はじめに
中国地方最高峰の大山は、古くから山岳信仰の霊峰として知られ、平成30年には開山1300年を迎えます。寺伝によれば、養老2年(718)に金蓮上人(きんれんしょうにん)によって地蔵菩薩が山中に祀られたのがはじまりであるとされ、以来、多くの人々の信仰を集めてきました。
その中腹にある大山寺は、大山信仰の中核として、西明院(さいみょういん)・南光院(なんこういん)・中門院(ちゅうもんいん)で構成される大きな寺院組織を抱えていました。その起源は定かではありませんが、承安2年(1172)の鉄製厨子銘に「西明院院主・南光院別当・中門院座主」の名がみえ(注1) 、文治2年(1186)にも東大寺の僧理心が「大山西明院」にて大般若経を書写していることから (注2)、遅くとも12世紀中頃までには大智明権現(だいちみょうごんげん)を中心とする「一山三院」体制が確立していたと考えられます。
また、正慶2年(1333)の花園上皇書状に「伯州大山寺」「彼大山寺ハ」とみえることから、鎌倉時代末期にはこれらの寺院組織が「大山寺」と呼ばれていたこともわかります(注3)。
一方で、中世の大山寺は多数の僧兵を抱える一大地域勢力でもありました。一説には3000人の僧兵を抱えていたとされ、15世紀後半に書かれた『補庵京華集(ほあんけいかしゅう)』にも3800余りの僧坊があったと記されています(注4) 。これらの数字が事実かどうかはわかりませんが、『中右記(ちゅうゆうき)』には嘉保元年(1094)に大山大衆300人が強訴のため京都に押しかけたという記述があるほか(注5)、近年の大山寺僧坊跡の発掘調査でも約170ヶ所の堂舎・僧坊跡が確認されていることから、多くの僧兵や僧坊を抱える大寺院であったことは間違いないと思われます。
ところで、このような大規模な寺院勢力を支えるためには、それだけの経済的基盤が必要となることは言うまでもありません。江戸時代の大山寺は寺領3000石のほか牛馬市による経済的繁栄もあったと考えられますが、中世以前の経済的基盤については不明な点も多いのが実情です。その基盤の1つに大山寺が持っていた寺領(荘園)があります。今回は中世の伯耆国内の大山寺領について取りあげてみたいと思います。
久古荘(久古御厨・久古御牧)(日野郡)
久古荘(くごのしょう)は現在の伯耆町(旧岸本町)に所在する荘園で、『伯耆民談記』によれば、別所・久古・番原・真野・大原・清山・須村・原・上野を含む地域を荘域に持つとあります。中世の史料には「久古御厨(くごみくりや)」「久古御牧(くごみまき)」ともみえます。これらのうち上野を除く8か村は八郷(やごう)と呼ばれ、近世初頭には米子城主中村一忠の領有するところとなりました。
「大山寺文書」によれば、観応2年(1351)山名時氏が大山寺西明院に久古御厨を寄進したとあり(注6) 、永享12年(1440)には山名持豊が西明院衆徒中に対して「久古御牧庄一円」を安堵するなど(注7)、南北朝~室町時代には一円が大山寺領であったことがわかります。
応永10年(1403)には大山寺の西明院の雑掌(ざっしょう)が当地の地頭職安堵を求めていることから、西明院から雑掌(代官)が派遣されて現地の管理を行っていたと考えられます。荘域内にある別所という地名は、本拠地を離れた寺社の宗教施設を彷彿させるものであり、あるいはこのあたりに役所が置かれていたのかもしれません(注8)。
また、番原に鎮座する植松神社は当荘の鎮守とされ、同神社の棟札によれば、天文3年(1534)に「大山寺本院」が同社を建立したとあります。ここでいう本院とは西明院を指していると思われ、当地域と大山寺西明院の強い結びつきが窺えます。
