はじめに
場所が違えば常識が違うというのはよくあることで、日本の常識が諸外国では通用しないということはままあります。また、同じ地域でも、時代が違えば常識や通念が異なります。江戸時代と現在の我々の生活を比べたとき、異なる通念は色々ありますが、例えば、武士の切腹や無礼討ちもそのひとつではないでしょうか。
今回は、「家老日記」(藩政を統括した家老の元で作成された公務日記)なども用いながら、鳥取藩を代表する歴史家岡島正義(おかじままさよし)が編集した「因府歴年大雑集」(以下「大雑集」と略記)という資料にみえる、切腹や無礼討ちに関する記事をいくつか紹介したいと思います。
岡島正義と「因府歴年大雑集」
岡島正義は天明4年(1784)に佐野儀左衛門の子として生まれ(注1)、後に岡島三右衛門の養子となり、寛政6年(1794)に岡島家の家督を相続します。文政7年(1824)に御目付に就任しますが、二年後に41歳で辞職すると、以後は、安政6年(1859)に76歳で没するまで、鳥取藩の歴史研究に専念します。その成果である著作は膨大な数にのぼりますが、よく知られているものに、鳥取城下の地誌である「鳥府志」(『鳥取県史6 近世資料』収録)、鳥取藩の出来事を編年体でまとめた「因府年表」(『鳥取県史7 近世資料』収録)があり、これらは現在でも鳥取藩研究の基礎資料となっています。
「大雑集」は、各種資料や古老からの聞き取りなどをもとに市井の事件や風俗などの「雑事」を編集したもので、全15巻から成り、1~13巻は鳥取藩に関する記事を編年で、14・15巻は鳥取藩以外の記事を多く収録しています。「大雑集」は、「○○ニ云」という形で資料を引用し、それについて、「予案ニ…」と岡島が考証を加えるという形が多くみえますが、その考証に出てくる年号から、弘化・嘉永頃(1848~1853)に編集されたものと推測されます。
服部庄兵衛15歳の切腹
最初に取り上げるのは、わずか15歳という若さで切腹した服部庄兵衛の記事です(注2)。
元禄3年(1690)3月12日、300石取の藩士服部円右衛門の忰(せがれ)庄兵衛は、京都の商人丸屋半兵衛を討ち捨てました。滞っていた代金の催促に来た半兵衛に雑言を浴びせられたことが原因だったようです。
この件は、丸屋が京都の者だったため、京都町奉行経由で幕府の裁くところとなり、6月28日の飛脚で幕府からの裁許が鳥取に伝わりました(注3)。判決は、丸屋半兵衛は侍に対し慮外を働いたとして家財闕所(けっしょ・没収)、庄兵衛は切腹というものでした。
切腹は組頭の唯主水(ゆいもんど)の宅で行われ、検使は御目付河瀬八右衛門と大嶋五郎兵衛、介錯は黒部五郎左衛門がつとめました(注4)。庄兵衛は、庭へ下りる時の歩みが遅く、まるで臆しているように見えたため、同道人が気にかけると、「この場に及んで躓(つまづ)いて倒れるようなことがあれば、後代までの武名の汚れとなってしまうので、そうならないようにゆっくり歩を進めています」と答えたといい、全く死を憂える様子はなかったといいます。
日頃から言語正しく、礼の乱れることのなかったという庄兵衛は、切腹に臨んでも、とても15歳とは思えない落ち着きを見せ、人々を感嘆させたのです。
早追西村本右衛門の自刃
続いては、二代藩主池田綱清の死去にまつわる事例を紹介します。『鳥取県史4 近世 社会経済』でも、「因府年表」を典拠として紹介されていますが(注5)、「大雑集」にしかみえない記述があるので、少し詳しく見てみたいと思います。
(1)「家老日記」の記述
元禄13年(1700)に隠居した綱清は、正徳元年(1711)7月4日に鳥取で死去します。「家老日記」からこの前後の動きをうかがうと以下のとおりです。
4日に綱清重態の旨を江戸へ知らせるため、西村本右衛門が早追(はやおい)使者を仰せ付けられ、鳥取を発ちました(注6)。早追とは、急使を駕籠に乗せて昼夜兼行で伝送することをいい、通常は、正・副二人を駕籠舁(かごかき)四人が継ぎ送っていくものでした。藩政上の重大事項を伝える、心身ともに疲労が大きい役だったようです(注7)。
さて、本右衛門の発足後、巳の下刻(午前10時~11時頃)に綱清は死去します。すると、これを幕府等に知らせるため、新たに隠岐隼人と村田甚左衛門が早追使者に仰せ付けられ、江戸へ向かいました。
(2)「大雑集」の記述
「大雑集」には、最初に出発した西村本右衛門が自刃したという、「家老日記」にはみえない記述があります(注8)。それによると、本右衛門が命じられたのは七日割(七日で江戸へ着く行程)の早追で、その後の早追(注9)は六日割を命じられたといいます(注10)。本右衛門は後発の早追より半日ほどは早く出発したと思われますが、後発便は六日割のため、移動速度が違ったのでしょう、彼は駿河国長沼村で追い抜かれてしまったようです。すると本右衛門は、そのことを申し訳なく思い、切腹してしまったといいます(注11)。
