はじめに
本年7月1日、占領期の鳥取に関する県内初の歴史講座として「占領期のTOTTORIを知る会」(鳥取市歴史博物館と共催)を開催しました。当日は想定の3倍にあたる約120名の方にご来場いただき、「鳥取県にやってきた占領軍」(小山富見男現代部会長)、「鳥取軍政隊関係資料が語り出す」(西村)と題して、占領期研究の現状と課題について紹介しました。会の終了後、来場者の皆さんに占領軍の英文記録の共同解読を呼びかけたところ、約15名の方に応じていただき、月1回のペースで5回開催しました。
今回は占領軍の進駐経緯とこれまでの英文解読で判明したことについてご紹介します。
GHQ占領軍の鳥取県進駐
終戦から2週間後の1945(昭和20)年8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木基地に到着し、占領軍の日本進駐が始まります。それから2ヶ月後の10月29日、アメリカ軍第21聯隊オスボン少佐以下197名が鳥取に到着し、旧鳥取歩兵第40聯隊岩倉兵営の接収を開始しました(注1)。翌46(昭和21)年2月には中四国地域がイギリス連邦占領軍(British Commonwealth Occupation Force:BCOF)の管轄となったため、アメリカ軍に替わりイギリス連邦インドパンジャブ聯隊第5大隊が岩倉兵営に進駐。5月30日には若桜街道-県庁-裁判所前-智頭街道-駅前を巡る市街行進を挙行します。吹奏楽隊の奏でる音楽に合わせて歩むインド兵は「指揮官に対しては挙手の礼を送り、初めて見るアラビアンナイト宛(さなが)らの夢の如き南国情緒に市民は奇異の歓呼の眸(ひとみ)を送」りました。「各中隊毎に異なる軍帽の飾りと袈裟に似た吹奏楽隊の服装は歩道を埋め尽くした参観人の脳裏に深く刻み込まれた」と当時の新聞は伝えました(注2)。
写真1 英印軍の鳥取市内行進の模様を伝える新聞記事(日本海新聞昭和21年5月31日付)
一方、旧海軍美保航空隊には、1945年11月12日にアメリカ第10軍団第24師団第3聯隊パーン大佐以下160名が到着。46年5月にクリスティ大佐率いるイギリス連邦空軍に交代し、イギリス空軍第11・17飛行中隊とインド空軍第4飛行中隊の基地として接収されました。英連邦軍が発行した新聞BCON(British Commonwealth Occupation News)には、岩国飛行基地から飛来したインド空軍の戦闘機スピットファイアが美保基地上空で「4」の字を描く編隊飛行の様子が、出迎える司令官の写真とともに掲載されています(注3)。
写真2 BCON 1946年6月24日付(国立国会図書館所蔵)
鳥取軍政部活動報告
岩倉兵営や海軍美保航空隊等の旧日本軍施設の接収にあたった上記実戦部隊とは別に、地方の占領行政の監視役として各県に配置されたのが地方軍政部(Military Government)です。鳥取県の場合は、1946年7月1日に、県庁近くの教育会館2階に事務所が置かれ、初代ウィリス・ノーラン隊長以下6名の将校と下士官数名が事務を開始しました。軍政部の任務は、地方の占領行政の監視・点検、占領のねらいや命令等の啓発、命令不履行状況の報告、命令不徹底の場合の助言、忠告、上級部隊ヘの報告でした(注4)。
この軍政部の活動は軍政部活動報告 Military Occupation Activities Reportとして半月(1947年からは一月)ごとにGHQ司令官及び関係部局へ送られました。鳥取軍政部Tottori Military Government Teamの報告は1946年8月31日から48年6月分まで残っています(一部欠落あり)(注5)。占領行政に関する県庁側の窓口として1946年12月に渉外事務局(1950年5月から渉外課)が設けられ、軍政部との折衝、文書のやり取りが行われたことはGHQ側の記録で窺えます。しかし、渉外事務局の関係文書は一冊も残されておらず、1952年鳥取大火により民間資料も焼失したため、この軍政部活動報告は本県にとって、占領下の県行政と県民の姿を伝えてくれる同時代の貴重な記録といえます。
報告書には、1事行政の状況、2政党と政治活動、3連合国最高司令官指令(SCAPIN)に対する日本政府機関の遵守状況、4深刻な伝染病の発生地とその程度、5占領軍と日本国民の関係性、6重要事項が記されています(1946年10月1日付レポートの場合)。これまで3回の英文解読の結果、軍政部が関心を寄せている事項は、コレラ・チフス・疱瘡・性病などの感染症対策と衛生状態、米子鉄道管理部や鳥取県農民総同盟、鳥取県教育会などの組合活動、朝鮮人の帰還計画の実行状況、賠償指定工場の保全管理でした。
鳥取県に特徴的な事柄として、1946年9月に二十世紀梨の生育状況調査が実施され、戦中戦後の物資供給不足が原因で肥料・袋用ワックス・病害防除液が不足し、未熟または落果のため梨の供給量が少なく高値となっていたことなどが報告されています。SCAP(連合国最高司令官)科学顧問が農林専門学校(鳥取大学農学部の前身)を視察して角倉校長らと懇談し、大山周辺の黒土の有効利用について意見を交わしたことも長文で記載されています。
進駐軍と日本人の関係変化
レポートには毎回、「占領軍と日本国民との関係性」という項目があります。1946年8月~9月報告では、両者の関係は良好で日本人は親切だと記載されました。しかし、10月1日付レポートには「占領軍と日本人の関係は良い状態を保っているが、鳥取市と近郊町村の子どもたちの友好的な態度に顕著な変化があった」として、次のように記します。
Where many use to shout hello, goodbye, etc, at passing Allied vehicles, now only stare with a blank expression.
