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因幡・伯耆の戦国武将たち(その1):私部毛利氏

 毛利氏といえば、安芸国(広島県)出身の戦国大名毛利元就の一族(以後、安芸毛利氏と呼ぶことにします)が有名ですが、中世の因幡にも「毛利氏」がいました。

 因幡の毛利氏は旧八東郡私部(きさいち)郷(現八頭郡八頭町)の私部城(注1)を居城とする国人です(以後、私部毛利氏と呼ぶことにします)。出自は明らかではありませんが、1354(文和3)年の足利尊氏袖判下文(注2)に「因幡国私部郷 毛利次郎同庶子跡」とみえることから、少なくとも14世紀中頃までには因幡国私部郷に基盤を形成していたと考えられます。

 室町時代の私部毛利氏は、幕府の奉公衆(ほうこうしゅう)でした。奉公衆というのは、将軍直属の御家人のことで、所領への守護不入などさまざまな特権を与えられており、しばしば守護と対立していました。

私部城(八頭郡八頭町市場)の写真
私部城(八頭郡八頭町市場)

 1479(文明11)年、私部毛利氏は因幡国内で大きな反乱を起こします。当時の因幡守護山名豊時はその鎮圧に努めますが、「因幡国合戦、森(毛利)方、たびたび打ち勝ち、守護山名散々事也」(注3)とあるように、私部毛利氏の勝利でした。

 このころの私部毛利氏の勢力を支えていたものは、周辺の山間領主とのつながりでした。中世の因幡山間部には、私部毛利氏以外にもさまざまな中小領主がいました。丹比氏、伊田氏(以上八頭郡八頭町)、矢部氏(同若桜町)、用瀬氏(鳥取市用瀬町)などがあげられます。彼らは山間領主連合ともいうべき強固な軍事的まとまりを形成していました。私部毛利氏はそのような領主連合の中心的存在であったと考えられます。

 1563(永禄6)年、安芸毛利氏が因幡へ進出します。これに対し、私部毛利氏をはじめとする山間領主たちは激しく抵抗しました。『真継文書』によれば、「毛利信濃守・矢部父子・丹比・井田・用瀬以下、雲州に同意いたし逆乱を企て候」(注4)とあり、彼らが雲州(尼子勝久)と結びついて安芸毛利氏に立ち向かったことがわかります。

 その後、1576(天正4)年に安芸毛利氏が尼子勝久を撃退し因幡を統一すると、私部毛利氏をはじめ山間領主たちも安芸毛利氏に従います。『吉川家文書』中には、このころの安芸毛利氏と私部毛利氏の関係を示す興味深い史料が1通あります。天正年間に出されたと思われる吉川元長書状(注5)です。そこには、私部毛利氏が「吉田同名」(安芸毛利と同じ名字)であるため、懇意にすることや、今後私部毛利氏の呼び方を「毛利殿」ではなく「私部殿」と呼ぶよう命じたことなどが記されています。

 このように、私部城を拠点に因幡山間部に勢力を持っていた私部毛利氏ですが、1580(天正8)年5月、羽柴秀吉による第一次因幡攻めが開始され、私部城も攻撃を受けて落城、私部毛利氏は鳥取城に立て籠もります。その後、私部城は秀吉に服属した山名氏政に与えられ、私部毛利氏が再び私部城に戻ることはありませんでした。その後、鳥取城落城後とともに私部毛利氏も歴史の舞台から姿を消します。この秀吉の因幡攻めの様子は、『鳥取県史ブックレット1 織田vs毛利 ―鳥取をめぐる攻防―』に記していますので、どうぞご覧下さい。

 戦国時代を通じて山名・尼子・毛利・織田といった大名権力の挟間において、たくましく生き抜いた中小領主たち―。県史編さん事業では、歴史に名を残さなかった彼らのような存在にも光をあて、残された史料をもとに、可能な限りその実態を究明したいと考えています。
(注1)私部毛利氏の拠城。若桜方面から国府に抜ける交通路上に位置し、堀切・竪掘の遺構が随所に残る。「市場城」とも呼ばれる。

(注2)「佐々木文書」(古代出雲文化センター編『戦国大名尼子氏の伝えた古文書―佐々木文書―』,1999)。

(注3)『大乗院寺社雑事記』文明11年閏9月20日条(竹内理三編『続史料大成』臨川書店,1978)。

(注4)年不詳3月27日付け源節(源五郎ヵ)書状(名古屋大学文学部国史研究室編『中世鋳物師史料』法政大学出版会,1982)。

(注5)年不詳9月26日付け吉川元長自筆書状(東京大学史料編纂所編『大日本古文書 家わけ第九 吉川家文書別集』72号,東京大学出版会,1932)。

(岡村吉彦)

