はじめに
前近代は、現在と比べて宗教が身近に存在していた時代でした。そのため人々は、神社や寺院といった宗教施設や、それらを管理する僧侶や神職などの宗教者とも日常的な関わりがありました。
江戸時代の鳥取の寺社や宗教者ついては、各種自治体史に記述があるものの、例えば個別の神社やそこに奉仕する神職家の歴史といった具体例については、それほどスペースが割かれてはいないように思われます。
そこで今回は、鳥取藩の神職に注目してみたいと思います。神職や神社の個別事例の検討をすすめる前段階として、まず先行研究によって鳥取藩の神職をとりまく制度を概観し、次に鳥取藩政資料からみえる在(農村部)の神職について考えてみたいと思います。
江戸幕府の神職支配
寛文5年(1665)に幕府が「諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)」を発布すると、位階をもたない全国のほとんどの神職は、「吉田之許状」を得なければ、神事の際に着用する風折烏帽子(かざおりえぼし)や狩衣(かりぎぬ)などが着用できなくなりました(注1)。
「吉田之許状」とは、公家で京都吉田神社の神職家でもあった吉田家が発給する「神道裁許状(しんとうさいきょじょう)と呼ばれる許状です。裁許状を得なくても「白張(はくちょう)」という装束(無地の真っ白な服)は着用できましたが、当時これは身分の低い者が着るもので、神に仕え国家安泰などを祈願する神職が着用すべきものではないとみなされていました(注2)。結果、全国の神職たちは、吉田家から神道裁許状を取得するようになりました。また神道裁許状は神職の身分保障にもなりました。
つまり、幕府は吉田家を通して神職の統制を行ったのです。近世後期には公家の白川家も神職を配下に置くようになりましたが、吉田家の優位は変わりませんでした。
神道裁許状は、鳥取県内の神職家にも多く残されています。多くは、奉仕社の神主一人が代替りごとに神道裁許状を得るのが普通だったと思われますが、神主以外の神職が神道裁許状を取得することもあったようです。例えば、9世紀後半から神階授与の記録がみえる旧高草郡加路村の賀露神社では、神主である岡村家のほかに、祭礼で神楽演奏を担当する「楽頭(がくとう)」をつとめた岸本家も神道裁許状を取得していました(注3)。
鳥取藩の神社支配
吉田家の神道裁許状で身分を確保していた鳥取藩の神職は、藩内ではどのように支配されていたのでしょうか?これについては、大嶋陽一氏の研究があります(注4)。以下、大嶋氏の研究に拠って述べていきたいと思います。
鳥取藩の神職は、寺社奉行を頂点に、(1)神職組織による支配、(2)居住する町・村の支配組織を通した支配という二重の支配を受けていました。
(1)は、寺社奉行―総幣頭―各郡の幣頭―幣下(一般神職)という支配系統です。
幣頭(へいとう)とは、藩内の神職の取締りや藩への取次を行う役職で、各郡の由緒ある社家が選ばれました(注5)。総幣頭(そうへいとう)は、それら幣頭を管轄する役職で、因幡東照宮の禰宜を兼任した鳥取上町長田神社の永江氏が代々勤めました。
「幣頭」とはあまり聞きなれない言葉ですが、隣国の出雲国松江藩や隠岐の国でも、一般神職を統括する役職を幣頭と呼んでいました。ただ、松江藩では幣頭を補佐する幣老という役があったり、前述の通り鳥取藩では幣頭の上に総幣頭が存在するなど制度には違いがありました。
(2)については、城下町鳥取は寺社奉行の直接支配を受ける神社が多く、米子・倉吉など家老による自分手政治が行われた町はその地の町奉行の支配を受けました。それ以外の在(村方)の神職は、各郡の宗教行政を担当する宗旨庄屋によって支配されていたようです。
(1)のルートは神道裁許状の取得や神葬祭の申請などの「神事」に関するものが多く(注6)、(2)のルートは藩からの触の伝達などに使われたといいます。藩に対する出願は、(1)(2)両方のルートから上申し、寺社奉行が両者を比較して決済したようです。
