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中国吉林省の満蒙開拓団移住地を訪問

 現代部会では去る3月16日から21日にかけて、中国吉林省を訪問し、鳥取県の満州移民に関する現地調査を行いました。今回の訪問の目的は、平成20年度に刊行予定のブックレット「鳥取県民の満州移住」に関する基礎資料を収集すること。具体的には、中国の満州移民研究の状況を把握し、公文書館の利用方法や史料の保存状況を確認することと、以前県史だより11号でも紹介した吉林省磐石(ばんせき)県の「第11次徳勝(とくしょう)鳥取開拓村」を訪問し、地元の人々に当時の村の様子をお聞きすることでした。

○吉林省档案館(とうあんかん)

 中国の東北地方には、戦前、日本の強力な支配の下に「満州国」が建国され、“五族共和”“王道楽土”のスローガンのもとに、日本から多くの農業移民が送られました。吉林省の省都長春は当時「新京」と呼ばれた政治経済の中心地で、満州国政府や関東軍が使用した建物は今でも省機関や大学・病院などとして利用されています。そんな旧満州国時代の建物が建ち並ぶ一画に吉林省档案館(公文書館)はありました。ここには清代以後の文書90万冊が所蔵され、移民関係資料も開拓政策に関する要綱や土地買収に関わる文書、開拓団の事件などに関する資料などが保管されているとのこと。次回8月調査の協力を依頼するとともに、利用手続などを確認しました。

吉林省档案館での面談の様子の写真
吉林省档案館で楊副局長らと面談

○吉林大学王勝今副学長

 次に訪れた吉林大学では王勝今副学長と面談。王氏は以前、とっとり政策総合研究センターの調査研究部長として在籍されていたこともある方で、2005年には長年の研究成果をまとめられた「中国東北地区移民研究」を出版されています。同書は、中国東北地方への周辺諸国からの移民及び国内(河北省、山東省など)移民の分析を行った歴史人口学の成果です。王氏との会話を通じて、清末からの時間的な広がりと周辺諸国や国内移動という空間的な広がりのなかで、中国東北地方の移民の歴史を見つめることを学びました。

吉林大学で王勝今副学長との面談の写真
吉林大学で王勝今副学長と面談

○徳勝鳥取開拓村へ

 2日目はいよいよ徳勝開拓村の訪問。長春から約100キロ南方の盤石県に位置します。長春市内から高速道路を30分も走ると、緩やかに起伏に富んだとうもろこし畑が果てしなく広がる農村風景に包まれました。地元の人民政府の建物で歓待を受けたのち、徳勝村を訪問し男性2人と面談。戦前からここに住む牛徳さん(81才)、牛志さん(78才)というご兄弟で、鳥取開拓団の馬の世話をして働いていたとのことでした。

牛徳さんの写真
日本人の馬の世話をしていたという牛徳さん
牛志さんの写真
日本語のかけ声を覚えていた牛志さん

 日本人の開拓団の団長が病気になったときに牛肉を食べさせたことや、よく神社に集まっていたこと、4月18日に祭りをやっていたこと、敗戦時の引き揚げの経路などについて詳しくお聞きすることができました。聞き取りの最中、急に日本語が口をつき「イチ、ニィ、サン、シィ、ゴ、セイレツー」「ミギムケー、ミギ!」と叫ばれたのには一同驚きました。この後他の部落で別の2人の方からお話しを聞くことができ、開拓団の本部、倉庫、醤油工場、小学校、神社のあった位置や他の部落との位置関係も確認することができました。聞き取りのなかで日本人との関係についてお聞きしました。農地や家を奪った日本人に対してさぞかし悪感情を抱いていただろうと恐る恐る尋ねたところ、4人は口をそろえて「普通だった」「隣人関係」と答えました。しかしその一方で「いい耕地は日本人のものとなった」「日本人はすぐ殴った」とも話されました。60余年前、日本からやってきた人々に土地を奪われた地元の農民はどこに去っていったのか。そして残った人々は鳥取からやってきた農民の家族たちをどのような気持ちで受け入れ、接したのか。大きくなる疑問を抱きつつ徳勝を後にしました。次回調査ではさらなる聞き取りと併せて、土地買収の経緯に関する資料の発見に期待したいと思います。