現在の感覚からすると、やや先行していたとはいえ、同じ日に出た七日割の早追が六日割の早追に途中で追い越されても、それはやむを得ないことのように思いますが、当時の感覚ではそうではなかったのでしょうか。
実は、江戸時代にもそのように考える人はいたようです。「大雑集」では、この事件について「上野氏ノ記」という記録も引用していますが、その中に次のように記されています。
自分は駕籠に乗っており、駕籠舁の足を頼んで急ぐ道中なので、半日や一日到着が遅れてもやむを得ないことだ。また、自分は十日割で(注12)、同日に出発した七日割に追い越されても、当初の予定通りに到着すれば、例え口上が前後しても一分は立つものだ。本右衛門は融通がきかない者で、死ななくていいところで犬死にをしてしまった。
「上野氏ノ記」は、おそらく、「雪窓夜話(せっそうやわ)」(鳥取にまつわる逸話集)や「来鼠翁随筆(もくそおうずいひつ)」(藩主などの逸話集)など多くの著作を残した鳥取藩士上野忠親(1684~1755)の記録だと思われます。そうだとすれば、本右衛門の切腹は、ほぼ同時代を生きた人も疑問を抱くものだったといえそうです。
ただ、本右衛門の立場を思うと、後発便に追い越され、前藩主の死去が知らされた後に重態の旨を報告するという、ある意味間抜けな早追になることに堪えられなかったのかもしれません。
いずれにしても、前述の服部庄兵衛の切腹とは違い、切腹して人に非難されてしまった、なんとも悲しい話です。
百田一二三の刃傷事件
最後に、町人を無礼討ちしたかと思いきや、無関係の人を殺害してしまったので打首となったという鳥取藩士の記事を取り上げます。打首は、「不忠不義を極めたるもの」(注13)が処せられるものです。
(1)「家老日記」の記述
この事件も「家老日記」に記録があり、それをまとめると以下のような経緯となります(注14)。
宝暦2年(1752)6月22日の夜明け前、大寄合津田長門の家来百田一二三という者が小豆屋町横丁(本町三丁目)で町人を手討ちにしたとの報告が藩にありました。御目付が吟味したところ、一二三が手討ちにしたのは、新品治(しんほんじ)の禅門清入の忰千太郎でした。一二三は同日に津田長門に御預けとなり、29日に御会所で吟味がなされ、不埒(ふらち)につき御上へ御召捕となりました。その後の経緯はみえませんが、関連するものとして、一二三の兄弟である御徒(おかち)辻林平が7月に差控(さしひかえ)を言い渡され(注15)。翌宝暦3年(1753)5月にこの一件が落着したとして許されています(注16)。
(2)「大雑集」の記述
「家老日記」には淡々と記されているこの事件は、「大雑集」ではどうなっているのでしょうか。こちらもまとめると以下のようになります(注17)。
宝暦2年(1752)6月21日の夕方、百田一二三という者が、大いに酩酊して、足元もおぼつかなく町中を歩いていると、元魚町で遊んでいた子供たちが集まり、「酒酔いだ、酒酔いだ」と言ってからかってきました。腹を立てて、声を出せば逃げるが、しばらくするとまた同じことを繰り返すので、怒りは収まりませんでした。帰りがけも同じようなことが起こり、子供たちが逃げると、一二三はまだ酒に酔っていたのでしょう、その場に居た夜番の老人を声の主と思い、切り捨ててしまいました。急いで家へ帰り事の次第を父へ告げると、「とどめはさしたのか」と聞かれました。その事を失念していた一二三は、とどめを刺すために慌てて家を出ました。
さて、その夜は耐えがたい程の暑さで、本町の夜番は、とても小屋の中にいることが出来ず、小屋の前にある石橋の上で腹ばいになって涼んでいました。すると現場へ引き返した一二三は、この夜番のことを自分が手討ちにした老夫だと思い、刀を突き刺し、殺してしまったのです。酒に酔っていたとはいえ、何の罪もないものを二人も殺害したため、一二三は津田へ預けられて吟味を受け、翌宝暦3年(1753)3月に、若桜町の牢屋で斬首(打首)に処されました。ところで、最初に殺害された夜番の老夫は、若年の頃に相者(占い師)に吉凶を占ってもらったところ、剣難に気をつけるよう言われたといいます。しかし、老年に及んでも何も起こらないので、「占い師の言うことも当てにならない」と笑っていたところ、果たして剣難にあい命を落としてしまったということです。
「家老日記」と比べてみると、被害者の人数が違うなど、「大雑集」の記事は大きく脚色されたものだと思われます。岡島が何を典拠としたのか不明ですが(注18)、落ちとして老夫のエピソードもあり、話としては面白いものになっています。一二三が実際に打首となったのかは不明ですが、いくら武士とはいえ、無礼討ちの理由を世間一般が納得できないと、面白おかしく脚色され、後の代まで伝わるということでしょうか。
おわりに
