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因幡・伯耆の戦国武将たち(その2):西伯耆国人村上氏

 戦国時代の鳥取で兵糧をめぐる戦いといえば、『鳥取県史ブックレット1』で取り上げた織田対毛利の攻防戦が有名ですが、永禄年間(1560年代)に西伯耆で繰り広げられた毛利と尼子の戦争も、兵糧の動きが勝敗に大きく関わった戦いといえます。

 今回は、この戦争において、兵糧物資の輸送や統制の担い手として活躍した西伯耆の国人村上氏を取り上げてみたいと思います。

 永禄5(1562)年7月、毛利元就は、宿敵尼子氏を攻撃するため、出雲へ進出します。このとき尼子の本拠富田城の東側に位置する西伯耆は両軍が激突する地帯となり、激しい攻防が繰り広げられました。

 永禄6(1563)年7月、毛利方の拠点である河岡城(米子市河岡)を尼子軍が攻撃し、河岡城の「外城」に置かれていた毛利方の兵糧米が焼失します。このとき元就はただちに西伯耆に兵糧を送るよう命じます。次にあげる史料は、元就が河岡城の山田満重に送った書状です(史料は現代語意訳、一部のみ)。

(河岡)外城の兵糧が焼失したとのことなので、杵築(出雲)より明日三百俵を淀江まで送る予定である。ついては、村上太郎左衛門の所へ人を出し、待機させて受け取るように。もし風の向きにより船が遅れてはいけないので、銀子を(使者に)持たせている(以下略)(注1)

 このとき元就は兵糧米300俵を出雲の杵築から西伯耆の淀江へ海上輸送すると同時に、現地買い取り用の銀を河岡城へ送っています。「現物(米)」と「銀」の両方を支給することによって、より確実に兵糧を確保しようとしたのです。

 ここで注目したいのは、淀江において兵糧米の受け渡しにあたっている村上太郎左衛門の存在です。村上氏は淀江周辺に基盤を持ち、地域商人たちともつながりのあった国人です。翌永禄7年にも毛利から村上氏に対して兵糧米100俵が送られており、西伯耆における毛利軍の兵糧支援は、村上氏を窓口として行われていたと考えられます。村上氏のもとへ送られた兵糧米は西伯耆の毛利方拠点へ運ばれ、戦線における城兵の生命を支えるとともに、長期に及ぶ戦争を可能にしていったのです。

 村上氏の働きは、兵糧米の受け渡しだけではありませんでした。永禄7年2月、毛利氏は次のような書状を村上太郎左衛門に出しています。

その表(西伯耆)の兵糧留のこと、(元就が)堅固に仰せつけられるとのことである。しかしながら、毛利の家人と称して、奉行人の証明書を持たないのに米を買い取る者がいるようだ。それを防ぐため制札を送るので、この制札に判を加えている毛利奉行人の証明書を持たない者に対しては兵糧を売買しないように (以下略)(注2)

 ここで注目したいのは、元就が西伯耆において「兵糧留」と呼ばれる作戦を実施していることです。「兵糧留」とは、敵が兵糧を入手するのを防ぐため、地域の商人たちに対して兵糧となる物資の自由な売買を禁止するもので、買い取りにあたっては毛利方の奉行人の証明を必要としました。しかし、中には毛利の「家人」と称して、奉行人の証明書を持っていなくても米を買い取る者があったようです。そのため毛利奉行人の証明を持たない者に対しては兵糧物資を勝手に売らないよう固く命じているのです。

 この書状が村上氏に出されていることは、村上氏が物資の売買、ひいてはこの地域の経済活動に深く関わっていたことを物語っています。その背景に淀江を中心に活動する地域商人たちとつながりや広範な流通ネットワークがあったことは言うまでもありません。毛利氏は村上氏の持つ社会的機能を最大限に生かして、戦線下における物資統制を図っていったのです。

西伯耆の概略図
西伯耆の概略図

 このように、対尼子戦争下の毛利氏にとって、西伯耆の地域経済や流通に深く関わる村上氏の存在は重要でした。毛利氏は村上氏を掌握することで、戦線における兵糧物資を確保・統制し、長期的な戦争を有利に展開していったのです。一方ですでに中海を制圧されて北からの補給路を絶たれていた富田城の尼子勢は、西伯耆方面における兵糧の買い取りも困難となり、ますます兵糧不足に陥っていきました。戦線における地域経済の担い手たちの働きは、戦国時代の戦争の動向を大きく左右していったのです。

