第152回県史だより

目次

古代中世の伯耆国と鉄―安綱を生み出した地域性―(下)

伯耆国内の鉄生産について

 前回見てきたように、古代中世を通じて、多くの鉄や鉄製品が伯耆国の特産品として中央へ運ばれていました。

 では、これら中央へ進上された鉄や鉄製品はどのように生み出されたのでしょうか。ここでは伯耆国内における古代中世の製鉄・鍛冶遺跡や鋳物師(いもじ)についてみていきたいと思います。

(1)伯耆国内の製鉄・鍛冶遺跡

 表1は伯耆国内の主な製鉄・鍛冶遺跡をまとめたものです(注1)

 これによると、東部では倉吉市関金町の小鴨川上流域に所在する勝負谷遺跡で8世紀後半の製鉄跡が見つかっているほか、矢送(やおくり)川の上流域に位置する大河原遺跡でも中世の製鉄跡や戦国期の精錬鍛冶炉跡が確認されています。このほかにも矢送川の支流域には多くの鉄関連遺跡が確認できます。前回述べたように、小鴨川・矢送川の合流地域には、長講堂領である矢送荘があり、中世においては毎年1万廷の鉄年貢が賦課されていました。このことから、小鴨川上流域と矢送川流域は伯耆国内でも有数の鉄の生産地であったと考えられます。

 中部では大山町内の下市築地ノ峯東通第2遺跡や大山山麓の上寺谷遺跡で古代の製鉄炉が確認されています。また、赤坂小丸山遺跡でも10~13世紀の箱形の製鉄炉が見つかっており、約3mの地下構造のほか、炉に使用する粘土を採掘した跡なども確認されています。このほか、鍛冶遺跡としては琴浦町の中道東山遺跡・梅田萱峯遺跡・南原千軒遺跡などで古代中世の鍛冶工房や鍛冶炉が見つかっています。地域的にみると、製鉄遺跡は汗入郡に多く、鍛冶遺跡は八橋郡に多いという特徴が窺えます。

 西部では、製鉄遺跡として法勝寺川中流域のモクロウジ﨏遺跡(南部町)で平安時代の製鉄炉が見つかっています。また鍛冶遺跡として、日野川に近い坂長第6遺跡(伯耆町)で大型建物群の背後に鍛冶工房跡が見つかっており、大量の鍛冶関連遺物が出土していることから、これは会見郡衙に付属する鍛冶工房であると考えられています。このほか、米子平野の中海に面した陰田遺跡群で精錬の際に出る鉄滓(てっさい)が多く出土しているほか、霞要害跡(日南町)でも室町時代の梵鐘鋳造遺構が見つかっています。

遺跡名

所在地

旧郡

時代・時期

種類

勝負谷遺跡 倉吉市 久米 奈良 製鉄
大河原遺跡 倉吉市 久米 中世末~江戸初 製鉄・鍛冶
中道東山遺跡 琴浦町 八橋 9世紀 鍛冶
梅田萱峯遺跡 琴浦町 八橋 奈良 鍛冶
南原千軒遺跡 琴浦町 八橋 鎌倉~室町 鍛冶
赤坂小丸山遺跡 大山町 八橋 10~13世紀 製鉄
上寺谷遺跡 大山町 汗入 古墳~奈良 製鉄
下市築地ノ峯東通第2遺跡 大山町 汗入 9世紀後半 製鉄
モクロウジ﨏遺跡 南部町 会見 平安 製鉄
坂長第6遺跡 伯耆町 会見 7~12世紀 鍛冶

表1:伯耆国内の主な製鉄・鍛冶遺跡

(2)鋳物師と鉄鍬

 古代中世の伯耆国における代表的な鉄製品として鍬(くわ)があります。当時の鍬は刃先の丸い「風呂鍬」と呼ばれるもので、木製の本体部分の先にU字型の鉄の刃先を取り付けた形状をしていました。前回述べたように、『延喜式』には伯耆の租税として鉄・鍬があり、『造興福寺記』にも伯耆が備前とともに鍬の「産国」であったと記されています。伯耆国は山陰でも有数の鉄鍬の産地であったと考えられます。

 これらの鍬先は誰がどのように製作していたのでしょうか。

 笹本正治氏によれば、古代中世における鍬先や鋤(すき)先は鋳物師と呼ばれる人々によって鋳造・販売されていたことが指摘されています(注2)。鋳物師とは鉄や銅などの金属を融解し、鋳型に押し流して鋳物を作る職人です。埼玉県坂戸市の金井遺跡からは、鎌倉時代後半~南北朝時代の鋳物師の住居跡や鋳物工場の跡が確認されており、梵鐘・仏具などの銅製品のほか、鉄製の鍋や鍬先の鋳型が見つかっています(注3)。このことから鋳物師たちが銅と鉄の両方を扱い、さまざまな金属製品を作り出していたことがわかります。

