はじめにー大山寺の鉄製厨子―
中国地方最高峰の大山は、今年開山1300年を迎えました。現在、官民一体となって、大山の信仰や歴史などさまざまな魅力を再認識しようという取り組みが精力的に進められています。
大山の中腹にある大山寺には歴史的にも宗教的にも貴重な宝物が数多く所蔵されています。その1つに鉄製厨子(ずし)があります。厨子とは仏像や仏舎利、経典等を納めた小堂型の仏具のことを指します。これは承安2年(1172)に西伯耆の有力武士である紀成盛(きのなりもり)が大山寺に寄進したもので、3枚の銘板とともに、国の重要文化財に指定されています(注1)。
厨子は高さ72.7cm(うち胴部は58.2cm)、直径41cmで円筒形をしており、胴部の側面には当初4枚の銘板が取り付けられていたと考えられています。しかし長い歴史の中で何度も火災に見舞われ、銘板1枚は焼失し(注2)、残る3枚も大きく変形しています。
この銘板には、寄進に至る以下のような経緯が記されています。
承安元年(1171)、大山寺は火災に見舞われ、「御宝殿」と「御正体」が焼失しました。そのため紀成盛が再興に乗り出し、翌2年7月に宝殿が完成し、11月には延暦寺の西上という僧によって、3尺の金銅地蔵菩薩像が鋳造されて鉄製厨子に納められました。翌3年には基好上人が中心となって遷宮祭が行われています。
平安末期の大山寺の歴史を語る史料は少なく、何度も火災に見舞われながらも守り継がれてきたこの鉄製厨子と銘板は、大山寺の歴史を知る上で極めて重要な史料といえるでしょう。
大山寺所蔵鉄製厨子(重要文化財)(写真提供:鳥取県立博物館)
鉄製厨子の銘文に含まれる謎
ところで、この鉄製厨子の銘文には、ある1つの謎が含まれています。
それは、厨子に納められた地蔵菩薩像の高さが「三尺」(約90cm)と記されていることです。当初の姿がどのようであったかは不明ですが、3尺であれば立像であった可能性もあるでしょう。しかし、現在の鉄製厨子は胴部の高さが58.2cmしかありません。そのため、3尺の仏像では厨子に納まらないことになります。
この点については、どのように考えたらいいのでしょうか。
大山寺の歴史を詳細に調べた沼田頼輔氏は、鉄製厨子の銘文について「大山権現ノ御体一尺金銅地蔵尊容一躯」と読み、地蔵菩薩像の大きさが1尺(約31cm)であったと解釈しています(注3)。確かに1尺の大きさであれば、現存する鉄製厨子に納めることができます。
しかし、X線による科学分析によれば、この銘板に記された文字は明らかに「三尺」と読むことができます(注4)。当初の地蔵菩薩像の高さはやはり3尺であったと考えるのが適当であると思われます。
この鉄製厨子と地蔵菩薩像の関係について、近年、佐伯純也氏は興味深い研究成果を発表しています(注5)。厨子に残された孔の数や位置を詳細に調べた佐伯氏は、4枚の銘板を取り付けた孔以外に最下部にも孔が開けられていることを確認し、紀成盛が寄進した当初、この厨子は「二段構造」であり、上下に2枚ずつ銘板が取り付けられていたのではないかという仮説を提唱しています。そして、天文23年(1554)の火災によって下段が失われ、現在のような一段構造になったのではないかと推測しています。
鉄製厨子が二段構造であれば、胴部の高さは約110cmとなり、3尺の仏像を納めることが可能となります。詳細な実測調査に基づく佐伯氏の説は極めて説得力に富むものといえるでしょう。
鉄製厨子と銘板の変遷図(佐伯氏注5論文より引用、一部改変)
戦国武将の大山寺造営と鉄製厨子
天文23年3月24日の夜、大山寺は大規模な火災に見舞われ、本社(大智明権現社)をはじめ近隣の房舎が焼失しました(注6)。
後掲の史料に「金銅の地蔵尊また独り存すること能わず」とあることから、佐伯氏が指摘するように、このときの火災で鉄製厨子と地蔵菩薩像も焼損あるいは焼失したものと考えられます。しかし、大きく焼損しながらも、鉄製厨子は大山寺の宝物としてその後も大切に守られ続けてきました。
