防災・危機管理情報


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長島愛生園を訪ねて

 平成18年7月20日、ハンセン病政策についての調査のため、岡山県にある国立療養所長島愛生園に加賀田一(かがた はじめ)さんと石田雅男(いしだ まさお)さんを訪ねました。鳥取県は昭和11(1936)年に他県に先んじて「らい予防協会」を設立するなど、県内からハンセン病患者を一掃する「無らい県運動」に官民挙げて積極的に取り組んだ県として知られています。当時の運動の実情とこれを支えた民衆の意識、ハンセン病観についてお聞きし、園内に残る関係資料の所在を確認することができました。

帰らない133柱の遺骨

 愛生園は昭和5(1930)年に設立された国立の療養所。加賀田さんは昭和11(1936)年、石田さんは昭和21(1946)年に入園。以来、入園者の処遇向上と「らい予防法」の廃止のため、園内の自治会活動の中心的役割を果たしてきました。加賀田さんが今一番気になっていることは、本県出身で愛生園で亡くなった133人の遺骨が平成13(2001)年以来まだ1柱も鳥取に帰ってないことです。

「病気がよくなっているにも関わらず長い期間(家族とのあいだで)ブランクをつくってしまった。家族が忘れてしまっているところに、今さらそんなことを言われても困ると。郷里を出てから何十年も経っとると。」

 昭和22(1947)年のプロミン投与以降ハンセン病は治る病気となりましたが、法律による隔離政策は平成8(1996)年の「らい予防法」廃止まで続きました。

愛生園でのインタビューの写真
愛生園でのインタビューの様子(左が加賀田さん、右が石田さん)

隔離政策の評価

 隔離を国家政策として強力に推進したのが光田健輔(みつだ けんすけ)医師です。光田氏は「らい予防法」の制定を通じて強制隔離、断種を推進し、戦前戦後を通じて愛生園の園長を務めました。その光田氏に対する二人の評価は私にとって意外なものでした。

「光田先生は隔離の推進者のようになっているけれども、それは時代がさせていたように私は思う。時代が光田先生を作ったように思う。」(石田さん)

「治らない時と治るようになったときとは違う。それを同じに論ずることがあかん。その時代は人道問題として国が救済し(民衆が)それを支えた。」(加賀田さん)

 現代の価値観で過去のことがらを断罪するのではなく、当時の政策を支えた民衆の意識や時代の制約をふまえた歴史認識の大切さをこれらの言葉は教えています。

さらなる調査の必要性

 園に残る資料によると、鳥取県が行った「無らい県運動」で盛んに啓発されたのは、ハンセン病が遺伝病ではなく伝染病であり、患者を療養所に収容し治療させること、隔離の有効性でした。講演会や映画会などを通じて集まった六万円の寄付で愛生園に本県出身者用の寮が建設されるに至ります。しかし、着任間もない立田知事のもと、どうして鳥取県は「無らい県運動」の先駆となりえたのか。関係資料をさらに収集し、鳥取と長島の関係を明らかにしていく必要性を痛感しました。

「間違ったことを間違ったといえるような人になってほしい。」

 別れ際の加賀田さんの言葉がいつまでも胸に響きます。

(注)鳥取県のハンセン病についての資料集、鳥取県ハンセン病資料作成委員会編『風紋のあかり』(鳥取県福祉保健部健康対策課,2002)を健康対策課ホームページ「公表資料」コーナーよりダウンロードできます(PDF形式)。国立療養所長島愛生園のホームページはこちら同園自治会のホームページはこちら

(参考文献)加賀田一『島が動いた』(文芸社,2000)、藤野豊編『近現代日本ハンセン病問題資料集成 第6巻』(不二出版,2002)など。

(西村芳将)

室長コラム(その3):「大政奉還」が鳥取に伝えられた時

 今回は、私が関わっている県立博物館の古文書解読ボランティア・グループが現在解読を進めている同館所蔵「家老日記(控帳)」の中からの話題。

 慶応3(1867)年10月13日、将軍徳川慶喜は在京する諸藩の重臣を二条城に集め、大政奉還の決意を表明し、翌14日、慶喜は御所で上表を提出、翌15日、朝廷は大政奉還勅許の御沙汰書を渡した。幕末維新史上の大事件、いわゆる「大政奉還」である。この事件が鳥取にどのように伝えられたかが、「家老日記(控帳)」から窺える。

 この当時、鳥取藩主池田慶徳(慶喜の異母兄)は鳥取におり、京都には、この直前まで家老鵜殿主水介(うどの もんどのすけ)が詰めていたが、京都情勢の変化を報告するため鳥取に帰国しており、藩を代表できる重臣は二人の京都御留守居役だった。

 13日の二条城には、鳥取藩からはこの二人が出席し、翌日御所に提出する大政奉還の上表文を示され、写しを受け取った。二人は、この大事を鳥取に伝えるため、翌14日鳥取へ飛脚を送るとともに、京都詰の御使役足立直蔵(あだち なおぞう、170石)に幕府から渡された上表文の写しを持たせて帰国させた。飛脚と足立は、ともに17日に鳥取に着いた。つまり、「大政奉還」の報は、13日段階の情報が、4日遅れで鳥取に届いたわけで、情報を直接人間が運んでいた時代には、このような情報のタイム・ラグがあったわけである。

 さて、「家老日記」の17日の記載には、足立が京都から到着し、月番家老のもとに参上して写しを差し出し、それを家老が藩主に差し上げたと記した後、次のような記述がある。「ただし、本文にはそのように書いたが、今回は少々混乱があって、足立は直接登城して、手紙を御側役を通じて差し出した。」つまり、帰国した足立は、本来真っ先に報告すべき上司である月番家老を飛び越えて、直接藩主に書類を差し出した。これは藩のシステム上の重大なルール違反であったが、月番家老は一応自分の所に報告があったことにして、問題化せずに処理した。それを、家老の部下である日記の書き役は、念のために書き残したのである。

 通常ならば、家老の一人は城に詰めているはずたが、この日はたまたま家老たちが登城しない日だった。そのため、帰国した足立は、事の重大性を考えて、本来の手順を越えて、急いで藩主に伝えたのだろうが、見方を変えれば、足立は、重要な事案であれば月番家老を飛ばしてもかまわないと判断したと言える。幕末の鳥取藩では、藩主慶徳と家老たちの考えは、必ずしも一致していなかった。その溝を感じさせるような記載ではある。

 一見些細な記載だが、このような事実を積み上げることによって、よりリアルな歴史が見えてくるのではなかろうか。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2006(平成18)年7月

4日
市町村現況調査(旧郡家町、岡村・大川)。
5日
市町村現況調査(北栄町・琴浦町、坂本・西村)。
6日
市町村現況調査(岩美町、西村・大川)。
7日
琴浦町日韓友好資料館企画運営委員会(坂本)。
市町村現況調査(旧気高町・旧鹿野町、岡村・西村)。
10日
第1回県史編さん委員会開催。
12日
市町村現況調査(倉吉市・旧関金町、西村・大川)。
20日
国立療養所長島愛生園を訪問、調査(西村・大川)。
25日
若桜町人権問題学習講座講師(坂本)。
山口県岩国徴古館で史料調査(~28日、岡村、日置委員とともに)。

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