はじめに
新鳥取県史編さん委員会近世部会では現在、『新鳥取県史 資料編近世4 因幡上』『同近世5 因幡下』『同近世6 因府歴年大雑集』『同近世7 編纂物(仮)』の刊行に向けて作業中ですが、調査はほとんど鳥取県内で行っています。しかしもちろん、鳥取藩に関係する史料は鳥取県内だけに残っているわけではありません。
鳥取藩に関係するものの鳥取県外に残る史料のひとつとして、鳥取藩に居住する人物が他藩の者に宛てた書状が挙げられます。このような史料を今回の県史編さん事業で調査していくことは難しいですが、いくつか存在が把握できているものもあります。
今回はそのような例として、島根県出雲市に残る、幕末から明治初期における山陰の教育史に大きな足跡を残した伊藤宜堂(いとうぎどう)の書状をご紹介したいと思います。
伊藤宜堂と出雲
山陰地方屈指の儒学者・教育者だった伊藤宜堂は、字を雅言、名を俊蔵といい、寛政4年(1792)7月、伯耆国日野郡江尾村(えびむら)(現鳥取県日野郡江府町江尾)に生まれました(注1)。少年時代は、近隣久連村(くれむら)(現江府町久連)で眼科医として評判だった徳岡秀閑の下で学問の基礎を学んだといいます。
その後22歳(20歳とも)で江戸へ遊学し、文政8年(1825)帰郷し米子で私塾を開くも振るわず、石見国大森(現島根県大田市大森)の代官から招聘を受け、その地で数年子弟を教授したようです。
天保6年(1835)大森を去り伯耆への帰途、出雲国神門郡今市(かんどぐんいまいち)(現島根県出雲市今市)で宿泊した際、小西某、錦織周泉(秋泉)という2名の医師と面会しました。宜堂の学識の高さに驚いた小西・錦織両人は、出雲の地に留まり塾を開くよう懇願します。
宜堂は心を決め、神門郡下塩冶村(しもえんやむら)(現出雲市塩冶町)で塾を開講しました。この塾を「有隣塾」(ゆうりんじゅく)といいます。塾名は、『論語』の「徳は孤ならず、必ず隣有り(本当に徳のある人は、孤立したり孤独であるということはない。必ず親しい仲間が出来る。)」に因みます。文久2年(1862)に鳥取へ帰郷するまで実に28年もの間、出雲の民間教育に専念しました。
宜堂の帰郷
宜堂の名声は故郷鳥取にも達し、文久2年(1862)には鳥取藩主慶徳の前で御前講釈を行いました。その後有隣塾を閉塾し、同年9月に帰郷、文久3年(1863)には、松江藩の参勤交代路の変更により使われなくなった溝口御茶屋を借用して開校した溝口郷校(ごうこう)の読師(とくし)となりました。藩有地の使用と飯米の援助も藩から許可された溝口郷校では、寺子屋よりも高度な授業が行われたようです。溝口郷校設立と宜堂の帰郷は、若年に有隣塾で学び、当時評判の名医となっていた足羽純亭の尽力によるものでした。
宜堂は明治3年(1870)まで郷校で読師をつとめ、同7年(1874)83歳で没します。門人帖によると、有隣塾・溝口郷校の門下生は348名に上ります。民間教育に捧げた人生といえるでしょう。
伊藤宜堂顕彰碑(江府町江尾東祥寺)
「秦家文書」中の伊藤宜堂書状
今回ご紹介する、出雲に残る宜堂の書状は、島根県出雲市の出雲文化伝承館に所蔵されている「秦家文書」の中にあります。「秦家文書」は同館による調査が実施され、その概要は報告書にまとめられました(注2)。
秦家は、現在の出雲市上塩冶町に鎮座する塩冶神社において、近世初期から明治初年まで神主をつとめた家です。有隣塾は塩冶神社にほど近い場所にあったため、宜堂と秦家は深く結びつきました。
秦家9代の主馬(しゅめ)は、子息4人を有隣塾に入門させました。さらに、天保12年(1841)に宜堂の妻里婦(蘭英)が逝去した後は、主馬の三女きよ(喜代)が後妻となり宜堂を支えました。このような事情で、秦家には宜堂の書状が残されています。
