県史の編さん事業では、時代によりさまざまな資料を扱います。出土物や遺跡などの考古資料、書簡や法令・達などの文書や日記、近代になると新聞や統計資料が加わり、さらに絵図や写真など視覚に訴えるものもあります。個々の資料にはそれぞれ人々の暮らしやモノの考え方が刻印されていますが、現代部会ではこれにもう一つ、「聞き取り」という手法が加わります。聞き取りは、現存する当事者や関係者にお会いして歴史体験をうかがうもので、事件に至る過程や当時の気持ちを当事者の言葉によって引き出すことができる魅力的な手法です。
佐野川事件の聞き取り
聞き取りの試みとして、6月に元県職員で米子市在住の篠田伊三郎さんを訪ねました。戦前から戦後にかけての県行政をお聞きするなかで、話は昭和23(1948)年に起こった佐野川事件に及びました。
― 佐野川事件 ―
昭和23年、南部地方(西伯郡南部11か村)の水利問題を解決するため、西伯地方事務所が計画した佐野川への発電所建設に対し、箕蚊屋地区農民が反対運動を展開。デモ隊に囲まれた篠田所長は計画中止を表明。その後、進駐軍の指令で日吉津・大和・縣・巌・大幡の各村長らがデモ指導者として検挙され、所長に対する強要・暴力行為があったかどうかが公判で争われた。そのような事実はなかったと篠田氏が言明したため事件は収束。
旧県史はこの事件に一項目を立てて記述していますが、箕蚊屋地区農民の発電所建設反対理由は書かれていませんでした。篠田さんはその理由を、発電所建設と佐野川改修に伴って箕蚊屋地区への流量が減ることを恐れた同地区農民の思いこみから発生したものであると端的に語りました。また、佐野川改修は地元水利組合が戦前から要望していたものであるが、自分が南部地方出身であったため我田引水と受けとられ、示威行動が激化したのではないかと当時の農民の気持ちを推し量りました。
さらに、公判中の篠田さんの態度について「被告(デモ指導者:引用者注)たちに不利な証言を求めてやまないアメリカ占領軍、警察検察庁の脅迫と圧迫に屈せず、終始一貫被告らに有利な証言をおこなった」(竹本節『嵐の中の十二年』)とあることについて、なぜ反対の立場にある被告に有利な証言をしたのかが不明でした。これについて篠田さんは、もともと地元の反対を押し切ってまで進めるつもりはなかったため、暴行や強要によって中止を表明させられたわけではないと述べたに過ぎない、発電所と河川改修の必要性は最後まで訴え続けたと熱をこめて語りました。被告に特段有利な証言をしようとしたものではなく、自己の信念に基づくものだったのです。のちにこの計画は、地元住民の理解を得て昭和28(1953)年県営幡郷発電所として実現することとなります。
聞き取りの様子の写真(2007年6月7日撮影)
篠田伊三郎氏(米子市在住)、明治43年生まれ(96歳)。昭和14(1939)年県職員採用となり、企画課長、商工課長、農政課長、農業改良課長、厚生援護課長、人事委員会事務局長を経て、昭和38(1963)年に米子市助役に転出。河合市政(5期)を支えた。
聞き取りの注意点
今回の聞き取りによって、戦後占領期の農民運動の息吹と県政の姿勢がより身近にリアルに伝わってきました。しかし聞き取りの現場では、記憶違いや誤解、誇張などが知らず知らずのうちに語りのなかに入り込む心配や、聞き手の関心や感性により語りの内容の幅と厚みが左右されたりするなどの恐れも否定できません。語りの内容を文字資料と突き合わせることで誤りを軌道修正し、より豊かな歴史像が提供できると考えます。現在実施中の手記募集「戦後復興と昭和のくらし」と併せて、戦後の鳥取県のあゆみを明らかにしていきたいと思います。
(参考文献)鳥取県編『鳥取県史 近代第4巻社会篇・文化篇』(1969)社会篇134頁、竹本節『嵐のなかの二十年』(県政新聞社,1957)。
(西村芳将)