 鋳物師たちは各地に拠点を構えて集団で生活していました。伯耆国においては、永禄6年(1563)に長谷山(現在の倉吉市の長谷寺)に寄進された青銅製の鰐口(わにくち)(注4)が小鴨郷の中金屋で鋳造されたことが知られています。金屋という地名は鋳物師などの金物集団が集まり住んだ所であると言われており、このことから、中世の小鴨郷内に金属製品の鋳造に関わる鋳物師集団がいたことがわかります。このほか、琴浦町・伯耆町・大山町・倉吉市(旧関金町)などにも金屋(金谷)という地名が見られます(地図の×印)。これらも鉄生産と関わりが深い地域であったと考えられます。

 このように伯耆国においては、各地の鋳物師たちの手によって中世以前から鍬先が鋳造されていました。伯耆国庁跡からは未使用の鉄製鍬先が5点まとまって見つかっていますが(注5)、これらも国内の生産地で鋳造されたものが国府に運ばれたものと思われます。

伯耆国関係地図
図1:伯耆国関係地図

伯耆国内の地域権力と鉄の関わり

 このように、伯耆国内では、各地で製鉄・鍛冶遺跡が確認されており、考古学的にも鉄との深い関わりが指摘できます。では、伯耆国内の地域権力は鉄とどのように関わってきたのでしょうか。最後にこの点を探ってみたいと思います。

(1)紀成盛(きのなりもり)

 伯耆国大山寺には1基の鉄製厨子があり、国の重要文化財に指定されています。「第146回県史だより」でも紹介しましたが、この鉄製厨子は承安2年(1172)に西伯耆の有力武士紀成盛が寄進したもので、当初は金銅地蔵菩薩像が納められていました。

写真1
写真1:大山寺所蔵鉄製厨子(重要文化財)

 紀成盛は海(あま)氏の一族で、『源平盛衰記』等には「村尾海六成盛」と登場します。紀氏の本拠は米子市の宗像・長者原・上安曇・下安曇あたりと言われていますが(注6)、この地域は日野川と法勝寺川の合流地点に位置し、西伯耆の河川交通・流通の要衝であったと考えられます。また地名からは北九州地方とのつながりも指摘されています。

 鉄との関わりでいえば、この地域は大規模かつ集約的な鉄器生産が行われた会見郡衙に付属する鍛冶工房跡の坂長第6遺跡に隣接しています。また坂長前田遺跡(伯耆町)では鉄製鎧の一部や鉄鏃も出土しています。この坂長地区では成盛長者の伝説もあり、これらのことを勘案するならば、この地域に基盤を持つ有力武士の紀成盛が、会見郡衙やこの地域で営まれる鉄製品の生産・流通に関わっていた可能性は高いと考えられます。紀成盛が大山寺に奉納した厨子が鉄製であったのもこのような鉄と関わりの深い地域性が背景にあったのかも知れません。

(2)藤原泰親(ふじわらのやすちか)

 南部町賀祥地区には3体の鉄製の聖観音立像・十一面観音立像が所蔵されています。全国的には約90体の鉄仏が存在すると言われていますが(注7)、その多くは愛知県以東にみられ、中国地方の鉄仏はこの賀祥地区のものが唯一と言われています。

写真2
写真2:鉄製聖観音像(南部町賀祥地区所蔵)

 光背に記された銘文によれば、これらの鉄仏は元応2年(1320)に藤原泰親が大檀那となって、道覚という鋳工(大工)が製作したことがわかります。

 この藤原泰親は『吾妻鏡』建久元年(1190)11月6日条にみえる「大舎人允藤原泰頼」の子孫であると考えられています。泰頼は伯耆国長田荘の地頭あるいは荘官であった人物です。長田荘は法勝寺川上流域と東長田川・山田谷川の流域一帯に広がる九条家領荘園であり、藤原泰親もこの地域を基盤としていたと考えられます。このことからも西伯耆の有力者と鉄との密接な関わりが窺えます。

(3)小鴨(おがも)氏・南条氏

 東伯耆の有力な地域領主に小鴨氏があります。小鴨氏は久米郡の小鴨郷を基盤としていた一族で、古代においては国衙の役人として、また中世においては守護山名氏の代官(守護代)として活動していました。

 先述したように、小鴨氏の本拠である小鴨郷内には、鋳物師集団が存在していました。一般に鋳物師たちは地域の権力者と結びつきを強め、権力側も鋳物師たちの権益を安堵しつつ利益を得ていました。このことから小鴨郷内の鋳物師集団も有力領主である小鴨氏と日常的に深い関わりがあったと考えられます。