(注1)(永禄6年)7月24日毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署書状(『萩藩閥閲録』巻31山田吉兵衛)

(注2)(永禄7年)2月10日平佐就之書状(東京大学史料編纂所影写本「宮本文書」)

(岡村吉彦)

室長コラム(その21):「西風東風」をどう読むか

 古文書を読んでいると、時々不思議な表現に出会って、とまどうことがある。例えば、「西風東風」という表現だ。

 鳥取藩の「家老日記」慶応2(1866)年12月11日に、次のような記事がある。

―生所邑美郡品治村源六と申者、召捕遂御吟味候処、四年以前御鉄炮足軽ニ被召、当八月御暇ニ相成候得共、今以村方根帳ニ相成不居申、始終西風東風致し廻り候旨申上候、右之通相違無之哉、根帳有無之儀取調申達候様、郡代江申渡之。

 江戸時代の文章は、このような漢文仮名交じりの文体で書かれており、現代人には読みにくいが、現代語訳すると、「(鳥取城下近郊の)邑美郡品治村(おうみぐん・ほんじむら)出身の源六という者を逮捕し、取調べを行ったところ、源六は4年前に藩の鉄砲足軽に召し抱えられ、今年8月に解雇されたが、今もって出身の村の根帳(戸籍)に戻らず、始終〈西風東風〉していると供述した。右のとおり、間違いないか、根帳が有るか無いかを取調べ報告するよう、(農村部を担当する)郡代へ指示した。」ということである。

 この記事は、農村部出身の源六が、鉄砲足軽という形で藩に召し抱えられたこと、つまり、普通の百姓が、武士の最下層である「足軽」の身分になっていることを示しており、江戸時代の身分が、かなり流動的であったことを伝えている点で興味深いが、気になるのは「西風東風」の意味と読み方だ。

 文脈から、「西へ行ったり東へ行ったりと、ふらふらとしている」というような意味と推測できるが、訓読みして「にしかぜひがしかぜ」と読むか、音読みして「せいふうとうふう」と読むか、いずれにしても、日本語として聞いたことがない。辞書を引いてみたが、ともに出ていない。

 悩んでいる中で、はたとひらめいた。「東風」は「こち」とも読む。菅原道真の歌「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 ・・」の「こち」である。とすれば、「東風(こち)」の対になる「西風」は「あち」であろう。「西風東風」は「あちこち」と読ませるに違いない。

 そこで、小学館の『日本国語大辞典』で「あちこち」を引いてみると、一般的には「彼方此方」と書くが、表記法の一つとして「東風西風」が載っている。東西の前後が違うが、「西風東風」を「あちこち」と読んだことは間違いなかろう。さらに、「あちこちする」という言葉は、「あっちへ行ったり、こっちへ来たりする」意味であることも記されている。風に吹かれて、あっちへ行ったりこっちへ来たり。「あちこち」という耳慣れた言葉でも、「西風東風」と書くと何かしら違ったイメージが涌いてくるから不思議である。

 ふだん何気なく使っている言葉が、思いもしないような別の表現で現れる。そのような驚きに出会えるのも、古文書解読の楽しみの一つである。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年1月

3日
民俗調査(若桜町吉川、樫村)。
4日
仕事始め。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
6日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
13日
民俗調査(鳥取市気高町酒津、樫村)。
15日
里見調査会合同調査(倉吉市、岡村)。
民俗調査(鳥取市気高町酒津、樫村)。
17日
聞き取り調査(北栄町、西村)。
24日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
25日
史料調査(琴浦町、岡村)。
28日
史料調査(湯梨浜町、岡村)。
29日
史料調査(倉吉市、岡村)。
31日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 2月17日に鳥取市内で40センチほど積もる雪が降りました。昨年1月に山陰に移り住んだ私は、昨年降雪が少なく2月も晴天が多かったので、今年ようやく山陰らしい冬を感じることができました。また寒い日にコタツで松葉ガニ(安い親ガニや若松葉ですが)の鍋を食べ、食においても山陰の冬らしさを満喫することができました。しかしながら室長コラムで「東風(こち)」の話題がでてくると、梅の花の香りをはこぶ東風が待ち遠しく感じます。

(樫村)

  

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