第80回県史だより

目次

江戸時代の日食

はじめに

 今年もあと数日となりました。今年の大きなニュースの一つに、金環日食がありました。残念ながら鳥取県内ではリング状にはなりませんでしたが、日食の様子を御覧になった方も多いと思います。今回は、日食が江戸時代の鳥取の記録にどのように記されたか御紹介します。

「因府歴年大雑集」にみる日食

 鳥取藩士で歴史家でもあった岡嶋正義(おかじままさよし:1784~1858)が鳥取で起こった様々な出来事を記した「因府歴年大雑集」という文献があります。この資料には、享保15(1730)年6月1日に見られた金環日食についての記述があります。少し長文になりますが、引用します(注1)

六月朔日、或家に此日の日蝕を委敷(くわしく)記したる私筆伝れり、その大梗(たいこう)を挙(あぐ)るに、水に移して考見れバ、日輪の側より上の方に黒色なる物の覆ひ来れるに、外の方へは何も見えず、此日の蝕、歩(ぶ)ニしてその甚敷(はなはだしき)時に至テハ(金環日食の状態を描いた略図)此如(かくのごとく)に見ゆ、是を見て考るに、始ニハ如此(太陽の右下が欠けている略図)黒色なるものかゝり来れハ、a日輪の面に丸き物を覆ふに似たり、扨(さて)終に至ては件の黒色なるもの(太陽の左上が欠けている略図)左ノ方へ出去候也、b又蝕の最中にはその色日光透通れるが如くニ相見え、恰(あた)かも膏薬(こうやく)を塗たる様ニ見ゆる也、常に日輪をバ仰き見難きに、蝕の時には更に其煩ひハ無りし候共、c水に移して見る事は古来よりの戒(いましめ)なれバしるせる事なり

 

 この記事では、太陽を直接みるのではなく、水に映して観察しています。その様子を、「日輪の面に丸い物を覆うようであった」、「日食の最中にはその色は日光が透き通るように見え、あたかも膏薬を塗ったように見えた」(下線部ab)と、詳細に描写しています。また「(太陽を直視するのではなく、)水に映して見る事は古来よりの戒めである」(下線部c)と、日食を見る時の注意事項まで書かれています(注2)

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写真1 「因府歴年大雑集」(鳥取県立博物館蔵)

鳥取藩「控帳」にみる日食

 鳥取藩には藩政全般を指揮した家老という職がありましたが、その職務日誌「控帳」にも、日食の記事が見られます。ただし、「因府歴年大雑集」のように日食の様子が描写されているわけではありません。その内容を見てみましょう(注3)

同日(天明4年6月29日)

一来月朔日、日蝕につき、式日の御礼 御延引なされる旨仰せ出(いだ)され、その段例罷(まか)り出候面々へ、仲ヶ間申し通しに申渡す。

朔日(天明4年7月1日)

一日蝕につき、当日 御礼御延引なされ候事。

 鳥取城では、正月を除く毎月1日および15日に、「式日御礼」または「朔望(さくぼう)御礼」として、家臣が登城して藩主に御礼をするという行事が行われていました(注4)。ところが、天明4(1784)年7月1日は日食となるため式日の御礼が延期になるという連絡が、登城予定だった家臣の間に廻っています。この日だけではなく、明和5(1768)年12月1日、安永2(1773)年3月1日、安永4(1775)年8月1日、天明6(1786)年1月1日、寛政6(1794)年12月1日、文化11(1814)年6月1日、文政12(1829)年9月1日等にも同様に、日食を理由に行事を延期したり中止する記事が見られます(注5)。中世には、日食や月食の際に天皇や将軍をその妖光から守るために御所を<裹む(つつむ)>ことが行われていたということですが(注6)、近世の鳥取城でも、<裹む>ことはしないまでも、日食の際に行事を回避している事例として興味深い内容です(注7)

暦と日食

 「因府歴年大雑集」、「控帳」の日食の事例は、いずれも月の初め(1日)のものとなっています。これは偶然ではなく、当時の暦(こよみ)の特徴から来るものです。

 江戸時代に使われていた暦は、一般に旧暦と言われるもので、月の満ち欠けの周期を基準にしていました。毎月1日は「朔日」ともいい、月が朔となる日、つまり新月となる日が一ヶ月の始まりの日となりました。月が地球と太陽の間に入り、太陽が月に覆われるように見える現象が日食ですから、旧暦では、日食は必ず月の初めに起こることになります。

