君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く
額田王の歌ですが、君を待っていると、すっと秋の風ですだれが動いて、あの人がやってきたかなぁと、そういう歌です。1200年前の歌ですけど、今、皆さんが好きな人を待っていると、こういう気持ちになることもあるかなぁと思います。形は心と言いますけれども、歌う心は、ひょっとしたら1200年前と共通してるんじゃないかと思います。
こうやって集まってわいわいやったり、歌会をしたり、自分の作った歌をその場でみんなで批評してもらったりするというのは、小説などと違って、短歌のすごく便利なところだと思います。ぜひこういうつながりを大切にして、これからもどんどん短歌を楽しんでほしいと思います。
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事
大伴家持の万葉集の最終歌として有名ですが、「新しき年の初めの初春の」と、ずっと同じことを言っていて、意味はほとんどなくて、「今日降る雪の」も、今聞いても意味が分かりすぎるくらいの歌なのに、最後で突然「いや重け吉事」となって、現代の我々が聞くと、呪文みたいに聞こえるんですよね。ますます雪が降り積もるように、良いことが夜ごとに降り積もるようにという、掛詞らしいですが。この歌がすごくかっこいいと、僕も思うし、小島ゆかりさんなんかも言ってたけど。個人的には「いや重け吉事」が、呪文みたいで、微妙に意味が分からないんだよね。そこが、なんかかっこいいという、感受性の誤作動みたいなものがある。
この歌で連想したのは岡井隆さんの、「口中に満ちし乳房もおぼろなる記憶となりて 過ぐれ諫早」。口の中に満ちた乳房ももうはっきりしない、遠い昔のおぼろな記憶となった、というところまでは意味が分かるのに、最後、突然「過ぐれ諫早」と、呪文みたいになる。諫早って地名だから、諫早を過ぎろ、って言ってるのか、何か高速で移動する乗り物に乗っていて、諫早を過ぎてゆくのか、諫早が思い出の地なのか、いまいちはっきりしない。でも、この歌も栗木京子さんもすごくかっこいいと言っていて、かっこいいの根拠は、「過ぐれ諫早」が分かりそうで分からない、というところにあるような気がしていています。
それってやっぱり完璧な感受性じゃないんだよね。ちょっと逆転した感覚で、そういうのが自分の中にある人が短歌に引き付けられるのかなと思います。今日のみんなの歌を読んでいても、微妙に分かりきらないところもあって、え、その人死んでるんだとか、クラゲはワードでないようなイメージで読んでいたけど、ワードなんだとか、でっぷりとしたオタマジャクシがリアルにいたってことだとか、誤作動に引き付けられるということがあるのかなと思いました。
私が紹介するのは、夫が島流しにあってしまった女性の歌人の歌で、別れの哀しみが詠われています。作者は奈良時代の、狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)という生没年も不詳の歌人です。
君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
「天の火もがも」って、穂村さんが言われたように、これも呪文ですよね。君がこれから辿っていくであろう長い道を繰って、畳んで、それを焼き滅ぼすような天の火があれば君が去らずにすむのに、という歌です。情熱的で、去っていく人に対する直情型の歌だと思います。こんなにストレートに詠われた歌を、皆さんはどう思うでしょう。
歌を詠うとき、また、言葉を紡ぐときって、自分の秘密を知られてしまうようですごく恥ずかしく感じることがあると思います。まずは皆さんにその恥ずかしさを大事にしてほしいと思います。
そんなふうに恥ずかしく思いながら、逆に、恥ずかしがらないでもいてほしいです。矛盾することを言っているのですが、これは自分の経験からなのです。私も高校生のときにいろいろ思っていることを書いたりしていたのだけど、読み返すと恥ずかしくて捨ててしまっていたのですよね。今から思えば、あの時の自分はもう返ってこないのに、捨てなきゃよかったとすごく思っています。だから皆さんには、その時その時を言葉にする恥ずかしさを大切にしながら、自分の思いや気持ちを表現し発表していってほしいと思います。