では、中に納められていた地蔵菩薩像は、その後どうなったのでしょうか。
「第132回県史だより」でも取り上げましたが、この火災の後、いち早く大山寺の再興を図ったのは当時伯耆守護であった尼子晴久でした。晴久は1ヶ月後には大山寺の再建にとりかかり、建造物や仏像を次々と造営しています。しかし、このときの晴久の再興事業の中に、鉄製厨子と地蔵菩薩像は全く登場しません。
その後、この地蔵菩薩像の再興に取り組んだのは毛利輝元でした。天正10年(1582)の棟札写には、輝元が取り組んだ大山寺造営に関する10項目の重点事業が記されています(注7)。その中に「御宝殿秘仏鉄製厨子内の金銅尊容の鋳造」が挙げられています。当時、鉄製厨子に納められた地蔵菩薩像は「秘仏」と呼ばれていたことがわかります。
また、後掲の史料にも、毛利輝元が天正10年に職人に命じて地蔵菩薩を鋳造し、それを鉄製厨子に納めて本社内に安置したという内容が記されています。鉄製厨子内の地蔵菩薩像は、天文23年の火災から28年後の天正10年に毛利輝元によって再興されたと考えられます。
毛利輝元による地蔵菩薩像の鋳造
では、毛利輝元が再興した地蔵菩薩像はどのような姿だったのでしょうか。
これについて、大山寺洞明院が所蔵する「諸堂舎棟札写」には、以下のような興味深い史料が掲載されています(史料は読み下し)。
本社金銅の中に入る写
時に天文廿三[甲寅]三月廿四日時哉、大殿及び権現本地尊像まで一時に灰燼に成る。金銅の地蔵尊また独り存すること能わず。火焔の為に悉く廃損す。是より三十箇年の後、天正十[壬午]毛利輝元中国を守る時、回廊を重興し、次いで冶工をして金銅之地蔵を鋳せしめ、以って鉄筒に納め、これを社内に安(置)す。
而して二百十五年を経て、寛政八年[丙辰]三月廿四日の暁、天災なお昔時の如し。因って先蹤を継ぎ、また冶工に命じて此像を鋳せしめ、以って鉄筒に蔵し、これを本殿に安(置)す。威容端厳にして最も重し。長け尺六寸、合掌・趺座を為す。称して金銅尊体と謂う。永世の為に今以って不文之を記す。
文化三[丙寅]三月日
別当経悟院法印良諄 執行清光院法印恵覚 院主法蓮院栄諄
これは文化3年(1806)に大山寺の三院(中門院・南光院・西明院)の代表者が連名で作成した文書です。「本社金銅の中に入る写」とあることから、地蔵菩薩像の中に納められたいわゆる胎内文書の写しであると考えられます。管見の範囲では、これまで全く紹介されたことのない史料です。
前半部分には、天文23年3月24日の火災で地蔵菩薩像が焼損したこと、それを天正10年に毛利輝元が職人に命じて鋳造し、「鉄筒」(鉄製厨子)に納めて本社内に安置したことが記されています。
注目したいのは後半部分です。この記載によれば、寛政8年(1796)3月にも大山寺は火災に見舞われ、鉄製厨子内の地蔵菩薩像が焼失しました。そのため文化3年に大山寺三院が職人に命じて鋳造させ、再び鉄製厨子に納めて本殿に安置しています。このとき鋳造した地蔵菩薩像は、「長け尺六寸、合掌・趺座を為す」とあることから、高さが1尺6寸(約49cm)で、合掌した姿であり、「趺坐」とあることから、坐像(ざぞう)であったことがわかります。
特筆すべきは、「因って先蹤を継ぎ」とあるように、文化3年の事業が毛利輝元の時代の事業に倣(なら)って行われているということです。推測の域を出るものではありませんが、この記述をふまえるならば、輝元が鋳造した地蔵菩薩像も1尺6寸の大きさで合掌姿の坐像であった可能性が高いと考えられます。1尺6寸の高さの坐像であれば、現存する鉄製厨子に納めることができます。
つまり、以下のような仮説が浮かび上がってきます。戦国時代、当初2段構造であった鉄製厨子は火災に見舞われ一部が焼失しました。毛利輝元は焼損しながらも大切に受け継がれてきた鉄製厨子に納めるため、残った厨子の大きさに合わせて、高さ1尺6寸の坐像を新たに鋳造したのではないかと考えられます。