秦家に残されている宜堂の書状は全部で11通。その一覧が表1です。
目録
番号 |
年代 |
宛先 |
内容 |
257 |
(年不詳)6月24日 |
不明(秦家人ヵ) |
養子に関する事など |
258 |
(文久2年)5月11日 |
秦家10代広居 |
養子に関する事など |
259 |
(年不詳)6月24日 |
養子に関する事・郷校の様子など |
260 |
(明治元年)11月6日 |
子息の学校での様子、世上など |
261 |
(年不詳)4月26日 |
郷校に関する事、養子の事など |
262 |
(年不詳)6月4日 |
郷校での様子、御国一新の事など |
263 |
(後欠のため不明) |
時勢変革、手元不経済の事など |
264 |
(年不詳年)6月10日 |
子息の帰省、郷校の様子など |
265 |
(慶応元年ヵ)3月4日 |
養子に関する事など |
266 |
(文久3年ヵ)正月5日 |
秦家11代縅斎 |
郷校開業の状況など |
267 |
(文久2年)閏8月4日 |
秦家11代淡路
(縅斎) |
淡路妻出産祝 |
(表1)秦家文書中の伊藤宜堂書状
*目録番号は『平成27年度 郷土資料調査報告 塩冶・秦家 資料調査報告』(出雲文化
伝承館、2016年)掲載の秦家文書目録番号
*目録番号258、260の2通は、上記報告書に翻刻、解説が掲載されている
溝口郷校の様子
書状は、秦家10代広居(こうきょ)、11代緘斎(かんさい)に宛てたもので、年次は不明なものの、いずれも宜堂が鳥取藩へ帰郷した文久2年(1862)以降のものと推測されます。書状は公的な記録と比べて解読・解釈ともに難解ですが、いくつか内容をご紹介したいと思います。
まずは、溝口郷校に関する記述を取り上げてみます。
文久3年(1863)と推定できる正月5日書状(目録番号266)に、「拙開業いまだ相決まらず、よんどころ無き故障もこれ有る趣に相聞へ候」とみえます。鳥取へ帰郷したものの、溝口郷校の開校が決まらず落ち着かない様子がうかがえます。
郷校が開校した後は、秦広居の子息が入校したようで、学校での様子を書状に認め広居に知らせています。
(史料1:年不詳6月24日書状・目録番号259)
…先書ニも荒々申し上げ候通り、校中居り合至極宜しく、読書も少々ハ出来仕り候、第一カン症など不快差起き候様子御座無く、此のミ安心仕り候…
(史料2:年不詳4月26日書状・目録番号261)
…令郎近来の形勢御懸念在らせられ候段、至極御尤の御儀と察し奉り候、何分拙校ニ而緩々と教導仕りたく候、追々動静申し上げ候、此節校中十人ばかり在宿仕り候ニ付、早速居馴れ候様子ニ而、拙も安心仕り候…
(史料3:年不詳6月4日書状・目録番号262)
…近来は、九輩相会し、日々孟子会読、世説講釈等仕り候て、怠慢無く勉強に相成り候…
(史料1)では、秦広居の子息が校中折り合いよく生活していること、読書も少し出来るようになったことが述べられています。また(史料2)では10人程が在宿していること、(史料3)では、9人が一同に会し、四書五経のひとつ『孟子』を会読していることなどが述べられています。会読とは、多人数が寄り合いひとつの書物を読み研究することで、現在の読書会がこれに当たります。
この記述から、幕末の動乱に惑わされず勉学に励む生徒たちの様子が垣間見えます。
宜堂筆溝口郷校の図(江府町教育委員会蔵)
書状にみえる宜堂の明治維新観
また、書状には、宜堂が明治維新をどうみていたのか窺える記述があります。
(史料4)【年不詳6月4日書状・目録番号262】