また、神職の中には、寺社奉行と直接やりとりが可能な「直触」(じきぶれ)、宗旨庄屋から直接触が達せられる「宗旨庄屋触」という格式もありました。
近世鳥取藩の神職数
さて、以上のように吉田家から神道裁許状を取得し、藩内では二重の支配を受けていた神職は、どれくらい存在したのでしょうか。
これについても大嶋氏の研究で触れられており(注7)、文化元年(1804)には、因幡国で105人(うち鳥取町は6人)、伯耆国で175人(うち米子町9人、日野郡は後欠のため暫定数)、鳥取藩領全体で280人でした。寛延2年(1749)の神社数の記録との比較で、平均して神職は、大小さまざまな社を一人あたり20~30社程度の割合で管轄していたと述べられています。
20~30社というと、その範囲は複数村にまたがると思われますが、それでは当時の神職は何ヶ村に一人程度の割合で存在したのでしょうか。
表1 因幡・伯耆の神職と村数
*神職数は寛政年間の神職を書き上げた「因幡国・伯耆国神主」(鳥取 藩政資料6449)による。ただし、鳥取町、倉吉町、米子町は除いた数値と思われる。
*村数は天保郷帳の数値(『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』平凡社より)。
表1は、寛政年間の在(農村)の神職数と天保郷帳の村数を示したものです。ここから、平均して神職は約5村に一人の割合で存在していたことが分かります。各村にそれぞれ氏神があったと仮定すると、神職は、比較的規模の大きい5社の氏神と、20社前後の摂社や末社、小祠などの小さな社を管理していたというイメージが浮かんできますが、実態はどうだったのでしょうか。因幡国を取り上げて少し詳しく見てみたいと思います。
「神社御改帳」にみる明和期の因幡国の神職
第51回県史だよりにも紹介されていますが(注8)、「神社御改帳」は鳥取藩が藩内の神社を把握するため江戸時代に何度か作成を命じたもので、神社名や祭日、社地の広さ、附属建築物などに加えて、その村を管理する神職が記されています(史料1)。そのため、一人の神職が担当した村や社の数が判明します。
史料1 明和6年(1769)「高草郡神社御改帳」加路村の項
鳥取藩政資料中には、因幡国のものは明和期(1764~1772)分しか残っておらず、しかも岩井郡(上構(注9))、智頭郡(上構)、八東郡、法美郡の全域が欠けていますが、残存する8冊から神職と管轄村をまとめたものが表2です。
表2 明和期(1764~1772)の因幡国神職数と管轄村
*鳥取藩政資料中の因幡国「神社御改帳」8冊をもとに作成。
*岩井郡(下構)、法美郡(全域)、八東郡(全域)、智頭郡(下構)は藩政資料中に「神社御改帳」がないため不明。
*村の数は「神社御改帳」に記載されている数値。枝村を含む。
表2から、明和期の因幡国には、平均すると4.5村に一人の割合で神職が存在していたこと、しかし実際の神職の管轄村は1村から10数ヶ村まで幅が大きかったことが分かります。
では、神職の管轄村の違いには何か理由があったのでしょうか。高草郡を事例に考えてみたいと思います。
表3 高草郡下構の神職と管轄村・持宮
*明和6年(1769)「高草郡神社御改帳」をもとに作成。。
*冒頭で述べたが加路村の楽頭岸本家がみえない理由は不明。
表3は、高草郡下構の神職と管轄村・持宮の一覧です。表からは、複数村を管轄する神職の管轄範囲は居村を中心にしたものであることは確認できますが、それ以上のことは「神社御改帳」からはうかがえません。ただ、鳥取藩の神職は複数村の神社を管轄するのが一般的だったとはいえそうです。
なお、賀露神社社家岡村家と布施村山王権現社家上地家は共に永代直触という格式でしたが(注10)、岡村家の管轄は1村6宮、上地家が9村24宮と差がありますので、直触などの格式と管轄村・持宮の数にはあまり関連はなさそうです。
ただ、「神社御改帳」から判明する他郡の幣頭をみると、気多郡山西の幣頭宇田川頼母(鳴滝村)は13ヶ村、智頭郡上構の幣頭田中土佐(東井村)は14ヶ村の社を管理しています(注11)。幣頭は由緒ある神社の神職が就任していたことを考えると、幣頭クラスの神職は管轄村が多かったという傾向はありそうです。
