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目次

亀井茲矩と西因幡地域社会

はじめに

 前回・前々回と2回に分けて、亀井茲矩(これのり)の発給文書をもとに、中世の西因幡地域の自然環境や地域産業について見てきました。茲矩の書状に記された内容からは、この地域にトキやオシドリ・クマタカ等の鳥が生息しており、その餌場や営巣地となる水辺や山林が広がっていたこと、また、さまざまな産業の原材料となる天然資源が豊富に存在し、人々が製紙や製鉄をはじめ多様な生業を営んでいたこと、それがこの地域の産業構造や経済構造を形成していたこと等々、特色ある地域社会像が浮かび上がってきました。

 では、この地域を領有していた亀井茲矩は、このような地域社会とどのように関わっていったのでしょうか。今回は亀井茲矩と西因幡地域社会の関わりについてみていきたいと思います。

1 大名としての茲矩


(1)豊臣家・大名家との関わり

  • たう(トキ)の子を堀内殿(注1)と約束した(1792号)(注2)
  • 鹿野にて飼い申すかりかね(雁金=マガン)も進上物である(同)。
  • 秀頼様への進物は珍しき鳥がよい。オシドリを2番・3番ほど捕獲して進上するように(1794号)。
  • さけ(鮭?)・かも(鴨)を進上したいので送るように(1798号)。

 この中で茲矩は、鹿野の家臣に対し、オシドリ・トキ・マガンなどの鳥を大坂に進上するよう命じています。これらの鳥は「進物」「進上物」とあるように、豊臣家や大名家への贈答用であったと考えられます。

 特に、オシドリは当時「珍しき鳥」であったと考えられ、茲矩は豊臣秀頼への献上品として、つがいを2~3組捕獲して送るよう命じています。当時、慶長伏見大地震で倒壊した伏見城の木幡山への再建が進められており、慶長2年5月には秀吉とともに秀頼も伏見城に入ります。このとき、大名たちは次々とあいさつに出向いたと言われており(注3)、茲矩も鳥好きの秀頼に対してオシドリを献上品として持参しようと考えたのかもしれません。

 また、「トキの子を堀内殿と約束した」とあるように、豊臣家だけでなく、他の大名に対しても西因幡の鳥を贈ろうとしたことがわかります。県史だより156号で取り上げたように、鹿野で飼育を命じたクマタカも贈答用であったと考えられます。

 このように、茲矩は西因幡地域に生息する鳥たちを贈答品とすることにより、さまざまな人脈の形成や人的交流を図っていたと考えられます。

(2)経済人としての性格

  • 新たに建造した大船を買うように。中型の船を欲しがっているとのことであるが、どれくらい積めるのか。一艘ごとの算用日記を再度送るように。どれくらい買おうとしているのか様子を知りたい(1789号)。
  • 今年は北国も米があまり取れないと聞いている。其元(気多郡)の米について、去年の納入分の算用の書立を送ること(同)。
  • 爰元(大坂)の米が高値なので、廻舟を急ぐこと(1794号)。
  • 船積物の書立を受け取った。(中略)廻舟3艘の積書付に、石引綱をなぜ積んでいないのか(1795号)
  • 石見へ米を下すことは無用である。今後の分については、石見で売らないように。大坂の米が高値になると予想している(同)。

 ここからは、茲矩が大型の廻船を調達しようとしていること、西因幡のさまざまな物資を大坂に運ぶよう命じていることがわかります。その積荷については「船積物の書立」「積書付」と呼ばれるリストを受け取り、「石引綱をなぜ積んでいないのか」と言っているように、細かくチェックをしています。また「算用日記」「算用の書立」とあるように、国元の金銭の出納については、帳簿に記載して厳重に管理している様子も窺えます。

 また、この記述からは、石見国や大坂において、茲矩が米の売買を行っていたこともわかります。16~17世紀の石見国は石見銀山を中心に形成された広域的な流通経済構造の要地であり、海外を含めて多くの商人たちが来航して経済活動を行っていました。また、豊臣政権下の畿内では大坂・京都(伏見を含む)を2つの核とする市場が形成され、そこに諸大名の領国市場が結びつく求心的流通構造が形成されていたことが指摘されています(注4)

 この書状の中で、茲矩は大坂の米の値段が上昇することを予想して、石見国で米を売らず、大坂に運ぶよう命じています。米価が上昇する理由の1つとして、「北国(北陸方面)も米があまり取れない」と言っています。ここからは、茲矩が全国に視野を向けて、各地の米の生産状況についての情報を入手し、上方市場の米が高値になるという経済動向を予測して、国元に指示を送っていることがわかります。