8月8日・9日に、「第32回部落解放・人権確立鳥取県研究集会」が鳥取市で開催され、このうち、9日県立博物館での第7分科会(部落史)で、「史料から見えてくる鳥取近世部落史の具体像」と題して報告させていただいた。
このタイトルに私が込めた想いは、以下のようなものである。従来の部落史は、ややもすれば「悲惨・貧困」の事実が強調されたり、また、その批判から、逆に経済的な豊かさや部落独自の文化を強調される、いわば、「明」と「暗」の両極端なイメージがあるように感じられる。しかし、実際の歴史は、私たちと同じ、生身の人間の行動の結果であり、そこには「明」も「暗」もあるはずだ。そのような生身の人間の歴史として、実感をもって理解できる「リアル」な部落史を明らかにすることが現在の課題であり、そのためには、具体的な史料を数多く集め、そこに記された事実を深く読み取っていくことが必要ではないかということ。その試みとして、報告では、江戸時代の三つの史料(史実)を紹介し、そこから窺える被差別部落のあり様を考えようとした。
その史料の一つが、「家老日記(控帳)」の元治元(1864)年2月10日の記事。内容は、鳥取城下近郊の古海村にあった鉄砲稽古場の道具入れ小屋の戸口に、張紙があり、管轄する役人から家老の元に届けられた。張紙の内容は、ある被差別部落の個人宅に、前年に起こった生野の変に加わった浪士たちが集まっており、情報を探索しているようだ、という密告というもの。史料自体は非常に短いものだ。
この時代は、幕末の動乱の時期。ペリー来航以後、海防の必要が高まり、そのため鳥取藩では、武士だけでなく、農兵を組織することとし、農兵も含めた鉄砲の稽古場を古海に作っていた。記事の前年の文久3年、長州藩を中心とする尊皇攘夷派は、天皇の大和行幸を契機に倒幕の挙兵を企てるが、逆に、薩摩・会津両藩は、8月18日の政変で京都から長州藩の勢力を追放した。この前後に、尊皇攘夷を実行しようとした公家の中山忠光と土佐藩士の吉村虎太郎らが大和五条の代官所をおそい(天誅組の変)、元福岡藩士の平野国臣らも但馬の生野代官所をおそった(生野の変)。蜂起はともに幕府軍によって鎮圧されたが、生野に近い鳥取藩領には、その残党が逃れてきていたようだ。
史料中の密告された人物は、実はこれまでの研究によって、鳥取藩内有数の被差別部落の有力者・富豪であることがわかる。密告のように、彼の元に生野の変参加者が集まったかどうかは、他に関連資料がなく、断定することはできないが、彼の経済力やその後の行動等から考えて、事実である可能性は高く、少なくとも、周囲から尊王攘夷派に好意的と見られていたことは確かだろう。
密告の内容が事実とすれば、尊皇攘夷派の浪士たちを支援した被差別部落の富豪の意図は何だろうか。そこには、政治の変革による身分解放への願いがあったと想像するのが妥当だろう。明治維新への流れの中で、被差別部落の人々は、ただ傍観していただけではないことを、この史料は教えてくれている。と同時に、このような動きを快く思わず、藩に密告する者がいたことも、同時に教えている。
(県史編さん室長 坂本敬司)
1日
県史編さん協力員(古文書解読)月例会(米子市・倉吉市、坂本)。
3日
民俗調査(智頭町、樫村)。
6日
民俗調査打合せ(智頭町、樫村)。
10日
民具調査(日吉津村、樫村)。
12日
県史編さん協力員(中世石造物)調査(倉吉市・湯梨浜町、岡村)。
資料調査(長島愛生園、坂本・西村)。
民具調査(日吉津村、樫村)。
13日
資料調査(長島愛生園、坂本・西村)。
17日
民俗調査(智頭町、樫村)。
19日
民具調査(日吉津村、樫村)。
24日
民俗調査(若桜町、樫村)。
25日
民具調査(三朝町、樫村)。
26日
民具調査(日吉津村、樫村)。
31日
県史編さん専門部会(近代)開催。
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