一、御国一新ニ付、文事大御興隆の由、議事等御新令これ有る趣、実に以て賀すべし感ずべし
事ニ御座候、何卒永久の場ニ至り候様祷り奉り候・・・
史料4は、明治維新前後のものと考えられます。さらに、明治元年(1867)と推定される書状(目録番号260)には、「時勢変革の儀ハ、誠ニ語言に尽くし難く、時々驚歎の事ニ御座候」「文学追々興起の勢ニ而、妹尾内却の輩、追々青雲の趣賀し奉るべく候」という文言がみえます。
大きな時代の変化を目の当たりにし、驚きつつも、基本的には明治維新を肯定的に受け止めている様子がうかがえます(注3)。
書状で最も多く話題に挙がっているのは、跡継ぎに恵まれなかった宜堂の養子に関するもので、いずれも深刻な内容ですが、なかには3月1日・2日(現在の3月下旬頃)に溝口宿で2・3寸(6~9センチ)程の積雪があったことなど、日常の些事に関わる記述もあり、我々に様々なことを知らせてくれます。
溝口での積雪を伝える書状(目録番号265)
おわりに
今回は、鳥取県内ではあまり知られていないと思われる、出雲に残された伊藤宜堂の書状についてご紹介しました。これは、今までも紹介されることがあったものですが(注4)、出雲文化伝承館の調査により全容が判明し、より利用しやすくなりました。また、秦家文書には、広瀬旭荘(ひろせきょくそう)などの当時一流の学者が宜堂に宛てた書状も残されています。これを機に、鳥取県内でもこれらの史料が活用され、宜堂の研究が進められればと思います。
また先日、『新鳥取県史 資料編 近世7 編纂物(仮)』に関する調査で江府町教育委員会を訪れた際、担当していただいた職員のご厚意で、前掲の宜堂筆溝口郷校の図や宜堂の先妻蘭英の辞世の句の原本などを閲覧させていただきました(注5)。これらはいずれも地域の歴史を物語る貴重な史料です。これらの史料が今後何かの形で活かされていけばと思います。
(注1)以下、伊藤宜堂に関する記述は、安達一彪『宜堂と純亭』(鳥取県日野郡江府町、1992年)、半田礼子・米山美保子『勝部貫一(其楽)―出雲・英語教育の先駆者』、岡宏三「塩冶神社の歴史と秦家」(『平成27年度 郷土資料調査報告書 塩冶・秦家 資料調査報告』、出雲文化伝承館、2016年)を参照。
(注2)(注1)『平成27年度 郷土資料調査報告書 塩冶・秦家 資料調査報告』。以下、塩治神社と秦家についての記述は同書による。
(注3)宜堂の明治維新観については、既に岡宏三氏が指摘されている(注1「塩冶神社の歴史と秦家」)。
(注4)(注1)安達一彪『宜堂と純亭』など。
(注5)いずれも(注1)『宜堂と純亭』などで紹介されている。江府町の調査では、江府町教育委員会生田志保氏、松原俊二氏にご対応いただきました。
(八幡一寛)
2日
軍事編資料の確認(鳥取県立博物館、西村)。
8日
民俗資料確認(二十世紀梨記念館、樫村)。
9日
資料返却(鳥取県立博物館、湯村)。
12日
15日
資料調査(やまびこ館、前田)。
資料調査(GHQ住宅、奉安殿、西村)。
16日
18日
近代部会打合せ(鳥取大学、前田)。
20日
史料検討会(公文書館会議室、西村)。
23日
25日
26日
史料検討会(公文書館会議室、岡村)。
27日
楢柴竹造関係資料調査(鳥取市国府人権福祉センター、西村)。
資料調査(隠岐のイカ漁・加工用具)(~30日、西ノ島ふるさと館(隠岐郡西ノ島町)ほか、樫村)。
29日
資料調査(河原町山手、西村)。
資料借用(定光寺(倉吉市)、大山寺霊宝閣(大山町)、岡村)。
30日
史料調査(あおや郷土館、八幡)。
★「県史だより」一覧にもどる
★「第129回県史だより」詳細を見る