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麒麟獅子舞の担い手・獅子庄屋について

はじめに

 麒麟(きりん)獅子舞は傘踊りと並び、鳥取県東部で最も親しまれている民俗芸能の一つです。麒麟獅子舞とは「麒麟」をかたどった獅子頭を付け、先導役に猩々(しょうじょう)がつくのが特徴で、もともと鳥取藩初代藩主の池田光仲が勧請(かんじょう)した因幡東照宮の祭礼の中で行われ、その後因幡地方(鳥取県東部)各地に広まっていったと言われています。この麒麟獅子舞については、野津龍(のづ とおる)氏がその著書『因幡の獅子舞研究』(注1)の中で詳細に論じられている他、先日も鳥取県立博物館で「大麒麟獅子展」が行われ(注2)、調査・研究が進められています。

鳥取樗谿神社 獅子と猩々
鳥取樗谿神社 獅子と猩々(『民俗芸術』第1巻第9号より)

 ところで、江戸時代においては藩主催で行われた因幡東照宮祭礼の麒麟獅子舞に関して、「獅子庄屋」という役目があったことが知られています(注3)。この「獅子庄屋」とはどのようなものだったのでしょうか。

獅子庄屋元結屋

 まず、「獅子庄屋」に関してこれまでの研究で明らかになっていることをまとめてみます(注4)。なお、「獅子庄屋」は史料上では「獅子庄屋」や「獅子頭」などと表記されますが、以降は「獅子庄屋」に統一します。


(1)
鳥取の上町、観音院近くに居住する佐藤家(屋号:元結屋)が獅子庄屋として獅子舞の取締・稽古を行った。
(2)
佐藤家所蔵の古文書によると、獅子庄屋元結屋善吉の先祖佐藤惣太夫は、因幡東照宮が勧請された時に「獅子頭役」を仰せつかり、以後十一代善吉まで代々この御用を務めた。つまり、池田光仲は因幡東照宮の祭礼に獅子をもって奉仕する「獅子庄屋」を佐藤家に対して任命したということである。なお、佐藤家所蔵の文書の中には先祖の名を「惣太夫」ではなく「九太夫」としているものもある。
(3)
『鳥取藩史』所収の、鳥取で初めて行われた東照宮祭礼(承応元〈1652〉年9月)の行列についての史料では、「奉行人之覚」のなかに「一、獅子頭 佐藤惣太夫」とあり、佐藤家文書の記述に符合する。

 それでは、鳥取藩側の記録では、獅子庄屋はどのような形で現れるのでしょうか。幕末の嘉永4(1851)年、鳥取の町政をつかさどった町奉行の業務日記「町奉行日記」には、上町の「御獅子庄屋」の元結屋善吉が、東照宮祭礼が始まった当初に獅子庄屋を務めた先祖と同様の格にしてほしい旨を願い出た文書が書き留められています(注5)。この史料はいろいろと興味深い事柄を含みますが、ここでは次の5点に注目したいと思います。


(A)
御宮(因幡東照宮)の獅子庄屋は、御勧請の時(因幡東照宮が勧請された慶安3〈1650〉年)に元結屋善吉の先祖の惣太夫に仰せ付けられ、初めての東照宮祭礼(承応元年の祭礼)の際に務めた。
(B)
惣太夫は苗字御免となり、佐藤惣太夫と名乗った。
(C)
嘉永4年当時の十一代善吉まで代々祭礼の際の御用を務めた。
(D)
東照宮祭礼前には門人を集めて稽古をさせている。
(E)
町奉行は「以前の事は分からないけれども、旧来獅子庄屋を務めているので、願書の内容を評議するよう家老に申し上げる」とした。

以上の(A)から(D)はこれまでの研究で明らかにされてきたとおりですが、(E)で町奉行が「以前の事は分からないけれども」としているように、元結屋が主張する由緒、特に(A)、(B)には裏付けとなる記録が見当たらないようです。少なくともこの史料からは、嘉永4(1851)年までの数年間は、上町の元結屋が東照宮祭礼において獅子頭を操り、指導をする「御獅子庄屋」であったことが分かると言えるでしょう。