 ところで、「控帳」の記事では、日食が起こる日の前々日に連絡が廻っています。当時の人々は、どのようにして日食が起こる日を知ったのでしょうか。

 当時、暦は出版され、各地に頒布されていました。頒布された暦には、干支(えと)、月の大小(当時は一ヶ月に30日あるのが大の月、29日あるのが小の月で、一ヶ月の日数は決まっていませんでした)、立春や夏至などの二十四節季などに加え、日食や月食が起こる日時も掲載されていました。このような暦により、日食の起こる日時が広く知られることになったようです。

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写真2 天明六年伊勢暦(鳥取県立図書館蔵)

 赤丸部分に「日そく皆既」とあり、その下に食の始めと終わりの時刻・方角が書かれています。

おわりに

 このように江戸時代の鳥取の人々が、水に映して日食の様子を観察したり、行事を延期するなど、日食という天文現象に対して関心を持ち、対応していたことが分かります。

 主に米(=農作物)を年貢として納めていたこの時代、暦や自然事象に対する人々の関心の高さが伺えるのではないでしょうか。

(注1)「因府歴年大雑集」第五巻(鳥取県立博物館蔵)。本文に「或家に此日の日蝕を委敷(くわしく)記したる私筆伝れり」とあるとおり、岡嶋の生まれる前に起こったこの金環日食については、ある家に伝わった記録を見て書かれているもので、岡嶋が実際に体験したことではない。

(注2)貞享5(1688)年の仮名暦には板に穴をあけて日光を投影させる観察方法が紹介されている(渡辺敏夫『近世日本天文学史』下、恒星社、1987年)。

(注3)「控帳」天明4年6月29日条、7月1日条(鳥取県立博物館蔵)。この部分を本文では書き下し文にした。

(注4)『鳥取藩史』第3巻(鳥取県立鳥取図書館、1970年)435頁。

(注5)「因府歴年大雑集」にも紹介されていた享保15年6月1日には、式日御礼は中止となっていない。なお、鳥取藩における日食による行事延期の事例としては、「控帳」では明和5年(1768)12月1日、「因府年表」では明和4年(1767)1月1日が最も古い。

(注6)黒田日出男「こもる・つつむ・かくす」(同『王の身体 王の肖像』、筑摩書房、2009年、初版1993年、初出1987年)。「御所を<裹む>」とは御殿を筵(むしろ)で包むこと。

(注7)「控帳」には、月食のため行事等が延期されているという記事はみられない。

(渡邉仁美)

活動日誌:2012(平成24)年11月

1日
中世史料翻刻文の校訂(~2日、東京大学史料編纂所、岡村)。
資料調査(境港市史編さん室、清水・岡)。
2日
遺物借用(鳥取市用瀬町歴史民俗資料館、湯村)。
史料借用(南部町、渡邉)。
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
7日
県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
8日
資料調査(むきばんだ史跡公園、湯村)。
資料調査(境港市史編さん室、清水・岡)。
12日
史料調査(日野町公民館、渡邉)。
15日
16日
資料調査(境港市史編さん室、清水・岡)。
19日
県史編さんに係る協議(鳥取県埋蔵文化財センター、湯村)。
20日
資料(倉吉千刃)調査(倉吉市、樫村)。
史料調査(大山町下市公民館、渡邉)。
26日
鉄器X線撮影(鳥取県産業技術センター、湯村)。
27日
史料調査(日南町郷土資料館、渡邉)。
28日
遺物借用(県立博物館、湯村)。
29日
中世史料調査(~30日、島根県古代出雲歴史博物館・島根県古代文化センター、岡村)。
30日
遺物返却及び借用(米子市埋蔵文化財センター、湯村)。
資料(倉吉千刃)調査(日南町郷土資料館・日野高校黒坂施設、樫村)。

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編集後記

 今年5月21日の金環日食が話題になりました。しかし観察した後、目に異常を感じて眼科で受診した人が約千人、うち80人が目に異常があったとの中間報告を日本眼科学会が公表したそうです(産経ニュース、2012年8月25日)。今回の記事では、江戸時代、古来より目を痛めないために水にうつす方法がとられていたことがわかります。水にうつすといってもそれを直接見れば目を痛めるので、おそらくは現代でも行われる観察法ですが、桶に水を汲み水鏡とし、日陰の壁に投影して観察したのではないかと思われます。日食観察用グラスまである今日ですが、今回紹介した史料は、江戸時代の人々も日食という自然事象に関心を持ち、日常生活用具のみで立派に観察記録していることがわかる貴重な史料の一つといえます。

(樫村)

  

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