おわりに
今回は近年の研究成果に学びつつ、大山寺が所蔵する鉄製厨子の謎に迫るとともに、これまで言及されたことのなかった毛利輝元による地蔵菩薩像の再興について、1つの仮説を提示しました。最後に、今回述べた内容を整理しておきたいと思います。
承安2年(1172)に紀成盛が大山寺に奉納した鉄製厨子は、当初2段構造であった可能性が高く、内部には3尺の高さの金銅地蔵菩薩像が納められていました。
しかし、天文23年(1554)の火災で鉄製厨子と地蔵菩薩像は火中し、2段構造であった鉄製厨子は焼損して現在の1段の大きさになりました。その後、約30年間、鉄製厨子と地蔵菩薩像は再興されることのないまま、大山寺の「秘仏」として宝殿に安置されてきました。
その「秘仏」である地蔵菩薩像の再興を図ったのは毛利輝元でした。天正10年(1582)、輝元は残された鉄製厨子の大きさに合わせて地蔵菩薩像を鋳造して厨子に納めました。このときの仏像は高さが1尺6寸で、合掌姿であり坐像であったと考えられます。この輝元時代の仏像の姿は文化3年(1806)の再興事業にも受け継がれていきました。
検討すべき点は多く残されていますが、このように考えると、大山寺の鉄製厨子と地蔵菩薩像は戦国末期の尼子・毛利の時代にその姿を大きく変えた可能性が高いと考えられます。
中世の大山寺については、まだ多くの謎が残されています。開山1300年を迎えた節目の今年、改めて大山の知られざる歴史に目を向けてみたいと思います。
(注1)明治37年指定。指定対象「鉄製厨子附祈願文鏤刻ノ鉄板三枚、鉄造地蔵菩薩ノ頭部」。
(注2)天文23年(1554)、寛政8年(1796)、昭和13年(1938)に火災に見舞われ、寛政の火災で銘板1枚が焼失したとされる。
(注3)沼田頼輔氏『大山雑考』稲葉書房、1961年。
(注4)西山要一氏「伯州大山寺蔵厨子銘板の科学分析による製作技法の研究」(奈良大学『文化財学報』39-52、1986年)。なお、『岸本町誌』(1983年)や『新修米子市史第7巻資料編 原始・古代・中世』(1999年)は「二尺」としているが、本稿では銘文の解釈は西山氏の見解に従う。
(注5)佐伯純也氏「伯耆大山寺鉄製厨子に関する基礎的考察」(『郵政考古紀要』60号、2014年)。
(注6)『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』112頁。
(注7)『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』116~118頁。
(岡村吉彦)
1日
泊漁業資料調査(湯梨浜町泊歴史民俗資料館等、樫村)。
2日
平成30年度第1回現代部会(公文書館会議室)。
9日
資料調査(鳥取市用瀬郷土資料館、東方)。
10日
考古部会事業の打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・東方)。
資料調査(公文書館会議室、西村)。
11日
資料返却、資料調査等(県立博物館他、東方)。
12日
14日
古墳測量に係る打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・東方)。
16日
資料調査(鳥取市津ノ井小学校、東方)。
智頭林業関係資料調査(智頭町山形地区振興協議会、樫村)。
18日
21日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
23日
資料借用(鳥取市用瀬郷土資料館、東方)。
26日
やまびこ館普及事業(やまびこ館、西村)。
資料調査(公文書館会議室、西村)。
29日
資料調査(公文書館会議室、西村)。
31日
青銅器調査研究にかかる協議(奈良文化財研究所(奈良市佐紀町)、東方)。
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