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目次

江戸時代の出産と鳥取藩

はじめに

 近年、出生率の低下や少子高齢化に大きな関心が集まっていますが、江戸時代の鳥取においても、出産に少なからぬ関心が寄せられていたようです。今回は鳥取藩における出産調査史料を御紹介します。

江戸時代の妊娠・出産調査

 「口会見郡(くちあいみぐん)村々生育取調帳」(文久2年分、以下「取調帳」とする)という史料があります。これは会見郡の大庄屋を務めた舩越(ふなこし)家という家に伝わったもので、現在は米子市立山陰歴史館に所蔵されています。

 舩越家は、この取調帳が作成された時期には中庄屋を務めていたようです。中庄屋とは家数500戸、高5000石に一人の割合で置かれ、大庄屋を補佐した村役人です。

 この「取調帳」は、文久2(1862)年4月から1年間の地域内(現在の日吉津村から米子市東部の17ヶ村)の妊婦の状況を調査したもので、各村からの届出を中庄屋の舩越家がとりまとめ、文久3年4月に大庄屋の山根作兵衛へ提出しました。

 記事の一例を挙げると次のようになっています。


【史料1】(今村・広平女房とよの事例)

 去ル酉十一月廿二日達し

                        広平

 一当時五ヶ月                  女房とよ

     去戌四月十八日出産、男子政太郎、医師須山啓蔵、

     取揚祖母兵右衛門母ふい


 今村(現在の日吉津村今吉)の広平の女房「とよ」が妊娠5ヶ月であることを酉(文久1年)11月22日に届け出た。とよは翌戌年の4月18日に男子政太郎を出産し、その際の医師は須山啓蔵、取揚祖母(後述)は兵右衛門の母ふいであった、ということです。

 史料1の事例では、無事に男の子が生まれていますが、医療技術や食糧事情が現在ほど良い状況ではなかったこの時代、死産や流産、乳児の死亡の事例も数多く掲載されています。


【史料2】(海池(かいけ)村・光右衛門女房くまの事例)

 戌八月廿五日達し

                        光右衛門

 一当時三ヶ月                  女房くま

     戌閏八月廿一日、はしか病相煩い候に付、流産仕り候、

    医師式村安立藤之進殿迎え申し上げ候、右に付庄屋・

    組頭早々罷り出、見改め候処、相違御座なく候に付、

    恐れ乍ら此の段御達し申し上げ候。


 海池村(現在の米子市皆生)の光右衛門の女房「くま」は、文久2年閏8月21日、はしかのため流産し、その際の医師は安立(足立)藤之進であった、また庄屋と組頭が状況確認をし、流産であったことを報告したということです。

 この「取調帳」の事例を一覧表にしたものが次の表1です。妊婦全体で186件、そのうち流産(注1)が27件、死産が16件、乳児の死亡が22件、妊娠中の病死が1件で、無事に育ったのは男子51名、女子48名となっています。全186件から妊娠中の21件を引くと、無事に育った事例は全体の60%に過ぎません。また、この「取調帳」には文久3年3月までの記録しかありませんが、その後1~2歳のうちに亡くなった事例も多かったのではないかと推測されます。

 ちなみに、「取調帳」に掲載されている範囲と現在の行政区域とが重なる日吉津村の平成23年の統計を見てみますと、出生数が37(男13、女24)、死産数が1、乳児(1歳まで)死亡数が0となっています(注2)。表1のうち今吉村、今村、日吉津村の件数は、出生数が29(男14、女15)、死産数が12、乳児死亡が9となります。乳児死亡の調査期間が異なることや、比較期間が短いことなどから単純比較は難しいものの、やはり江戸時代の死産数・乳児死亡数の多さが目立ちます(注3)

表1
表1 文久2年4月~文久3年3月 口会見郡出生状況

医師と取揚祖母

 この「取調帳」から分かる事柄は妊娠・出産の数だけではありません。史料1、2にあるとおり、「取調帳」には、出産にかかわった医師と取揚祖母の名が書かれています。取揚祖母とはいわゆる産婆のことで、「とりあげばば」と呼ばれたようです(注4)