今回取り上げた「大雑集」の記事は、藩の記録である「家老日記」と比べてみると、そこにはない話や、少し異なる部分があるので、ある事実に尾鰭が付いた、巷で噂されていたものという印象を受けます。しかし、だからこそ面白く読むことができ、江戸時代の鳥取を身近に感じられるともいえます。
現代は、『鳥取県史 近世資料』に収録されている各種の史料や、鳥取県立博物館が公開している「家老日記」テキストデータベースなどが身近にあり、岡島正義が生きた時代に比べて、遙かに簡単に鳥取藩に関する記録を調べることができます。それらと「大雑集」とを見比べてみると、まだまだ新たな発見があるかもしれません。
「大雑集」には、風聞だけでなく、ここにしか見られない記録も収録されており、近世部会6冊目の資料集として今年度末に刊行予定です。刊行した際には是非ご活用ください。
(注1)以下、岡島の略歴については坂本敬司「鳥取藩士岡島正義の「部落」観」(『解放研究とっとり 研究紀要』第19号、2017年)を参照。
(注2)以下、特に注記しない限り「大雑集」第3巻「(仮)服部庄兵衛切腹のこと」。なお、この事件は、「因府年表」にも収録されており(『鳥取県史 7 近世資料』157・158頁)、谷口眞子『武士道考―喧嘩・敵討・無礼討ち―』(2007年)217頁でも紹介されている。
(注3)「御用人日記」(鳥取藩政資料)元禄3年6月29日条にも記事あり。
(注4) 同上。
(注5)『鳥取県史 近世4 社会経済』(鳥取県、1981年)587頁。
(注6) 以下「家老日記」正徳元年7月4日条。
(注7) 『鳥取県史 近世4 社会経済』586~587頁。
(注8)「大雑集」第4巻「(仮)早追使者西村元右衛門早追自刃すること」。なお、「大雑集」「因府年表」での表記は「元右衛門」だが、ここでは「家老日記」の表記「本右衛門」に統一する。
(注9) 本文中では人名は記さず、傍注に「一記ニハ、田村甚左衛門トアリ」と記す。
(注10) 「家老日記」正徳元年7月4日条には日割の記述はなし。
(注11)駕籠舁へ手疵を負わせ、その後百姓の家で自殺したという説も載せるが、岡島はこれは妄説だとしている。
(注12) 「上野氏ノ記」は、西村が命じられたのは十日割の早追、その後命じられたのは七日割と記す。
(注13) 『鳥取藩史 第4巻』388頁。
(注14)以下、「家老日記」宝暦2年6月22日条、6月29日条、7月朔日条。
(注15)差控は謹慎刑。昼夜目立たないよう外出することは許された。
(注16) 「差控」ではなく「遠慮御免」と記される。遠慮も差控と同じ謹慎刑。夜間の外出のみ許された。
(注17)以下、「大雑集」第7巻「(仮)百々田一二三一夜に二人を殺害すること」。
(注18) 幼年の頃事件を目撃したという老人の話をもとにこの時の役人や町の対応を考証しているが、文脈からは、本文に挙げた経緯もこの老人の話だったとは判断できない。
(八幡一寛)
1日
資料調査(鳥取市埋蔵文化財センター、東方)。
資料調査(公文書館会議室、田村委員、西村)。
4日
資料借用(智頭町、東方)。
5日
資料調査(公文書館会議室、田村委員・西村)。
6日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
民具資料の確認・民具編に関する協議(北栄町みらい伝承館・米子市、樫村)。
7日
近世史料編協議(やまびこ館、八幡)。
資料調査(公文書館会議室、田村・加藤委員、西村)。
資料調査及び協議(鳥取県立博物館、山本・関本調査委員、樫村)。
8日
資料返却・解説(智頭町、東方)。
歴史資料所在調査(上道神社、岡村)。
資料調査(公文書館会議室、田村・加藤委員、西村)。
9日
占領期の鳥取を語る会(鳥取市歴史博物館、西村)。
11日
資料調査(大山町、米子市埋蔵文化財センター、東方)。
歴史資料所在調査(瑞仙寺・米子市個人宅、岡村)。
12日
資料調査(楽楽福神社、東方)。
歴史資料所在調査(倉吉市個人宅・曹源寺、岡村)。
13日
14日
調査資料に係る打ち合わせ(鳥取県埋蔵文化財センター、東方)。
歴史資料所在調査(三仏寺・上道神社、岡村)。
15日
資料調査(公文書館会議室、田村委員、西村)。
18日
資料借用(八頭町、東方)。
19日
歴史資料所在調査(大安寺・名和神社、岡村)。
智頭林業関係資料調査(智頭町山形地区振興協議会、樫村)。
20日
ウグイ突き関係資料調査(南部町浅井、樫村)。
21日
神楽関係資料調査(江府町、永井調査委員)。
22日
資料調査・撮影(公文書館会議室、坂本委員、岡村)。
資料調査(公文書館会議室、澤田委員、西村)。
23日
25日
資料調査(鳥取大学、東方)。
26日
資料調査・撮影(公文書館会議室、坂本委員、岡村)。
29日
資料調査(倉吉博物館、東方)。
資料調査(境港市個人宅、西村)。
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