 このように、茲矩はまさに商人的性格を備えた領主であり、当時の西日本における2つの大きな流通経済構造の中で積極的に経済活動を展開していたと考えられます。江戸時代以降、茲矩は朱印船貿易を行っていきますが、彼の経済人としての資質は豊臣期にはすでに形成されていたと思われます。

2 領主的性格

 では、茲矩は気多郡の領主として、どのように地域支配を行ったのでしょうか。次に彼の領主的性格に迫ってみたいと思います。

(1)領民に対する支配

  • 在々(村々)の耕作について、荒田が無いようにせよ(1789号)。
  • 地下人の中で未進の者については、御普請衆を申しつけるように。未進分が少しの者は1ヶ月あるいは2~3ヶ月でも普請に上げるように。6~7月頃までに、毎月に分けて上げるように、一度に全員ではなく、何度かに分けて上げるのがよい(同)。
  • 荒田のこと。青谷・養郷・勝見の沢の分は、意外に少ないとのこと。もっと拓くように(1794号)。
  • 荒田を拓いたのに黙っている百姓もあると思われるので、去年拓いた田のそばの田までも隠していたならば、隣の田に年貢を出させるように。隠し田のうち荒田を拓いたものについては、3年分の年貢を申しつける。すぐに正直に申し出た者については、1年分の年貢だけで許す。隠していて、秋竿(検地)の後に判明した者については、政所も田主も厳罰にする(同)。
  • 竹木山林他を盗み切り取る者があれば、からめて、鹿野へ送るように。もし知り合いだからと言って個人的に許した者は処罰する(1799号)。

 ここにあげた記述からは、茲矩が耕地の拡大を積極的に行っている様子が窺えます。特に荒田の開墾を重視しており、青谷・養郷・勝見など荒田の開墾が少ない地域については、具体的な地名をあげて耕地化を進めるよう命じています。荒田とは何らかの理由で耕作が放棄されて荒廃した田を指していますが、戦国末期の因幡国内での戦乱が影響を及ぼしているのかも知れません。また「勝見の沢」とあることから、あるいは水辺の干拓による耕地化を含んでいる可能性もあります。

 一方で、年貢の未進や開拓した田を隠している領民に対しては厳しい態度で臨みました。この書状によれば、年貢を未進した者に対しては、「御普請衆」として大坂での普請を命じています。また、荒田を開墾したのに申請せず隠している者については、3年分の年貢を申し付けるなどの罰則を定めています。さらに、竹木山林などの地域資源を勝手に盗んだ者についても厳しく処罰すると述べています。

 このように、茲矩は荒地の開墾を進めるとともに、規律を重視し、年貢未進、隠し田、盗人等の不正を働く領民に対しては、罰則を科すなど厳しい態度で臨みました。ここからは茲矩が領域支配を円滑に運営するために、規律や秩序を重んじていたことがわかります。

(2)家臣統制

  • 鉄ながし(鉄穴流し)のこと。いかほど流したか。(中略)流し山のことについては知らせがない(1794号)。
  • 前回の書状によくよく用事を申し下した。1つ1つ確認するように。一度見ただけでは忘れるものなので、点をかけてご覧あるべきこと(同)。
  • 先々の廻舟三艘の積書付に、石引綱をなぜ積んでいないのか。これこそこの前も何度も申し下した。油断しすぎではないか(1795号)。
  • こちらには無いので、舟にて上がるかと待っていたが、積書付に記載がなかった。失念も事によるぞ。自分は石普請を命じられている。今度の廻舟に石綱を忘れるようなことはあるまいな(同)。
  • 孫兵衛は、石普請に綱が必要だということを知らないのか(同)。

 最後に茲矩の家臣統制についてみておきたいと思います。当時大坂で石普請(注5)に従事していた茲矩は、国元の家臣に対して、細かい指示を数多く送っていますが、その書状の中に家臣に対する上記のような記述がみられます。

 これらの内容からは、茲矩が報告を重視していることや、国元に命じた用務については遺漏がないよう1点ずつの確認を求めたり、また石引綱の運上のように重要な事柄については忘れることのないよう何度も繰り返し命じるなど、かなり厳格に命令遵守を求めていることが窺えます。

 茲矩自身、かなり筆まめであったと思われ、長文の書状を短期間に何度も家臣宛てに送っています。その中には家臣たちに対する細かい指示が数多く記載されており、中には厳しく叱責したり、ミスのないよう念を押している文言も見受けられます。

 ここからは、家臣に対しては厳しく接するリーダーとしての姿が浮かび上がってきます。これまでの書状内容からもわかるように、鳥の捕獲から産業振興・領民統制・物資の運上まで、家臣に対する指示は細かく多岐にわたっており、家臣たちも現地でかなり苦労していたのではないかと想像されますが、言い換えれば、それだけ家臣に対する要求レベルが高かったことを窺わせています。それが茲矩という人物の家中統制であり部下の育成方針であったのかも知れません。