 また、三徳山三仏寺の文殊堂内の内陣須弥(しゅみ)檀の扉には、「金物之檀那南条豊前守 天正八年三月吉祥日」とあり、天正8年(1580)に南条備前守信正が、文殊堂修理の際に金物を寄進したことが記されています(注8)。南条氏は羽衣石城を本拠とする有力領主で、戦国期には小鴨氏と親戚関係にありました。東伯耆の大寺院である三仏寺の修造に南条氏が金物を介して関わっていたことは注目されます。

(4)長(ちょう)氏

 小鴨氏と同じく、東伯耆に勢力を持っていた一族に長氏があります。南北朝期に但馬守護としてみえる長氏の一族であると考えられ、室町期には但馬・伯耆に基盤を持つ室町幕府の将軍直属の奉公衆として史料に登場します(注9)

 この長氏に関しては、室町期の禅僧惟高妙安(いこうみょうあん)の口述をまとめた『玉塵抄(ぎょくじんしょう)』に以下のような記事があります(注10)

モト某伯州ニイタ時ニ、老師(瀑岩等紳)京エ上ラルゝ時、国衆サカイ目マテ送ラレタソ、作州コエニ上ラレタソ、矢送ト云所ノ谷ヲスキテ、ヤカテ作州エ入リ、矢送ノ中ニ長平左衛門ト云人アリ、矢送千石ノ所半分ノ主ナリ、ソノ人モ出テ送ラレタソ、四月ナリ

 これによれば、矢送の地に長平左衞門という人物がおり、1000石の地の半分の領主であると記されています。矢送は矢送荘内の地を指すと思われ、長氏は同荘内に基盤を持つ有力領主であったと考えられます。長氏と鉄の関係を直接示す史料は確認できませんが、先述したように、中世の矢送荘は多くの鉄年貢が賦課されていた地域であり、その荘域内に領地を持つ長氏が、この地域の鉄生産や鉄が介在する流通構造に深く関わっていたであろうことは想像に難くありません。

(5)金持(かもち・かなもち)氏

 このほか、鉄と関わりが深いと考えられる一族に金持氏があります。金持氏は日野川支流の板井原川の中流域を基盤とする一族であり、『愚管抄』には「カナモチ」と登場します。金持という地名は鉄鍛冶に由来するとされ、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「金持二郎」「金持六郎宏親」「金持兵衛」等の名がみえます。この金持宏親について『愚管抄』は「伯耆国守護武士ニテカナモチト云者アリケル」と記し伯耆国の守護としています。

 また、鎌倉末期に後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠もった際、「金持党三百騎」が大山衆徒600人とともに援軍として駆けつけています。このように、中世における金持氏は伯耆国内でも有力な武士勢力であったと考えられます。

おわりに―鉄を通してみた伯耆国の地域性―

 今回は2回に分けて「鉄」をキーワードに古代中世の伯耆国の歴史について概観してみました。

 このように考えると、古代中世の伯耆国が全国有数の鉄や鉄製品の産出国であったことは間違いないと思われます。国内には多くの製鉄・鍛冶遺跡や鋳物師の関連地域があり、これらの地域で生み出された鉄や鍬などの鉄製品は都に運ばれ、朝廷や有力寺社のもとへ届けられていました。当時の伯耆国内には製鉄・鍛冶・鋳物師など鉄に関わるさまざまな人々が生活していたと考えられます。鉄は人々の生業や国内経済を支える重要な産物でした。

 また、中世の地域権力も鉄とさまざまな形で関わっていました。『大山寺縁起』には「当国には村尾・小鴨とて、東を固め西を守る二人の大将あり」と記されていますが(注11)、ここで二大勢力として登場する村尾氏(紀成盛のこと)と小鴨氏は、いずれも鉄生産と関わりの深い地域に基盤を有する領主でした。また長氏・南条氏・金持氏のような守護・守護代クラスの有力武将たちも鉄と大きく関わっていました。伯耆国内の地域権力にとって鉄との関わりは極めて重要な意味を持っていたことが窺えます。

 また、鉄は宗教的な営みにも用いられました。有力者たちは鉄製の仏像や厨子を作り、寺社に奉納し、祈りをささげてきました。鉄は古代中世の人々の生業だけでなく、精神世界をも支えていたと考えられます。その背景にあるものは、伯耆国内で生み出された良質な砂鉄とそれを精製・精錬・加工する秀逸した技術であったと考えられます。