 表2は出産に立ち会った医師と取揚祖母の状況をまとめたものです。

表2
表2 出産時の医師・取揚祖母の状況
※妊娠・出産事例のない今吉村、津末村、上豊田村は省略した。
※医師を2名呼んでいる事例があるため、医師の人数の合計と出産件数は一致しない。
※取揚祖母のうち、親族取揚の数は取揚祖母有の内数。

 まず目を引くのが、医師を呼ばなかった事例が41件、医師名の記載のない事例が20件あるという点です。医師名の記載のない20件のうちには記載漏れもあるかもしれませんが、両者を合算して出産件数全体(全186件から妊娠中の21件を引いた165件)に占める割合をみると約37%となります。一方、取揚祖母名の記載がないのは7件しかありません(約4%)。この7件はすべて流産・死産の事例です。医師を呼ばない出産は珍しくなかったようですが、出産の手伝いに取揚祖母を呼ぶことは一般的であったと言えるでしょう。

 では、どのような医師が出産に立ち会ったのでしょうか。表2にあるように、「取調帳」には主に6名の医師の名が見られます。須山啓蔵、安見洞斎、安部尚斎のように一人で数ヶ村の出産に関わることも多いようです(注5)

 一方、取揚祖母が数ヶ村の出産に立ち会うことは多くありません。今村では、史料1の事例にある「兵右衛門母ふい」という人物が20件中18件、浦木村では「彦右衛門母たき」が6件中6件、車尾村では「和十後家まさ」が27件中23件の出産に関わるなど、村内で決まった人物が取揚祖母となっていますが、日吉津村では22名、東福原村では11名が取揚祖母となっており、村内の特定の人物に取揚祖母を頼んでいた訳ではなかったようです。それぞれの取揚祖母の能力の違いにもよるのかもしれませんが、村ごとに取揚祖母の頼み方に違いがあったと言えそうです。また、西福原村だけ取揚祖母として親族の名が書かれている事例が多いのも興味深いのですが、その理由は分かりません。

「生育取調」の背景

 それでは、このような「生育取調」はなぜ行われたのでしょうか。

 「取調帳」が作成された文久3(1863)年から遡ること約30年、天保7(1836)、翌8年に、鳥取藩領は大きな飢饉と流行病に見舞われました。困窮した農村では堕胎、間引き、捨て子が増加したと言われています(注6)。農村の人口減や農業の担い手の減少は税収の減少にもつながるため、藩の方でも堕胎や間引きに対する統制を行いました。

 その一つが安政4(1857)年2月の「堕胎・圧殺の禁令」、「生育方御仕法」です。その内容は、堕胎を行った夫婦やそれに関わった取揚祖母や医師を罰すること、10人以上の子供を育てている者に褒美を与えること、妊娠・出産があった場合は庄屋まで届け出ること、死骸にて出産あるいは生まれて間もなく亡くなった場合は村役人が死骸を見改めること、などとなっています(注7)

 「取調帳」に医師や取揚祖母の名前が記され、史料2のように村役人が流産であることの確認まで行った背景には、このような社会状況や、藩による管理がありました。

おわりに

 このように、江戸時代の鳥取藩においても、未来の社会を担う子供の出産について為政者が大きな関心を寄せていたことが分かりました。「取調帳」の作成が、藩の意図した堕胎や間引きの抑制にどの程度効果があったかは分かりませんが、残された史料は当時の出産や医療について、様々な情報を提供してくれます。

(注1)「取調帳」に届出られている妊婦は基本的に妊娠四ヶ月以降(届出の平均月は5.2ヶ月)であることから、「取調帳」で「流産」として数えられている事例も、現在の「人口動態調査」などの統計で「死産」と定義される妊娠満12週以降の事例である。

(注2)鳥取県福祉保健部福祉保健課「平成23年人口動態統計」(http://www.pref.tottori.lg.jp/dd.aspx?menuid=69657)より。