おわりにー亀井茲矩の人物像―

 今回は、中世の西因幡地域の自然環境や産業構造をふまえて、領主である亀井茲矩の領域支配や地域社会との関わりについて考えてみました。

 ここでは、茲矩の大名的性格と領主的性格の2つの側面を取り上げましたが、彼の自筆書状からは、茲矩が中世の西因幡地域の自然環境や、そこで育まれた地域資源を十分に活用して、豊臣家や大名家とのつながりを構築しながら時代を生き抜こうとしていたこと、朱印船貿易を本格的に始める前から、広い視野を持った経済人として、石見国や京都・大坂を中心とする流通経済構造の中で積極的に経済活動を展開していた大名であったこと、一方で領民の不正や家臣の統制には厳しく、規律ある領域支配や家中統制という点で強固なリーダーシップを発揮していたこと等を読み取ることができました。

 甚だ不十分な検討ですが、これまでの検討結果をふまえるならば、亀井茲矩という人物は、環境・資源・人材を含めた「地域力」を最大限に活かすとともに、「地域の持つ可能性」を最大限に引き出そうとしたリーダーであったと考えられます。また、経済人としても、グローバルな広い視野を持ち、時代の風を読む能力に長けた人物であったと評価できるのではないでしょうか。

 1600年の関ヶ原の戦いの際に、因幡・伯耆の武将の多くが西軍を支持して没落したのに対して、亀井茲矩だけは東軍に味方しています。これも彼自身の人生で培われてきた「時代の先を読む力」の延長線上にあるのではないかと思われます。

 今回は3回に分けて、『新鳥取県史資料編』に収録された史料をもとに、中世末期の西因幡地域の特色ある地域社会像や、領主である亀井茲矩の人物像や領主的性格について検討してきました。今年度末で新鳥取県史編さん事業はひとまず終了しますが、この事業で収集された膨大な史料を詳細に分析・研究し、地域の新たな歴史像や先人たちの人物像を明らかにして、そこから得られる教訓や先人の生き方を今後の地域づくりやふるさと教育に活かしていくことが、次の課題になると思われます。

追:本稿は今年7月に実施した出前講座の内容の一部をまとめたものです。

写真1
国史跡・津和野藩主亀井家墓所附亀井茲矩墓
(鳥取市気高町・鹿野町)(写真提供:県文化財課)

(注1)堀内殿については不明であるが、紀伊国新宮を拠点とする熊野水軍の将である堀内安房守氏善の可能性もある。ちなみに、亀井茲矩と堀内氏善は文禄の役の際に朝鮮に出兵しており、文禄2年(1593)の豊臣秀吉朱印状写では、同じ城の仕置(支配・統治)を命じられている(『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』1767号)

(注2)引用史料の番号は、いずれも『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』の文書番号を指す。

(注3)跡部信『豊臣秀吉と大坂城』(吉川弘文館、2014年)84頁。

(注4)本多博之『天下統一とシルバーラッシュ』(吉川弘文館、2015年)114~115頁。

(注5)石普請とは、石垣に用いる石材を加工したり、運搬したりすること。

(岡村吉彦)

活動日誌:令和元年8月

9日
現代部会(公文書館会議室)。
17日
夏季企画展講演会講師(大阪府立弥生文化博物館、東方)。
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
20日
民俗部会に関する協議(米子市、樫村)。
23日
第1回新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
28日
資料調査(~30日、日銀アーカイブズ・国会図書館、西村)。
30日
米軍資料の調査活用に関する研究会(~31日、甲府市、西村)。
31日
空襲戦災を記録する会全国連絡会議(甲府市、西村)。

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編集後記

 今回は、気多郡内の開発とコメ流通の実態、これに果たした亀井茲矩のリーダーシップを、残された文書から解き明かしています。

 中世に開発された西因幡地区の豊かな自然環境は現代にも引き継がれ、その恵みは今年6月にオープンした山陰道の道の駅「西いなば気楽里」で求めることができます。10月の鹿野は演劇祭や農産物祭も開催されます。皆さんも一度訪れて見られてはどうでしょうか。

 さて、県史編さん室ではこのたび、鳥取県史ブックレット21『白鳳・天平文化の華-因幡・伯耆の古代寺院-』(中原斉著)を発刊しました。上淀廃寺をはじめとする近年の古代寺院の発掘調査・研究成果から復元された、飛鳥・奈良時代の寺院の建物配置、建物内の華麗な装飾や僧尼の生活の場などを紹介しています。頒布開始は10月7日からです。どうぞご期待ください。

(西村)

  

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