佐藤惣太夫と九太夫

 ところで、野津龍氏もその著書で指摘されているとおり、佐藤家文書には先祖の名を「惣太夫」ではなく「九太夫」としている史料があるようです。鳥取藩側にも、先に挙げた嘉永4(1851)年の3年前、嘉永元(1848)年5月に元結屋から出された文書が残っており(注6)、そこでは「惣太夫」ではなく「九太夫」となっています。全体の内容は前掲のものとほぼ同じです。この「佐藤惣太夫」と「九太夫」は、元結屋とどのような関係があるのでしょうか。

 佐藤惣太夫について、鳥取藩側に残る家譜「佐藤忠則家譜」(明治2〈1869〉年)によると、「佐藤庄助家」の初代は「佐藤惣太夫」という人物で、寛永10(1633)年に召し出され、承応3(1654)年7月に病死したと書かれています(注7)。その後、吉左衛門という人物が惣太夫の跡を継いでいます。

 先述のとおり、承応元(1652)年9月の東照宮祭礼において、「獅子頭」の「奉行人」を務めた人物として「佐藤惣太夫」の名が出ていることが野津龍氏によって指摘されています。この獅子頭の奉行人は鳥取藩士佐藤庄助の先祖であると考えられます。

 一方、「九太夫」という町人についても、鳥取藩の記録に興味深い記事が残っています。その内容は、鳥取の知頭口と古海口との間で新しく町になった所に、「獅子舞 九太夫」という家が入ることになったというものです(注8)。これは承応4(1655)年の記事ですので、東照宮祭礼が初めて行われた承応元年からそれほど離れていない時期になります。この史料では「獅子舞 九太夫」は知頭口と古海口の間、本寺町あたり(現在の鳥取市南町付近)におり、元結屋の居住地である上町とは異なるものの、「獅子舞 九太夫」が「獅子庄屋」の元結屋善吉の先祖である可能性があります。

獅子庄屋と獅子奉行

 もう一点、元結屋と「惣太夫」、「九太夫」との関係を探る上で鍵となるのが、「獅子奉行」の存在です。佐藤惣太夫が承応元年の東照宮祭礼行列において務めていたのは「獅子頭」の「奉行人」ですが、後の年代の鳥取藩の記録にも「獅子奉行」が現れます。例えば、先に挙げた元結屋の願書が提出された嘉永年間には、近藤政右衛門という人物が「獅子奉行」を務めています(注9)。「獅子庄屋」と「獅子奉行」は併存しているのです。「獅子奉行」は、江戸中期においては様々な苗字の人物が務めていますが、天保年間以降は近藤氏が代々務めていることが「町奉行日記」から確認できます。この近藤家がどのような家であったかは、今のところ不明です。ちなみに、「奉行」といっても町奉行のように格の高い職というわけではなく、単に祭礼行列の際の獅子の担当者を指すと考えられます。

 ここまで見てきたことをまとめると、東照宮祭礼が始まった承応年間には、獅子頭の奉行人を務めた佐藤惣太夫と、獅子舞の九太夫がおり、幕末の嘉永年間には祭礼行列の際の獅子担当者である獅子奉行(近藤家)と、獅子頭を操ったり稽古を行う獅子庄屋(元結屋善吉)が併存していたということになります。元結屋が提出した嘉永元(1848)年の文書では先祖の名を「九太夫」とし、その後嘉永4(1851)年の文書では「惣太夫」としていますが、祭礼の際の役割から言えば、獅子庄屋・元結屋は獅子舞・九太夫に連なるものと考えられます。

おわりに

 ここまで、江戸時代の因幡東照宮祭礼における獅子庄屋について、些細ではありますが、分かったことをまとめてみました。獅子庄屋や獅子舞の実態、初代藩主池田光仲と獅子舞との関係、獅子頭の製作、獅子舞の伝播の過程など、江戸時代の麒麟獅子についてはまだまだ分からない部分が多く残されています。今後の課題としたいと思います。