(注3)鬼頭宏「宗門改帳と懐妊書上帳―十九世紀北関東農村の乳児死亡―」(速水融編著『近代移行期の人口と歴史』ミネルヴァ書房、2002年)では、近世後期農村の乳児死亡率は出生1000につき188となり、「かつて想像されたほどには乳児死亡率は高くない」と評価されている。なお、「取調帳」の場合、乳児死亡率は1000につき182となるが、「取調帳」では文久2年3月以前に生まれて文久2年4月以降に死亡した乳児(生後1年未満)数や、文久3年4月以降の乳児死亡数が分からないため、単純比較はできない。

(注4)「取揚ばヽ」と書かれている場合がある。

(注5)森納『因伯の医師たち』(大因伯、1979年)、同『続因伯の医師たち』(1985年)によると、須山啓蔵・安見洞斎は産科医であったという。

(注6)森納「鳥取藩内での人口制限と藩の対策」(同『因伯医史雑話』、1985年)

(注7)森注3前掲論文p239、『米子市史』(米子市役所、1942年)p576・577。また天保11(1840)年8月27日には子供の養育の重要性についての達が出されている(「控帳」)。

(渡邉仁美)

資料紹介【第1回】

ソウゴト(村仕事)の記録写真(日野町教育委員会所蔵)

ソウゴトの記録写真 

 かつては地区単位で道路や水田用水路などの修繕管理をおこない、そのいわゆる村仕事を鳥取県内ではソウゴトと呼ぶところが多かったようです。この写真は1965(昭和40)年4月、日野町黒坂で行われた地域住民による道の修繕作業の写真です。当時のソウゴトの写真はまれで貴重な記録資料です。

活動日誌:2013(平成25)年5月

2日
史料調査(鳥取市鹿野町雲龍寺、岡村)。
民具調査に関する協議(北栄町教育委員会、樫村)。
4日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
5日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
8日
史料調査(八頭町観音堂、岡村)。
9日
史料調査および校訂に関する協議(東京大学史編纂所、岡村)。
資料調査(北栄町教育委員会、樫村)。
資料調査(鳥取市議会事務局、清水)。
史料調査(米子工業高等専門学校、渡邉)。
10日
史料調査(学習院大学史料館・東京大学史編纂所、岡村)。
13日
資料調査(日野町、樫村・渡邉)。
14日
資料調査(県立博物館、湯村)。
15日
史料調査(鳥取市立川町大雲院、岡村)。
16日
古墳の現地確認(淀江町内、湯村)。
民具調査(みさき美術館、樫村)。
資料調査(智頭町、前田・清水)。
17日
資料調査(鳥取市議会事務局、清水)。
県史編さんにかかる協議(鳥取大学、岡村)。
20日
史料調査(県立博物館、渡邉)。
新鳥取県史編さん専門部会(公文書館会議室、足田・岡村・渡邉)。
21日
史料検討会(公文書館会議室、渡邉)。
23日
古代中世部会(公文書館会議室、足田・岡村)。
資料調査(智頭町、前田)。
資料調査(日野町、樫村)。
24日
史料調査(三朝町三佛寺、岡村)。
28日
第1回近代部会事前打合せ(鳥取大学、岡村・前田)。
29日
史料調査(米子工業高等専門学校、渡邉)。
30日
民具調査(北栄町歴史民俗資料館、樫村)。
史料調査(米子市立山陰歴史館、渡邉)。
31日
資料調査(鳥取市内、前田・田中)。

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編集後記

 今回の記事は、江戸時代の出産についてです。本文中にあったとおり、江戸末期に無事に育った子どもは全体の60%に過ぎないというのは、現代人の感覚からすると大変厳しい数値です。江戸時代から、お宮参り、食い初め、初節句、七五三など子どもの成長を祝う行事が行われてきましたが、その当時、健やかな育成を神仏に願う気持ちも、節目を迎えた喜びも現代よりももっと切実であったに違いありません。
 ところで今回から、興味深い資料を紹介するコーナーを新設しました。写真、古文書、考古遺物、民具など幅広い資料を紹介していきますので、御期待ください。

(樫村)

  

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