(西村芳将)

室長コラム (その23):「尚徳館碑」は芸術作品

 この4月、県史編さん室は総務部総務課から県立公文書館に移管されたが、公文書館のスペース上の事情から、編さん室の職員は県庁本庁舎4階で執務している。公文書館とは以前からつながりが深く、しばしば出かけていたが、4月以降は、連絡のため毎日公文書館に通うようになった。

 県庁のすぐ前の、公文書館と県立図書館、そして名前が変わった「とりぎん文化会館」の建つ敷地は、江戸時代には鳥取藩の藩校尚徳館があった場所だ。現在も、県庁側の一角に、最後の鳥取藩主池田慶徳(よしのり)によって建てられた「尚徳館碑」の石碑が、当時の名残を留めている。

県立公文書館前の「尚徳館碑」の写真
県立公文書館前の「尚徳館碑」

 尚徳館は、鳥取藩5代藩主池田重寛(しげのぶ)の時代、宝暦7(1757)年に創建されたが、幕末に水戸藩から迎えられた池田慶徳は、水戸の弘道館にならって尚徳館の拡張・充実を行い、自身の思いを記した「尚徳館碑」を万延元(1860)年に建立した。

 碑の上部には、篆書で「尚徳館記」の文字、中央に隷書で長文の漢文が彫られ、ともに慶徳自身の書といわれている。漢文の碑文は、現代人にはわかりにくいが、その冒頭は、「人君治を為すの道二あり。曰く文、曰く武。文は以て己を修め人を治む。武は以て姦を防ぎ邪を遏(や)む。人臣の道も亦文武のみ。」と、為政者として、文武を学ぶことの必要性を述べ、それに続く後段では、尚徳館を創建して文武の興隆を図った池田重寛の思いを自分が継承していく決意が記されている。漢文の意味はわからなくても、彫られた端正な書体だけでも、十分にすばらしさを感じられる石碑である。

 ところで、この「尚徳館碑」には、周囲に雲竜の絵が彫られている。私自身、碑文ばかりに注目して、それ以外はほとんど気に留めていなかったのだが、この雲龍の絵について、ボランティアの方々と解読を進めている「家老日記(控帳)」の中に、ある記事を見付けた。文久元(1861)年12月27日、藩絵師・根本幽峨が「学校御自筆御碑銘」に「雲龍之画」をしたためた褒美として、帷子(かたびら=ひとえの着物)が与えられたという記事である。「御自筆の御碑銘」は、「尚徳館碑」のことを指すと見て間違いなかろう。

尚徳館碑に彫られた雲竜の絵の写真(碑の縁部分)
尚徳館碑に彫られた雲竜(碑の縁部分)

 その意味で、「尚徳館碑」は根本幽峨の作品ということもできる。当時の一流の絵師・根本幽峨の作品を、誰でも見ることができる。県庁周辺にお出でになった際には、ぜひこの石碑を見ていただきたいと思う。碑は西に面しているため、陽のあたる午後が見ごろだ。

(県史編さん室長 坂本敬司)

活動日誌:2008(平成20)年3月

1日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
2日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
民俗調査(大山町赤松、樫村)。
4日
中世史料撮影(琴浦町・倉吉市・湯梨浜町、岡村)。
6日
中世史料撮影(境港市・米子市、岡村)
11日
中世史料調査(~14日、東京大学史料編纂所・早稲田大学、岡村)。
13日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
16日
満州移住現地調査(~21日、中国吉林省等、西村)。
19日
民具調査(日吉津村民俗資料館、樫村)。
24日
第2回新鳥取県史編さん委員会(県庁会議室)。
26日
満州移住資料調査(県農業大学校・倉吉市、西村)。
民具調査(~27日、日吉津村民俗資料館、樫村)。

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編集後記

 県史編さん室が総務課から県立公文書館に移管されて、初めての「県史だより」となります。これからは県立公文書館のホームページ上において、今まで同様に月1回のペースで「県史だより」を更新します。これからも県史編さん室の活動にご注目ください。

(樫村)

  

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