室長コラム(その14):ボランティアの皆さんに感謝

 当室では、県民参画のもとに編さん事業を進めるため、「古文書解読」・「石造物調査」・「民具整理」の三つの分野で「県史編さん協力員」の制度を設け、この6月から募集を開始している。募集前は、無償のボランティアの協力員にどれだけ応募があるかと心配したが、おかげさまでそれぞれの分野に応募があり、現在、順次活動を始めているところである。

 私の担当する「古文書解読」は、近世は鳥取藩「家老日記」を、近代は「鳥取県史料」を、それぞれ分担して解読し、パソコンに入力するという内容。解読は自宅等で各自行っていただくこととしているが、月1回解読原稿の点検や協力員相互の親睦のため、県内3地区ごとに月例会を持つこととし、その第1回目を、中部地区と西部地区は7月1日(日)に、東部地区は7月7日(土)に開催した。参加者は中部地区3名、西部地区6名、東部地区20名。東部地区が圧倒的に多いのは、当室での募集以前から県立博物館が行っていた「古文書解読ボランティア」の方々が含まれているからである。

 県立博物館でボランティアの募集を始めたのは、5年前から。ボランティアを発案したのは、当時そこに勤務していた私である。

 県立博物館が所蔵する「鳥取藩政資料」は、質量ともに全国屈指の大名家文書であることは研究者の間ではよく知られいる。私が試算したところ、この資料を毎日8時間365日読み続けるとして、全てを読み通すのに200年かかる程の膨大な資料群である。そして、「鳥取藩政資料」の大部分は、藩の各部署で作成された日々の公務日誌であり、特定の日に起こった事を調べるには極めて便利な資料なのだが、それに関係ある事象が他にないかを調べるには、膨大な資料を1点ずつめくって調べるしかなく、実際にはほぼ不可能で、量の多い事がかえって研究上の支障になっていた。この重要な資料を有効に活用できるようにするためには、地道に一つずつ資料を解読し、パソコンに入力して、検索できるようにしていくしかない。ということで、まずは鳥取藩の重要な情報が集まる家老のもとで記された日記を、ボランティアの皆さんと解読しようとしたのである。

古文書解読協力員の月例会での写真(倉吉会場、2007年7月7日撮影)
古文書解読協力員の月例会で(倉吉会場 2007年7月1日撮影)

 集まったボランティアの中には、大学で歴史学を専攻された方もおられたが、大部分は古文書に始めて触れられる方々だった。しかし、熱心に取り組まれ、今ではいわゆる「みみずの這ったような字」をスラスラと読まれている方が多数ある。比較的文字の読みやすい幕末のものから進めた解読は、現在までに400字原稿用紙に換算して約1万枚を超え、これは本にすると1,000ページの本4冊分程度になる。ただ、それでもまだ「家老日記」全体の7分の1程度に過ぎず、さらに解読を進める必要がある。「県史編さん協力員」として当室でボランティアを募集しているのは、解読すべき資料がまだまだたくさんあるからである。

 一つの藩の家老の日記が、江戸時代200年以上通じて残っているところはほとんどない。解読が進めば進むほど、江戸時代の鳥取の具体的な姿が浮かび上がってくるはずである。全文の解読を夢見て、ボランティアの方々の解読した原稿をチェックしている時間が、最近の私の至福の時間である。これも、こつこつと解読いただいているボランティアの皆さんのおかげ、本当に感謝である。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2007(平成19)年6月

4日
民俗調査(八頭町・智頭町、樫村)。
6日
県史編さん専門部会(現代)開催。
「鳥取学」講師(鳥取環境大学、坂本)。
7日
聞き取り調査(米子市、西村・足田)。
8日
県史編さん専門部会(中世)開催。
11日
募集手記聞き取り調査(鳥取市、西村)。
12日
民俗調査(智頭町、樫村)。
13日
県史編さん専門部会(近世)開催。
「鳥取学」講師(鳥取環境大学、岡村)。
19日
民俗調査打合せ(若桜町他、坂本・樫村)。
21日
史料調査(米子市、西村)。
民具調査打ち合わせ(日吉津村、樫村)。
22日
巡回講座・編さん協力員説明会(米子市)。
23日
巡回講座・編さん協力員説明会(倉吉市)。
24日
巡回講座・編さん協力員説明会(鳥取市)。
26日
民俗調査(智頭町・若桜町、樫村)。
28日
 江山中学校生徒、職場体験学習で来室。
 民具調査(日吉津村、樫村)。
29日
聞き取り調査(米子市、西村・足田)。

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編集後記

 今月から編集担当が私、樫村になりました。県史編さんに伴う活動も、県史編さん協力員(ボランティア)の参加がはじまり、現地調査を行う機会も増えてきました。編さん室の多彩な活動を今後も伝えていきたいと思います。よろしくお願い致します。

(樫村)

  

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