鳥取県の子供行事
昨年(平成19年12月8日)、新鳥取県史シンポジウム「鳥取の民俗再発見~子どもと地域社会~」を開催しました。このシンポジウムにおいて、私も発表させていただきましたが、鳥取県においての子供が関係する重要な民俗行事や、全国の子供の行事を勉強し直すいい機会を頂いたと感じています。
鳥取県には、国の重要無形文化財に指定されている行事が二つあります。「因幡の菖蒲綱引き」と「酒津のトンドウ」です。この二つの行事はどちらも民俗学的には「子供組」とよばれる子供の組織が重要な役割を果たすとされている行事です。
鳥取市気高町宝木の菖蒲綱引きでは7歳から14歳の中で年齢が一番上の者が団長(または大将、後見人)と呼ばれリーダーとなり、次の者が副団長となります。酒津のトンドウでは現在、小学生が参加して、5年生の年長者が一番頭とよばれるリーダーになり、以下年齢順に二番、三番となります。この二つの行事は年齢秩序をもった子供組が中心となることも文化財指定の重要なポイントでした。
このような子供組ですが、民俗学の子供組研究では村落の年中行事において果たす役割のみが強調されてきたという批判があります(注1)。いわゆるハレの日の子供のみで、日常の子供たちの生活については何もわからないということです。鳥取県には多くの子供の行事が残っていますが、現代において子供の日常は日本全国かわらず学校と塾との往復で、時間があればゲームをするというものです。子供組のような視点から日常の子供たちを捉えることは困難な状況です。
マンガを資料として民俗を再考する
さて、そこで注目したいのはある人物とその著作です。ある人物とは鳥取県境港出身の漫画家、水木しげるさんで(注2)、著作とは水木さんの自分史であるという『水木しげる伝』(注3)と、やはり水木さんの小学生時代を中心に記された『のんのんばあとオレ』(注4)です。これらには水木さんが子供であった戦前の日本、境港、子供たちの日常の様子が生き生きと記されています。
その中で水木さんは、小学校入学前の子供は「ゲタ」と称されて「子供」の資格がなかった、そして早く「子供」として認められてガキ大将の傘下に入って、正式な仲間になるのがユメだったといいます(注5)。またガキ大将傘下に仲間入りした後は、石合戦を中心としたケンカが日常的だったことが描かれ(注6)、ガキ大将以下には、2番、3番という順位があったこと、小学6年生になったときにはガキ大将になるための試練が描かれています(注7)。
これらの記述は、なんとなく読み流すことも可能ですが、重要な事実を示しています。水木さんが入ってケンカに明け暮れたガキ大将の傘下の子どもは小学生尋常科、つまり満6歳(数え7歳)から12歳であり、水木さんの先代のガキ大将は小学校を卒業してから水木さんにガキ大将の座を譲っています。ですから13歳程度、つまり小学校高等科程度だったことがわかります。
また高等科程度の年齢でもガキ大将として違和感がないように描かれています。子供組の構成員は数えで7歳から14歳程度とされますがちょうど一致します。またガキ大将の傘下に入らなければ「子供」の資格がなかったということも、民俗学上は子供組に入って正式な村の成員になったとされることと関連が予想されます。
そして石合戦という隣村の子供たちとのケンカも、民俗学上重要な意味があります。かつては全国的に主に端午節供を中心に行事として石合戦が行われ、それによって吉凶が占われたことからしますと、単なる遊びではありませんでした(注8)。
こうしてみると村落組織の行事で活躍する子供組と、水木さんのガキ大将傘下の仲間は大きく重なる点があることがわかります。また行事祭礼とは関係なく、日常的に子供組に似た組織があったことになり、民俗学が学術用語として生み出した子供組の存在自体を問い直すこととなります。先にあげた水木さんのマンガは、水木さんの自分史であると同時に鳥取県の境港を中心とした地域史であり、子供の日常の貴重な記録、資料になりえます。そして民俗学における子供研究の方向性を変える可能性すら秘めています。
急激な社会の変化の中で民俗の喪失が叫ばれて久しいですが、そうした状況の中では民俗学の基本である聞き取り調査、文書、写真以外にも、自伝的なマンガなど今まであまり目が向けられなかった分野にも目を向けていくことが重要でしょう。今回は鳥取県ゆかりのマンガ家の中から、新たな発見の可能性を紹介させていただきました。
(注1)福田アジオ「民俗学と子ども研究~その学史的素描~」『国立歴史民俗博物館研究報告』54(国立歴史民俗博物館、1993)156~157頁。
(注2)水木しげるさんは、長年、日本民俗学会の会員で平成20年1月現在、日本民俗学会の評議員という役員を勤めておられます。