また、表3では、高草郡上構の中村に居住していた宇田川靫負が、中村周辺の6ヶ村と、川を挟み構の違う大満村の社も管理している点が注目されます。
このような神職の管轄範囲はどのような歴史的経緯で形作られていたのかは、地理的な要因やそれぞれの神職家・神社の具体的な歴史を繙いて考えてみる必要がありそうですが、紙幅も尽きたため、機会を改めて考えてみたいと思います。
おわりに
今回は、鳥取藩の神職をめぐる制度を概観した後、鳥取藩政資料を使って、鳥取藩、特に因幡国の在(村方)の神職の人数とその管轄範囲について若干検討してみました。
その結果、鳥取藩の村方では、神職はおよそ4~5の村に一人程度の割合で存在していたこと、しかし実際の神職の管轄範囲は1村から10数ヶ村まで幅があり、神職は複数村を管轄するのが一般的だったと思われることが分かりました。また、幣頭に任命される神職は管轄範囲が広範に及ぶ例が多いこと、しかし永代直触などの格式と管轄範囲の多少はあまり関係がなさそうであることもみえてきました。
ここから先、神職の管轄範囲が形成される歴史的経緯や理由などを考えていくためには、神社側の史料調査を進める必要がありそうです。
『新鳥取県史 資料編 近世 因幡』が今年度末に刊行されると、鳥取藩政資料中の「神社御改帳」は概ね活字化されることになります。このことが、鳥取藩の神社・神職研究が進むきっかけになればと思います。
また、鳥取藩政資料に欠けている岩井郡(下構)、智頭郡(下構)、法美郡、八東郡全域の「神社御改帳」の確認調査は、『新鳥取県史』刊行後の課題です。情報をお持ちの方はお知らせ下さい。
(注1)「諸社禰宜神主法度」「神道裁許状」については井上智勝「神道裁許状と諸社禰宜神主法度」(同『近世の神社と朝廷権威』(吉川弘文館、2007年)第1編第2章)を参照。
(注2)井上智勝『吉田神道の四百年 神と葵の近世史』(講談社選書メチエ、2013年)114頁。
(注3)「「楽頭許可状」6通発見」(日本海新聞2015年9月29日25面)
(注4)大嶋陽一「鳥取藩の神社と神社改帳」(若葦会創立四十五周年記念事業『因幡国神社御改帳(釈文) 付 鳥取県立公文書館所蔵「神社絵図」』2012年。これは、鳥取県東部の青年神職組織である若葦会会員にCD形式で配布されたもの)
(注5)坂本敬司『大庄屋と地域社会―八橋郡箆津村河本家文書が語るもの―』(鳥取県史ブックレット18、2016年)6頁。
(注6)神葬祭については、田村達也「因幡国の神葬祭運動―文化年中を中心にして―」(『鳥取地域史研究』第1号、1999年)。
(注7)大嶋前掲論文。
(注8)「江戸時代の「神社御改帳」」(第51回県史だより)
(注9)鳥取藩では、郡の下に「構」という行政単位があり、ひとつの郡は2~3の構に分割されていた。
(注10)慶応2年7月「因伯寺院神職直触帳」(鳥取藩政資料6521)
(注11)その他「神社御改帳」から判明する幣頭の管轄村は、岩井郡上構が4村(内枝村2村)、八上郡は1名は4村、1名は12村。邑美郡の幣頭は鳥取上町の永江遠江守が勤めており、これは総幣頭の永江氏と思われるが、総幣頭と幣頭を兼任することが可能だったのかは不明。
(八幡一寛)
10日
資料(道標)調査(鳥取市内、八頭町、若桜町など、樫村)。
14日
史料検討会の報告、『地誌編』協議(倉吉市立図書館、八幡)。
15日
民具(漁具)調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館、樫村)。
19日
23日
戦後農政に関する協議(鳥取県農業会議、西村)。
24日
古墳測量に関する打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・西川)。
29日
31日
民具(因伯の絣)調査(倉吉市、樫村)。
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