このように、久古荘については、南北朝以降に大山寺西明院領となり、その後も中世を通じて同院領として継承されていったと考えられます。
特に注目したいのは、この久古荘が日野川中流域の東岸に位置しているという点です。日野川は西伯耆山間地域と日本海をつなぐ主要河川であり、西伯耆随一の水運の大動脈でした。そのため、日野川をめぐっては流域の領主や民衆がさまざまな経済活動を展開していたと考えられます。久古荘は日野川中流域に面した広範な荘園であり、当荘域の人々や大山寺関係者も日野川を舞台とするさまざまな経済活動に関わっていた可能性は高いと考えられます。
宇多川荘・稲光保(汗入郡)
宇多川荘(うだがわのしょう)は汗入郡北部の宇田川流域に広がる荘園です。平安時代に近江国日吉社の荘園として寄進され、以後大原来迎院や山内首藤家等の手を経て、南北朝期には大山寺の領有するところとなりました。また稲光保(いなみつのほ)は宇多川荘の東側に隣接する地域で、南北朝期には丹波国人波々伯部(ははきべ)氏が地頭職を保有していましたが、その後大山領になったと考えられます。両地域とも久古荘と同様に室町時代初めには大山寺領であったことが確認できます。
ここで注目しておきたいのは、これらの地域が日本海に面していることと、宇多川荘の荘域内に西伯耆有数の要港である淀江が含まれているという点です。
宇田川の河口に位置する淀江は、古代より朝鮮半島と山陰地域を結ぶ窓口であるとともに、日本海水運の要港でもありました。永禄7年(1564)には毛利元就が尼子氏との戦いの中で兵糧米を杵築から淀江へ船で送るよう命じているほか、地域商人たちの自由な売買を禁止する「兵糧留(ひょうろうどめ)」を行っています(注9)このことは淀江が内陸部と日本海を結ぶ窓口であったこと、この地域を舞台に商人たちがさまざまな経済活動を展開していたことを示しています。
中世の淀江は宇多川荘の人々にとっても重要な経済拠点であったと考えられます。宇多川荘や稲光保には、淀江を窓口としつつ日本海を舞台に活動する商人たちが多数存在し、さまざまな経済活動を展開していたと考えられます。
由良郷・大谷郷・土井郷・方見郷(八橋郡)
年未詳の尊澄(隆ヵ)文書目録渡状によれば、「由羅・大谷・土井・方見四ヶ郷重書(譲状)」とみえ、由良(ゆら)郷・大谷(おおたに)郷・土井(どい)郷・方見(かたみ)郷の4郷の中に大山寺領があったことがわかります。
このうち由良郷を流れる由良川と方見郷を流れる加勢蛇(かせいち)川の下流域には、かつて潟湖があったと言われています(注10) 。中世以前の日本海沿岸部には、河川と日本海によって数多くの潟湖が形成され、独自の景観が広がっていました。特に平坦な砂丘地が広がる因幡・伯耆の沿岸部では、日本海の荒波を避けることのできる場所が少なく、潟湖は重要な船の停泊地となっていました。同時に潟湖は内陸から流れ出る河川の河口に位置しており、海と陸の結節点として交通・経済上の拠点でもありました。そのため、潟湖から日本海へ注ぐ出口部分には湖山潟(現在は湖山池)の溝口(みぞのくち)や東郷池の橋津(はしづ)のように要港が存在していました(注11)。
加勢蛇川下流に位置する大塚(逢塚)は、そのような潟湖の口にできた港の1つであると考えられます。文禄5年(1596)の「廻国通道日記(かいこくつうどうにっき)」にも、薩摩の山伏が大山寺に納経した後、赤崎へ行き、港伝いに八橋・大塚を経て橋津に向かったと記されています(注12)。また1562年に明で作成された『籌海図編(ちゅうかいずへん)』にも「倭子介(大塚)」とみえ(注13) 、「阿家殺記(赤崎)」とともに西日本海域の主要な港として外国からも認識されていたことがわかります。
