)、後藤史樹氏(文化財建造物木工主任技術者、NPO法人日本伝統建築技術保存会理事)、山根健志氏(日本伝統建築技術者、有限会社「後藤屋」取締役)に多大な御協力を賜りました。あつく御礼申し上げます。

(注1)『和名抄』によれば、小鴨郷の領域として、郡中、生田、中河原、石塚、宮、市場、倉内、上古川、北野、中田、松神、若土、広瀬、狼谷、岩倉、菅原、大宮、弓削、長坂、下大谷、富海、淀谷、丸山の地名が挙げられている。

(注2)長講堂領目録案(「集」所収文書)

(注3)金屋という地名は鋳物師などの金物集団が集まり住んだ場所と言われている。笹本正治『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』(中央公論社、2002年)

(注4)関金町にある山守神社の棟札写には「大永三年 地頭小鴨弾正忠鴨部幸基」とみえる。

(注5)『伯耆民談記』(1742年成立)には「岩倉(=小鴨氏のこと)隆盛の時は、春秋二度の神事盛んに行はれて社頭も美々しかりき。近村に市場といふ所あり。大宮二度の神事前後七日の牛市を此村に催す。遠近の民群集して、牛馬を売買せしとかや。」とみられる。

(岡村吉彦)

活動日誌:2016(平成28)年10月

6日
資料調査(公文書館会議室)。
7日
資料調査(国府人権福祉センター、西村)。
8日
現代部会(公文書館会議室)。
9日
民俗・民具調査(うぐい)(南部町浅井、樫村)。
11日
資料調査(~13日、国立公文書館・国会図書館・防衛省防衛研究所・福島県、西村)。
12日
資料借用等(鳥取県立博物館、湯村)。
13日
郷土玩具・千歯扱き調査(日本玩具博物館・明石市立文化博物館、調査委員)。
14日
資料調査(智頭町旧土師小学校、前田)。
17日
資料調査(前田)。
18日
考古部会(公文書館会議室)。
19日
資料検討会(公文書館会議室、岡村)。
資料調査(高知県いの町、西村)。
20日
資料調査・検討会(大山寺霊宝閣、洞明院、岡村)。
21日
資料調査・検討会(鳥取県立博物館、岡村)。
資料調査(智頭個人宅、前田)。
23日
民具調査(南部町浅井、樫村)。
25日
近世部会にかかる協議(鳥取県立博物館、八幡)。
近世部会にかかる協議(因幡万葉歴史館、八幡)。
資料掲載依頼訪問(護国神社、西村)。
26日
史料調査(鳥取市歴史博物館、八幡)。
資料調査(GHQ住宅、鳥取市歴史博物館、西村)。
27日
全国都道府県史協議会(公文書館会議室)。
28日
三八市・鍛冶屋調査(湯梨浜町松崎、調査委員・樫村)。
都道府県史協議会視察(青谷・鳥取県立博物館)。
29日
絣資料調査(倉吉市福庭、調査委員・樫村)。
31日
史料検討会(公文書館会議室、八幡)。 
資料調査(宮内庁公文書館、前田)。

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編集後記

 今回の記事は、扁額という「資料」の検証です。一方、歴史研究の中では「史料」という言葉も使われています。『広辞苑』の「史料」をみると以下のようにあります。「歴史の研究または編纂に必要な文献・遺物。文書・日記・記録・金石文・伝承・建築・絵画・彫刻など、文字に書かれたものを「史料」、それ以外を広く含めて「資料」と表記することもある。」かつては『広辞苑』のように文字に書かれたものを「史料」と狭くとらえることが主流だったと思います。しかし昨今、遺物や絵画、写真、伝承などあらゆるものが「史料」とされるようです。今回の小鴨神社の扁額は、銘文のみでは寛正2年当時のものとは定かでは無く、多種専門家による調査で材質、工法など総合的な判断から中世に製作されたと判断されました。このように分析技術が向上する中で、歴史家が「文字」以外を歴史研究に自信をもって用いることができることで、「史料」の範囲が拡大しているようです。「史料」と「資料」と境界が曖昧になってきていますが、そろそろ整理が必要な時期に来ているのかもしれません。

(樫村)

  

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