県史編さん室は、このたびの組織改正によって、4月以降、総務部総務課から県立公文書館に移管されることとなりました。これに伴い、執務場所が、県庁本庁舎3階から、4階へ移動します。
今回は軽い話題を。ある古書の表紙に残る一つの印影、つまりハンコの跡についてのお話です。
今から約100年前の1909(明治42)年、愛媛県温泉郡余土(よど)村(現松山市)の元村長、森恒太郎(もり つねたろう)が『町村是調査指針』という本を出版しました。題名にある「町村是調査」とは、主に明治時代後半~大正時代に全国各地の町村で実施された社会経済に関する実態調査のことで、ねらいは地域の振興計画を立てるための現状把握にありました。その模範的な実施例の一つとされたのが余土村です。『町村是調査指針』は、同村の経験にもとづいて書かれた指南書で、後発の調査にあたって参照されることも多かったといいます。
県立図書館所蔵『町村是調査指針』の表紙
※「盲天外」は森恒太郎の号。俳人でもあった森は、正岡子規に師事して「天外」の号を与えられました。その後、村長となる前々年の1896(明治29)年に失明してから、この号を用いました。
ひろく読まれただけあって、同書は今でも結構な数が残っているようです。鳥取県内でも、県立図書館と県立公文書館に1冊ずつの所蔵があります。また、インターネットで国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にアクセスすれば、全ページの画像データを閲覧することも可能です。
このように、『町村是調査指針』は滅多にお目にかかれない稀少本というわけではありません。しかし、県立図書館の所蔵本には、ほかでは見ることのできない歴史の足跡が記録されています。
それが、表紙に残る「鳥取縣日野郡農會印」の印影です。
「鳥取縣日野郡農會印」の印影(拡大)
『町村是調査指針』刊行と同じ1909(明治42)年、鳥取県農会は、県下の郡市農会に町村是調査の奨励金を交付することを決定しました。これを受け、県内各地で調査実施が盛んになりますが、とりわけ精力的だったのが日野郡です。その機運の背景には、たたら製鉄など地方産業の不振に対する危機感があったと考えられます。
翌年から、郡内の全村で人口・物産・労働・消費・資産・習慣など多岐にわたる調査が始められ、結果は、村ごとに策定された振興計画とあわせて、順次、印刷に付されました。それらは最終的に郡レベルへ集約され、『鳥取県日野郡是』という表題で刊行されます。調査開始から4年後、1914(大正3)年のことでした。
この大変な事業にあたっては、日野郡でも『町村是調査指針』が参照されたことが『鳥取県日野郡是』の「緒言」に記されています。
どうやら、日野郡農会の印影が残る県立図書館所蔵の『町村是調査指針』は、このときに読まれていた現物と見られます。表紙裏や中扉に残る受付印などから考えると、明治末に日野郡農会が持っていたこの本は、1957(昭和32)年に県立米子図書館日野分館へ寄贈され、後に日野町図書館を経て、1998(平成10)年に県立図書館の所蔵になったという経緯のようです(注)。
ところで、現在、近代部会は、明治時代の鳥取県の消費生活をテーマとするブックレットを執筆中です。
人々が何をどれだけ食べ、何を着ていたのか、家計はどんな構成だったのか―。そうしたことに関する当時の資料はあまり残っていないため、村々の消費統計を調べた町村是調査の記録は貴重です。今回のブックレットでも、『鳥取県日野郡是』やそのほかの県内に残る町村是資料を活用すべく、関連資料である『町村是調査指針』なども含めて、記載内容について検討を進めています。
県立図書館所蔵の『町村是調査指針』は、現存数も多い印刷物ですし、歴史研究が扱う資料としてはそれほど古いものではありません。
しかし、かつて地域の未来を見据えた調査のための参考文献として取り寄せられたこの本が、100年の時を経て、今度は地域の過去を学ぶための調査の過程で繙かれることになったとは、なかなか不思議な巡り合わせではないでしょうか。表紙に残るハンコの跡を眺め、ちょっとした感慨を覚えた担当者です。
(注)この点は、県庁図書室の網浜副主幹の御教示によります。