 そのような風土や文化の中で、安綱のような全国に誇る刀剣師が生まれ、「古伯耆物」と呼ばれる優れた刀剣が生み出されていったと考えられます。

 このような伯耆国内の人々と鉄の関わりはその後も継承されていきます。近世においては日野郡を中心とした山間地域で大規模な鉄穴(かんな)流しによる製鉄が行われ、伯耆国内の主要な産業となっていきました。歴史的に培われた加工技術も近世に受け継がれ、「倉吉千歯」などが生み出され、いわば伯耆ブランドとして全国に広まっていきました。

 今なお輝きを放ち続ける伯耆国の鉄。鳥取県の歴史を解き明かす鍵として今一度注目してみる必要がありそうです。

(注1)『新鳥取県史 考古3 飛鳥・奈良時代以降』(鳥取県、2018年。以下『考古3』と略す)、『鳥取県の考古学 第6巻 古代・中世・近世 社会と暮らし』(鳥取県埋蔵文化財センター、2013年。以下『鳥取県の考古学6』と略す)、各種発掘報告書等をもとに作成した。

(注2)笹本正治『日本の中世3 異郷を結ぶ商人と職人』第2章「鋳物師と遍歴―鍬を作った職人」(中央公論新社、2002年)

(注3)埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第146集『金井遺跡B区』財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団 1994年)。笹本前掲(1)参照。

(注4)鰐口とは神社や寺院の堂前に布で編んだ縄とともにつるされた円形の金属製の音具。この鰐口は現在は島根県大田市の清水寺が所蔵する。

(注5)『鳥取県の考古学6』37頁。『新編倉吉市史 第1巻 古代編』(倉吉市、1996年)364頁。『考古3』「伯耆国庁跡」(鳥取県、2018年)256頁には「鉄製鋤先」とあるが、笹本氏によれば鍬先・鋤先・犂(からすき・牛に引かせて耕す道具)先は同じ形体で作り方も同一とされる。

(注6)錦織勤著『鳥取県史ブックレット12 古代中世の因伯の交通』(鳥取県、2013年)

(注7)中野俊雄「日本の鉄仏の成立とその鋳造方法」(『鋳造工学』69、1997年)

(注8)『新鳥取県史資料編 古代中世2 古記録編』(鳥取県、2017年。以下『古記録編』と略す)152頁。

(注9)「康正二年造内裏段銭並国役引付」には「長伊豆守殿 但馬・伯耆段銭」とみえる(『古記録編』541頁)

(注10)『古記録編』926頁

(注11)『古記録編』766頁

(岡村吉彦)

活動日誌:平成30年11月

1日
資料借用・X線撮影(埋蔵文化財センター秋里分室、東方)。
2日
後継事業にかかる教育委員会との協議(岡村)。
6日
出前講座(湯梨浜町泊地区公民館、岡村)。
7日
写真撮影(鳥取県立博物館、八幡)。
8日
全史料協全国大会(~9日、沖縄、館長・西村)。
町誌編さんにかかる聞き取り(日野町、日南町、岡村)。
10日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
13日
町誌編さんにかかる聞き取り(若桜町、岡村)。
14日
資料借用(鳥取大学、東方)。
15日
考古部会(公文書館会議室)。
民俗部会に関する協議(米子市、樫村)。
智頭林業関係資料調査(智頭町、樫村)。
19日
名刀「古伯耆物」日本刀顕彰連合鳥取県担当者会議(米子市、岡村)。
20日
資料返却(米子市埋蔵文化財センター、東方)。
21日
青銅器調査にかかる打合せ(公文書館会議室、岡村・東方)。
23日
資料調査(公文書館会議室、現代部会員・西村)。
25日
歴史地図をめぐる冒険(樗谿グランドアパート、現代部会有志・西村)。
26日
松江市史料編纂課視察(西村・島谷)。
27日
資料調査(~30日、東京国立博物館、髙田部会長、東方)。

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編集後記

 平成最後の年となり、新鳥取県史編さん事業も残すところ約1年になりました。今年度、来年度は資料編刊行の追い込みとなります。

 さて今回も古代中世の伯耆の鉄についてです。新鳥取県史編さん事業では、当初からたたら製鉄による鉄が各分野のテーマの一つとなっていました。その成果は参考文献となっている『新鳥取県史 資料編 古代中世2 古記録編』『新鳥取県史 考古3 飛鳥・奈良時代以降』をはじめ、『新鳥取県史 資料編  近世1 東伯耆』に収められた安田家文書(三朝町穴鴨)などが挙げられます。また民俗分野でも江戸時代のたたらの鉄で製作された倉吉千歯が確認されるなどの成果もあります。今後は、今回の事業によって公開された史(資)料の利活用によって今回の論考のような研究がさらに活発化することを期待しつつ、県史編さん室では作業を進めています。

(樫村)

  

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