これまでは占領軍のクルマが通り過ぎると子どもたちが占領軍兵士に対して"hello""good-by"の言葉を投げかけたが、今は無表情に見つめるだけである
このような変化が何に起因したのかは不明ですが、一つの理由として背景に進駐軍兵士による犯罪や交通事故の多さが考えられます。すなわち、8月31日付報告ではレストランでの飲酒拒否に対する器物損壊1件・交通事故4件(日本人児童2人死亡)・窃盗(チキン、カメラ)2件・強姦2件、9月16日付報告では日本人家政婦に対する強姦未遂3件・交通事故3件(物損)、10月1日付報告では暴行1件、強姦1件・交通事故2件(うち児童死亡1、負傷1)が報告されています(注6)。こうした進駐軍の犯罪実態は本報告書の解読で初めて明らかとなりつつあります。
おわりに
日本では1945年8月15日が終戦の日とされていますが、国際法上、連合国諸国との戦争状態が終結したのは1952(昭和27)年4月28日サンフランシスコ講和条約発効でした。この間6年半余の占領期は現代のわたしたちに何をもたらしたのか、進駐軍と鳥取の人々との関係性はこの後どのように変化していったのか、今後の解読の注目点です。
(注1)鳥取県に初めて進駐軍の将兵が足を踏み入れたのは10月28日。アメリカ第6軍第10軍団第24師団情報官ラスボン中佐一行6名による米子到着が最初ですが、彼らは県庁、飛行場、道路、港湾、大山を巡視したのち11月6日には離県します。
(注2)日本海新聞(昭和21年5月31日付「南国情緒豊かに行進-絵巻を展開/英印軍がきのふ鳥取で」)、鳥取県立図書館所蔵
(注3)BCON(British Commonwealth Occupation News)1946年6月24日付(国立国会図書館所蔵)なお、オーストラリア戦争記念館がweb上で公開している英連邦軍関係資料では、英空軍が旧海軍航空隊を英空軍航空基地へと改修している工事の様子が動画で視聴できる(2017年12月01日現在)。
(注4)都道府県軍政部要員の配置基準は、特別地域(東京・神奈川・大阪)、第1級地域、第2級地域、第3級地域に区分され、鳥取県は第3級地域で将校6名・下士官25名が定数とされた。(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』1983年)
(注5)軍政部活動報告を含むGHQ/SCAP文書の原本はアメリカ国立公文書館が保管。1978年以後公開が始まり、国立国会図書館がマイクロフィルムによる複写収集作業を実施。現在、同憲政資料室でマイクロフィッシュで公開されている(埼玉県県民部県史編さん室「埼玉軍政部資料調査報告書」1990年)。本県関係部分については鳥取県立図書館が購入済みで、館内で閲覧が可能となった。
(注6)『鳥取県警察史』(鳥取県警察本部、1981年)は、英印軍進駐以前の米軍時代の犯罪について、「明らかにする資料は乏しいが、他県にみられるような凶悪な犯罪は発生していない」としながら、英印軍進駐以後は「先の米軍に比べて不法行為の頻発をみたようである。しかしその詳細については明らかでない」と記す。
(西村 芳将)
2日
古墳測量業務入札(公文書館会議室、西川・田淵)。
3日
12日
民俗部会事前協議(米子市、樫村)。
14日
16日
17日
21日
民具調査(~22日、智頭町旧山形小学校林業資料室、樫村)。
24日
GHQ資料調査(~26日、国会図書館、国立公文書館、西村)。
26日
都道府県史協議会(~27日、三重県総合博物館(津市)、岡村・樫村)。
28日
近代部会(公文書館会議室)。
日本民具学会(~30日、山形県米沢市、樫村)。
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