また中世の文献に「由良・一宮之湖」とみえるように、由良郷一帯にも「一宮之湖」(東郷池)と並ぶ大きな潟湖が存在していました。近世初頭の「伯耆国絵図」にも湖が大きく入り込んでいる様子が描かれています。
大山寺領のある由良郷・大谷郷・土井郷・方見郷は平坦な海岸線が続くものの、大きな潟湖や大塚のような要港が存在しており、西日本海の水運構造に組み込まれた経済的要地であったと考えられます。これらの潟湖や港を中心にこの地域の領主や民衆が日本海を舞台とするさまざまな活動を展開していたであろうことは想像に難くありません。
なお、天正14年(1586)の大山寺中門院御旗書付写には「伯州八橋郡地蔵大権現幣衆」とみえ(注14)、八橋郡内に幣衆(へいしゅう)と呼ばれる大山寺の祭礼に参加する人々がいたことを示しています。大山寺と八橋郡の深い結びつきを示す史料であるといえます。
おわりに
今回は伯耆国内の大山寺領について、主なものをいくつか紹介しました。このほかにも、三野御厨(みのみくりや)(会見郡)、渡村(日野郡)、束積(つかづみ)(汗入郡)、かきかけ(鍵掛)といった地域に大山寺領が存在していたことが史料から確認できます。
中世の伯耆国においては、これらの地域が大山寺を経済的に支えていたほか、祭礼の担い手にもなっていたと考えられます。
特に注目しておきたいのは、これらの大山寺領が主要河川や日本海に面しており、潟湖や要港を抱える伯耆国内の経済・交通上の要衝であったという点です。
今回取り上げた大山寺領はいずれも広範な領域を持つ荘園ですが、農業生産力だけでは多くの大山寺の衆徒たちを経済的に支えることは難しかったと思われます。しかし、河川・潟湖や内港・外港が構成する水運・流通構造、そこから外に広がる日本海の世界に目を向けたとき、これらの寺領は大山寺と外の世界をつなぐ役割を果たしていたと考えられます。
そして、これらの地域にはさまざまな経済活動に関わる民衆や大山寺関係者がいたと考えられ、そのことが大山寺の経済的基盤を支える一要素になっていた可能性は大いにあると考えられます。
1つの史料に含まれる歴史情報は限られていますが、内容だけでなく、そこから広がるさまざまな世界に目を向けたとき、史料は広がりを持った豊かな地域の歴史を我々に語りかけてくれるのです。
(注1)「大山寺鉄製厨子銘」(『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』153頁、以下『古記録編』と略す)。鉄製厨子については、佐伯純也「伯耆大山寺所蔵鉄製厨子に関する基礎的考察」(『郵政考古紀要』60、2014年)が詳しい。
(注2)『古記録編』16頁。
(注3) 『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編 上』(以下『古文書編 上』と略す)333頁。
(注4)『古記録編』875頁。
(注5)『古記録編』319頁。
(注6) 『古文書編 上』127頁。
(注7) 『古文書編 上』128頁。
(注8) 別所の地名の由来は戦国期に播磨国三木城主別所長治が当地に移住したためと言われているが(平凡社日本歴史地名体系32『鳥取県の地名』)、再考が必要であろう。
(注9) 『古文書編 上』137頁、『古文書編 下』110頁
(注10)日本歴史地名体系32『鳥取県の地名』(平凡社)の「加勢蛇川」の項。
(注11) 溝口については、錦織勤著『鳥取県史ブックレット12 古代中世の因伯の交通』(鳥取県、2013年)参照。
(注12)栗林文夫「『廻国通道日記』について」(『黎明館調査研究報告』第26集、2014年)。『古記録編』586頁。
(注13) 『古記録編』937頁。
(注14)『古記録編』174頁。
(岡村吉彦)