弥生時代は我が国に本格的な稲作技術が導入され、金属器の使用も始まった時代ですが、弥生時代の後半(約2000年前から1700年前)には、列島各地に独自の地域文化が顕在化しました。
西日本を例に挙げれば、共同体の祭司儀礼に広形銅矛(ひろがたどうほこ)(注1)を用いた九州北部から四国西部、近畿式銅鐸(きんきしきどうたく)(注2)を用いた近畿地方から四国東部、死者の葬式に際して墳墓上で特殊土器(とくしゅどき)(注3)を用いた岡山県地域(吉備と呼ばれる地域)、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)(注4)という独特な形の墳墓を築いた山陰地方が知られています(図1、写真)。
図1:西日本における祭祀形態の違い
妻木晩田遺跡の四隅突出型墳丘墓
ここでいう山陰地方とは、鳥取県と島根県を指し、東西約300kmに及ぶ東西に広い範囲です。弥生時代後半には四隅突出型墳丘墓が築かれるだけでなく、「山陰系土器」(注5)と呼ばれる土器が使用され、両県はおおむね同じ文化圏であったと考えてよいでしょう。
ところが、それから400年後となる奈良時代の律令制度の下では、石見国(島根県西部)、出雲国(島根県東部)、隠岐国、伯耆国(鳥取県中西部)、因幡国(鳥取県東部)に分けられたように、詳しく見れば山陰地方の中にも地域性が認められます。
弥生時代後期に築かれた四隅突出型墳丘墓は、山陰地方全体に分布しますが、その数は地域によってかなり偏りがあります。下図に示したように島根県東部から鳥取県中部に多いことが分かります。とくに西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん、出雲市)、荒島墳墓群(あらしまふんぼぐん、安来市)では歴代の権力者の墓として代々築かれ、西谷墳墓群では突出部を含めると一辺60mにも及ぶ巨大な墳墓となっています。つまり四隅突出型墳丘墓は出雲の権力者の墓であり、大胆に言えば、それが築かれた鳥取県中西部(伯耆)は「出雲的世界」であったと考えることができます。
図2:四隅突出型墳丘墓の分布
では鳥取県東部はどうだったのでしょうか。この地域にも四隅突出型墳丘墓と思われるものはありますが、異論もあり、基本的には四隅を突出させずに台形に土を盛り上げて作った方形墓が築かれています。このなかには死者を納めた木製の棺を舟底の形に作ったり、葬式の際に使った土器をバラバラに壊して墳墓上に撒く行為が確認された例があります。このような例は京都府北部(丹後)から兵庫県北部(但馬)に多く見られます。また集落遺跡の発掘調査でも丹後または但馬からの移住を示すような事例もあり、これまた大胆に言えば、鳥取県東部(因幡)は「北近畿的世界」であったと考えることができます。
このように弥生時代後半においては、鳥取県の西と東は異なる地域文化を有していたことが分かります。現在、新鳥取県史考古資料編刊行に向けた調査を行っていますが、こうした鳥取県の古代文化をより詳しく掘り下げていきたいと思います。
(注1)青銅製の祭器。もとは武器として朝鮮半島から伝わったものが、列島内で大型化し、祭器に変化しました。
(注2)銅鐸は新段階になると大型化し「見て聞く銅鐸」から「仰ぎ見る銅鐸」へと変化します。このうち東海地方で作られたものを三遠式銅鐸(さんえんしきどうたく)と呼び、近畿地方で作られたものを近畿式銅鐸と呼びます。
(注3)主に吉備地方の墳墓祭祀に使用された土器。大型の壺と、それを乗せる1mを超える筒のような台がセットになります。
(注4)台形に土を盛り上げた墓の四隅を突出させた特殊な形の墳墓。中国山地で発生し、山陰地方の沿岸部に広まり、巨大化、荘厳化しました。
(注5)外に広がりながら上に立ち上がる二重口縁という口の形を持つ壺や甕、鼓形器台(つづみがたきだい、楽器の鼓のような形)、高坏(たかつき、長い脚が付いた皿)、低脚坏(ていきゃくつき、短い脚が付いた皿)で構成されます。
(図1出典)『古代出雲文化展―神々の国 悠久の遺産―』(島根県教育委員会、1997年)挿図48を一部改変。
(写真出典)『妻木晩田遺跡 洞ノ原地区・晩田山古墳群発掘調査報告書』(淀江町教育委員会、2000年)。
(図2出典)『国指定史跡 西谷墳墓群』(出雲市、2006年)6頁下図を一部改変。
(湯村 功)
3日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
6日
7日
8日
11日
資料調査(三朝町穴鴨、坂本)。
14日
弓浜半島のトンド調査委員会(西部総合事務所会議室、樫村)。
16日
民俗調査(~18日、津山市・米子市等、山本委員)。
17日
21日
県史編さんに係る協議(北栄町、岡村)。
24日
25日
28日
29日
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