(注1)第一法規出版、1993年。

(注2)会期:2014年6月7日(土)~7月6日(日)。

(注3)吉村無骨※「鳥取の獅子舞後記」(『民俗芸術』第1巻9号、1928年9月)、田中新次郎「因幡伯耆の獅子舞」(『季刊山陰民俗』第21号、1961年)、山路興造『獅子の系譜 鹿踊と獅子舞』(1977年国立劇場第25回民俗芸能公演パンフレット、注1前掲野津著書引用部分を参照)、注1前掲野津龍著書。
※吉村無骨(よしむらぶこつ、1885~1945):鳥取市出身の文学者。鳥取市会議員、因伯時報社の営業部長もつとめ、『鳥取県再置秘史』を著した。なお、通常は吉村「撫骨」と表記されるが、「鳥取の獅子舞後記」での表記は吉村「無骨」となっているため、本稿においても「無骨」の表記を採用した。

(注4)(1)は注3前掲吉村、田中、山路論文、(2)(3)は注1前掲野津著書よりまとめた。

(注5)鳥取県立博物館蔵・鳥取藩政資料「町奉行御用日記」嘉永4年12月21日条。

(注6)「町奉行御用日記」嘉永元年5月19日条、鳥取県立博物館蔵・鳥取藩政資料「町年寄御用日記」嘉永元年5月18日条。

(注7)鳥取県立博物館蔵・鳥取藩政資料「佐藤忠則家譜」。

(注8)鳥取県立博物館蔵・鳥取藩政資料「家老日記」承応4年10月23日条挟込紙、承応4年11月4日条。

(注9)「町奉行日記」嘉永5年9月10日条。毎年おおむね9月10日前後にその年の祭礼の獅子奉行が定められている。「獅子奉行」の語は「家老日記」宝永5(1708)年9月10日条が初出である。

(渡邉仁美)

      「県史だより」100回を迎えました!

      現在までの「県史だより」全タイトルの一覧です。この機会に読み直してみてはいかがでしょうか?

      活動日誌:2014(平成26)年7月

      3日
      資料調査(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
      5日
      県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(鳥取県立博物館、渡邉)。
      6日
      県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
      8日
      資料調査及び協議(埋蔵文化財センター秋里分室、樫村)。
      16日
      出前講座(鹿野町中央公民館、岡村)。
      17日
      中世史料調査(徳島市立木工会館、岡村)。
      民具調査(太一車)(倉吉博物館、樫村)。
      18日
      第1回近代現代合同部会(公文書館会議室)。
      19日
      資料調査(現代部会)(鳥取県立博物館、前田)。
      24日
      民具調査(砂丘地農具・千歯扱き)(鳥取大学乾燥地研究センター・八頭町下野、樫村)。
      編さん委員会にかかる打合せ(鳥取大学、岡村)。
      28日
      新鳥取県史編さん委員会(公文書館会議室)。
      31日
      民具・民俗調査(精霊船)(鳥取市用瀬町郷土資料館他)。

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      「第101回県史だより」詳細を見る

        

      編集後記

       2006(平成18)年4月から始まった「県史だより」も、今回で100号の節目を迎えました。県史編さん事業の最新の成果や、鳥取県の歴史・民俗に関する身近なトピックを県民の皆様にわかりやすくお届けしようと始まったこの企画ですが、お陰様で毎月多くの方に読んでいただき、さまざまな反響をお寄せいただいております。改めて感謝の念に堪えません。

       今回は江戸時代の麒麟獅子舞を担った「獅子庄屋」に関する記事と、これまでの「県史だより」のタイトル一覧を掲載しています。この機会に過去の「県史だより」も読み直していただけると幸甚です。

       まだまだ通過点ですが、この「県史だより」が地域の豊かな歴史や文化を見つめ直すきっかけになることを願いつつ、これからも魅力的な記事をお届けできるよう、編さん室一同頑張っていきたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

      (県史編さん室長 岡村)

        

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