(注3)水木しげる『完全版 水木しげる伝(上)』(講談社、2004)。
(注4)水木しげる『のんのんばあとオレ』(講談社、1997)。
(注5)水木前書(2004)62~63頁。
(注6)水木前書(1997)134~158頁。
(注7)水木前書(1997)226~357頁。
(注8)中沢厚『つぶて』(法政大学出版会、1981)。
(樫村賢二)
このところ、県史編さん事業に協力いただくボランティアの皆さんが解読した、鳥取藩の「家老日記」の原稿をチェックする作業に追われている。その中で、今も昔も変わらないな、と感じさせる記事があったので、紹介しよう。嘉永6(1853)年10月7日の記事。ちょうどペリー来航の年のことである。
この年4月27日、鳥取藩は財政難のため、今後5年間格別の倹約を行うことを藩の各部署に伝え、それぞれで経費を節減できる方法を検討し報告するよう求めた。それに対する各部署の回答が、この日に記録されている。
回答が記されているのは、27の部署。その最初に記された、領内の海岸と河川を管轄する「御船手」の回答を現代語訳すると、以下のようになる。
「以前から、当役所の業務は手詰まりで、現在削減できることはありません。ただし、先日申し上げたように、公用で借り上げた船の水夫の賃金については、なお検討の余地がありますので、後で報告します。」
何かしら、動きはあるようだが、今すぐの提案はない。続いて記された、藩内の様々な儀礼を担当する「御勤役(おつとめやく)」の回答は、
「何も思いつくことはありません。」
とそっけない。鳥取城内の施設を管理する「御城代」は、
「現在提案する程の事案はありませんが、今後考えがあれば、追い追いに申し上げます。」
と、言葉は丁寧だが、内容はゼロ回答だ。
結局、27の部署の内、何らかの提案があったのは、10部署にとどまり、現状維持を是とする雰囲気が多いことが窺われる。ただ、中には具体的な改革案もある。
例えば、藩の軍事訓練担当の馬渕官兵衛は、当時鳥取城下近郊の浜坂で訓練を行うたびに、鳥取から必要な道具を人や船を雇って輸送していることを止め、現地に保管場所を作り、輸送の経費を削減することを提案している。いじらしいような提案もある。弓ヶ浜半島警備のため米子に派遣されている「米子浜之目詰」の提案は、「番所の畳は、現在6年ごとに交換しているが、今後、5年目ごとに裏返し、10年で交換する」というもの。もちろん、この提案は受け入れられた。
10部署からの提案の多くは、各部署に割り当てられ配置されている足軽や、農村から徴発された「御小人(おこびと)」と呼ばれる人々の削減、あるいは待遇格下げによる支出節減だ。現在でいえば、アルバイト職員の首切りと賃金引き下げといったところか。上級の藩士の役職を削減するような提案は見られず、提案の全てを実行したとしても、削減される経費は、さほど多くはなかったろう。
このような状況を見かねたのか、藩当局はこの日、さらに徹底的な節減を行うため、上からの改革を指示する。たとえば、60年前にさかのぼって、それ以後人員が増加している部署に対して、その増加理由を調査し提出することを求め、削減の可能性を探ると共に、独自の判断で、各部署から提案のない人員削減も命じている。個別の部署に対しても、たとえば、町人が土地を売買する際に、売買価格の十分の一を藩に納める制度が形骸化している状況に対し、実際の取引額によって厳密に徴収することを町奉行に命じるなど、さまざまな指示がこの時なされた。
現在の鳥取県も、当時の鳥取藩と同じく財政難である。各部署に、経費削減策の提案を求めるのも同様である。そして、その解決が容易でないことも、今も昔も変わらないのだろうか。
(県史編さん室長 坂本敬司)
1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
4日
出前講座(八頭総合事務所、岡村)。
8日
新鳥取県史シンポジウム開催(米子市淀江文化センター)。
12日
第1回県史編さん委員会開催。
14日
史料調査(~15日、倉吉市、岡村)。
鳥取県ミュージアムネットワーク歴史・民俗部門研修会(倉吉博物館、樫村)。
17日
三崎殿山古墳現地調査(南部町、岡村)。
聞き取り調査(鳥取市鹿野町、西村)。
18日
民俗調査(岩美町、樫村)。
20日
民俗調査(~22日、若桜町・智頭町、樫村)。
26日
六部山古墳群出土物調査(~28日、鳥取市埋蔵文化財センター、岡村)。
28日
仕事納め。
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