日本は古来よりコメ文化の国だといわれますが、近代以前においては、米のほかに麦・雑穀・イモ類など、地域によって多様な食物が主食にされていたことがよく知られています。しかし、その消費量や構成となると、記録資料に乏しく、われわれの数世代前の実態でさえ案外わかっていません。それでも、明治初期については、ときの政府による調査資料がいくつか残されており、興味深い情報を提供しています。
その一例が、『第二次農務統計表』に収録された「人民常食種類比例」です。内務省が各府県に照会した調査結果をまとめたもので、明治13(1880)年の主食物の種類別構成が旧国別に図示されています(注1)。さらに、同じ調査について、いくつかの府県では郡別のデータも公表されました。島根県がそのひとつで、当時県が発行していた『島根県勧業月報』には、併合下にあった現在の鳥取県分も含めた「島根県管内各郡常食物調査表」が収録されています。
下表には、鳥取分の抜粋が掲げてあります。なお、この頃の鳥取は14の郡で構成されていました。明治14(1881)年の鳥取県再置後は、明治22(1889)年に邑美郡から鳥取市が分立し、明治29(1896)年には邑美・法美・岩井の三郡が合併によって岩美郡、同じく八上・八東・智頭の三郡は八頭郡、高草・気多の二郡は気高郡、河村・久米・八橋の三郡は東伯郡、汗入・会見の二郡は西伯郡となっています。
表からは、郡によって主食構成に大きな差があったことがわかります。
米食率(=主食消費に占める米の割合)が高かったのは、旧城下鳥取を含む邑美郡(85%)や近郊の法美郡(70%)と、日野郡(71.3%)です。逆に低かったのは、八東郡(40%)や智頭郡(50%)といった東南部の山間地域と、会見郡(55.5%)など西部の海岸地域ですが、米を補う食物として前者では麦と雑穀、後者では麦とイモ類が重要だったようです。原資料には万延元(1860)年頃と明治3(1870)年頃に遡った数値も掲げられていますが、それによれば、この間、邑美のようにもともと高水準だった郡を除いてほとんどの郡で米食率が上昇、全体として郡間の差は縮小したと見られます。
地域差の背景として、旧国別データを分析した研究(注2)は、1人あたり米生産量の多い地域ほど米食率が高いという傾向を統計的に確認しています。麦やそのほかの主食物についても同様で、主食消費の地域性は、様々な背景があったにせよ、基本的には各地域内で生産される食物に規定されていたといえます。鳥取県の郡別データからは、このような明確な関係が確認できませんが、これは、郡という小さな区域を単位とすると、食物を自給せず主に購入した米を食べていた非農家世帯の影響が強く出るからです。実際、郡の全人口ではなく農家人口を分母として1人あたり米生産量を算出すると(表の最右列)、その量が多い郡ほど米食率が高いという傾向が確かに見られます(注3)。
以後の時代については同様の資料がありませんが、1人あたり生産量の統計を見ると、米が戦前期を通じて緩やかな増加を続けたのに対し、麦や甘藷は明治末~大正期に減少へ転じているので、米食率は上昇したものと考えられます。また、明治後期に作成された村単位の調査書「村是資料」には、当時の食料消費に関する興味深い統計も収録されていますが、スペースの都合上、それはまたの機会に。
(注1)梅村又次ほか『長期経済統計 第13巻 地域経済統計』(東洋経済新報社,1983)を参照。
(注2)鬼頭宏「明治前期の主食構成とその地域パターン」(『上智経済論集』第31巻第2号,上智大学経済学会,1986)。
(注3)相関係数は0.693(1%水準で有意)。
(大川篤志)
新しい年を迎えた今年最初のコラムでは、私たちの使命である「県史編さん」の目的を改めて確認する意味で、旧『鳥取県史』の巻頭に掲載された、二人の知事の文章を紹介したいと思う。
『鳥取県史』全18巻は、昭和38年度から56年度まで19年の歳月をかけて編さんされた。編さん事業が始まったのは石破二朗知事の時代、終わったのは平林鴻三知事の時代である。県史の各巻には、石破知事の時代には「刊行にあたって」、平林知事の時代には「一粒の麦について」と題する知事の文章が掲載されている。ともに、「県史」の巻頭を飾るにふさわしい名文だと思う。
刊行にあたって 石破二朗
歴史の流れは長い。
人類の歴史はオーケストラだという見方もある。楽器は、めいめい勝手な音をだしているようにみえても、大きな目で見ると、一つの調和を保ちながら交響楽を奏でているという意味である。一方、歴史は大河のようなものだともいわれる。濁流はいろいろの夾雑物を浮かべ、沈め、おしあいへしあいながら、一つの方向に流れている。流れているものの意思がどうあろうと、川幅からはみでることはありえない。
いまは歴史の分野も実証的手法が重んじられ、史料がないかぎり、いささかの推理も許されない厳格さが尊重されている。そういった厳粛さが主張されている一面、命なき木彫表情なき石像に血を通わせるのが歴史の本領だともいわれる。
歴史の本流はどこに求めるべきであろうか。終戦によって、大きな価値転換のもたらされた日本史の一環として、県史も新しい史眼によって洗い直されなくてはならないと思う。(後略)
一粒の麦について 平林鴻三
ことしの麦秋は雨が多かった。雨の多い年には穂発芽の現象がみられる。秋の播種期にはそれだけ発芽が減るわけである。それは当然のこととして諒解できるか、その次の年も次の年も芽を出さない麦があるそうである。
麦は、干天とか洪水などの自然現象で、いったん発芽しても全滅することを経験している。だから、麦は、どんな年でも発芽しない粒を残しているそうである。これを分析したり、発芽試験したりしているのが農学であり、植物学であり、遺伝学である。
歴史学者はその麦を掌にのせて何年も眺めている。それで原因を突きとめることもあれば、無為のようにみえても何年も眺めていることもある。
前知事の石破さんが県史の仕事をはじめてから十二年、いろんなことが究明され、発見されてきている。こんどこの大仕事を私が引きつぐことになった。
各位のご協力をお願いする次第である。
旧県史の完結から25年以上が経過し、時代も大きく変化しているが、ここに記された旧県史の精神は、新県史編さん事業でも大切にしていきたいと思う。
(県史編さん室長 坂本敬司)
3日
新鳥取県史シンポジウム開催(鳥取県立県民文化会館)。
4日
史料調査(米子市立山陰歴史館、岡村)。
5日
史料調査(三朝町役場・湯梨浜町立図書館、岡村)。
7日
史料調査(兵庫県新温泉町 楞厳寺、岡村)。
11日
史料調査(鳥取市用瀬町、西村)。
13日
満蒙開拓団について聴き取り(北栄町、西村)。
15日
第3回県史編さん専門部会(現代)開催。
18日
第2回県史編さん専門部会(中世)開催。
19日
満蒙開拓義勇軍について史料調査(日野町、西村)。
21日
史料調査(南部町 経久寺、岡村)。
28日
仕事納め。
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