(参考文献)森恒太郎『町村是調査指針』(丁未出版社,1909,【再版】1910)と森自身の人物については、『農林漁業顕彰業績録』(日本農林漁業振興会,1968)、佐々木豊「森恒太郎の村是調査思想:余土村是調査の担い手たち〔1〕」(『農村研究』第35号,東京農業大学農業経済学会,1972)など。町村是調査一般については、一橋大学経済研究所日本経済統計情報センター編『「郡是・町村是資料マイクロ版集成」目録・解題』(丸善,1999)。『鳥取県日野郡是』(鳥取県日野郡農会,1914)と鳥取県内の町村是調査については、岩田熊三郎「鳥取県日野郡村是設定と郡是調査」(『大日本農会報』第377・378号,大日本農会,1912)、『鳥取県農会沿革の概要』(鳥取県農会,1912)など。
(大川篤志)
上方落語の人間国宝・桂米朝師匠の演目の中に、「高津(こうづ)の富」というはなしがある。その昔、大阪道頓堀にほど近い高津神社で、富くじが行われており、そこで最高額の千両くじを当てた男と、その男を泊めた宿屋の亭主とのやりとりを、面白おかしく落語にしたものだ。実は、このはなしの主人公である千両くじを当てた男は、米朝師匠の設定では、鳥取の人とされている。
この鳥取人、落語に登場するだけあって、かなりのほら吹きである。実際にはほとんどお金を持たないまま、大金持ちの振りをして宿屋に泊まり込み、その金持ちぶりを自慢する。例えば、こうだ。
家が盗賊に襲われた時、どうせ金が欲しくて来ているのだから、手向かいして怪我でもしたら大変だと、戸を開けて盗賊たちを金蔵に案内してやったところ、盗賊たちはどんどん金を運び出していった。夜が明けて蔵の中を調べてみると、千両箱がたった八十五しか減っていない。盗賊たちもわりと欲がないものだ。
この間、久しぶりに家の台所に行ってみると、使用人たちが漬物石を足の上に落としたと騒いでいる。石が丸いからこうなるのだと、持ちやすいように千両箱を十ほど放り出しておいてやった。ところが、それが一つずつ減っていくので、おかしいなと思って気をつけていたら、出入りの者が帰りしなに一つずつ担いで帰っていく。貧乏人というものは、罪のないことをするものだ。
屋敷が広いので、隅々まで知らない。この間番頭が、裏の離れが完成したので、一度見てくださいというので、番頭の案内でついて行ったが、行けども行けども離れに着かない。番頭に、その離れには今日中に着くのかと聞くと、まあ明け方には着くでしょうというので、阿呆らしくなって途中で帰ってきた。
屋敷の庭は、山を二つ取り入れて作ってある。このごろ、庭の隅のほうで山賊が出るというので、お上のお役人がうるさくて困る。
といった次第。
鳥取人は、地味で真面目だと言われるが、この落語の中の鳥取人は、そのイメージとは程遠い。なぜ、この主人公が鳥取の人と設定されたのかは定かでないが、ひょっとすると、かつて大阪あたりでは、鳥取人はこのような大ボラ吹きとイメージされていたのかもしれない。少なくとも、鳥取出身という設定に、聴衆は違和感を持たなかったことは確かだろう。
最近、県民性を話題にしたテレビ番組が人気を呼んでいるが、県民性が歴史的にどのように形成されてきたかというのは、興味あるテーマだ。その意味で、このはなしを紹介した。ただ、この男、実は小心者で、千両当たって動転し、雪駄を履いたまま、宿屋の部屋に上がって蒲団に入って震えている。それが最後の落ちにつながるのだが、これ以上は『桂米朝コレクション 4 商売繁盛』(ちくま文庫)で御確認を。
(県史編さん室長 坂本敬司)
1日
民俗調査(智頭町、樫村)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
6日
民具調査打合せ(鳥取市佐治町、樫村)。
7日
中世史料調査(~8日、兵庫県神戸市・滋賀県愛荘町他、岡村)。
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
12日
資料調査(~13日、長島愛生園・岡山県立記録資料館、西村)。
14日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
15日
中世史料調査(湯梨浜町、岡村)。
21日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
26日
民俗調査(気高町八束水・青谷町夏泊、樫村)。
29日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
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