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目次

中世西因幡地域の資源と産業―紙漉きとたたら製鉄を中心に―

はじめに

 前回に引き続き、今回も中世の西因幡地域について取り上げてみたいと思います。

 以前、「第117回県史だより」で、中世の勝部川流域(鳥取市青谷町)について取り上げ、桑・楮(こうぞ)・漆・椿・雁皮(がんぴ)・桐・榧(かや)・柿・栗などの樹木・山草が生育していたこと、これらは衣食住に関わる様々な産業の原材料となり得る植物であり、亀井茲矩がこれらの植物を地域資源として保護しようとしていたことなどを紹介しました。

 慶長年間に亀井茲矩が大坂から鹿野の家臣へ送った書状には、これらの地域資源と人々の生業との関わりを示す記述が多くみられます。ここでは、主に紙漉(す)きとたたら製鉄を中心に、中世の西因幡地域の資源と産業の特質について取り上げてみたいと思います。


(1)紙漉き


  • 小林のところで杉原をすかせるので、杉板で箱を作って廻船で運ぶように(1794号)(注1)
  • 小林が杉原紙と階田紙については多くは漉けないと申している。良い皮の分だけ杉原紙と階田紙に使うように申し付けよ(同)

 慶長2年(1597)3月、大坂滞在中の亀井茲矩は、鹿野の家臣に宛てた書状の中でこのように命じています。この記述から、中世末期の西因幡地域で紙漉きが行われていたことが指摘できます。

 杉原(すぎはら・すいばら)紙・階田(かいた)紙というのは、いずれも楮を原料とし、播磨国内に起源を持つ厚手の和紙を言います。勝部川流域に楮・雁皮など紙の原材料となる植物が生育していたことは既に指摘したとおりですが、西因幡地域で実際に和紙の製造が行われていたことを示す史料としては、これが初見となります(注2)。勝部川が流れる青谷町は現在も因州和紙の産地として知られていますが、その起源は中世まで遡ることがわかります。

 杉原紙・階田紙をはじめ、中世末~近世初頭の西因幡地域ではさまざまな種類の紙が製造されていました。時期はやや下りますが、江戸時代の初期に茲矩の子である亀井政矩(まさのり)が家臣に宛てた書状には「杉原を大かた(型)と小かたに漉かせるように」「白大とりの子(鳥の子紙)を漉かせるように」「いつもより厚く漉かせよ」とあります。また、将軍徳川秀忠が亀井政矩に宛てた書状にも「其国(因幡)の色鳥の子百帖が届いた」と記されています。鳥の子紙とは雁皮を原料にした和紙で、紙の色が鶏卵に似ているところからその名が付いたとされ、古くから高級紙として重宝されてきました(注3)

 これらの和紙がどのような場所でどのように製造されていたのか、残念ながら文献史料から読み解くことはできませんが、「小林のところで杉原をすかせる」「小林が杉原紙と階田紙については多くは漉けないと申している」と茲矩が言っていることから、亀井領においては、小林という人物が紙漉きに関わっていたことがわかります。紙漉きは原料の伐採から製品になるまで、数々の工程を経る必要があります。このことから、当時の西因幡地域には小林のもとに紙漉きに関わる多くの人々がいて、分業しながら和紙を製造していた可能性も考えられます。あるいは小林の関係地に何らかの工房のようなものがあったのかも知れません。

 以上の内容から、中世末~近世初頭の西因幡地域においては、杉原紙・階田紙などの楮紙や雁皮を用いた鳥の子紙など、さまざまな種類・規格の紙が製造され、それは将軍にも献上されていたことがわかります。このことは同時に、製紙に関する豊富な知識と技術を持った人々がこの地域に住んでいたことを示しています。


(2) たたら製鉄


  • この地はがね(鋼)は銀1文目(匁)につき1貫目で売るので、繰り返し鉄を押して、はがねをつくるよう申しつけよ。去年のはがねをまず廻船でこちらまで運ぶこと。(1794号)
  • 鉄ながし(流し)のこと。どれくらい流すことができたか(中略)。流し山のことについては何も知らせがない。(同)
  • くれぐれも、はがねを送ってほしい。鉄も廻船で運んでほしい。(同)
  • 船荷物の書立(リスト)を受け取ったが、はがねが無くて、石割りのノミ先が確保できない。次の船にくろかね(鉄)もはがねもあるだけの量を運ぶように。(1795号)

 これらの記述から、亀井茲矩が家臣に対して鉄の生産と大坂への運上を命じていることがわかります。  

 「繰り返し鉄を押してはがね(鋼)を作るよう」とありますが、「押す」というのは「銑押(ずくおし)」「鉧押(けらおし)」と言うように、たたら操業で用いられる用語であることから(注4)、中世末期の西因幡地域でたたら製鉄が行われていたと推察されます。

 たたら製鉄では、主に「銑鉄(せんてつ)(銑)(ずく)」「歩鉧(ぶけら)」「鋼(はがね)」の三種が生産され、このうち「銑鉄」は溶けやすいため、鋳型に流し込んで鍋などを作る鋳造用、「鋼」は鍛えて刃物や刃先を作る鍛造用として用いられました。また、「歩鉧」は不純物を多く含むため、炭素を含んだ銑鉄とともに精錬されて不純物や炭素を除去した後、鋼と同じように刃物等の鍛造に用いられたと考えられています(注5)。「繰り返し鉄を押してはがねを作る」という記述からは、「くろかね(鉄)」から強度の高い「はがね(鋼)」を作り出す精錬が行われていた様子が窺えます。

 茲矩が「去年のはがねをまず廻船でこちらまで運ぶこと」「くれぐれも、はがねを送ってほしい」と言っているように、当時の大坂では、特に「はがね」が重宝されていました。それは「地はがね(鋼)は銀1文目(匁)につき1貫目で売る」とあるように売買もされていたと考えられます。その主な用途としては、茲矩が「はがねが無くて、石割りのノミ先が確保できない」と言っていることから、石垣の普請で石を割る際に使用するノミの刃先として用いられていたと考えられます。また一方で「はがね」と「くろかね」の両方を大坂に送るよう命じていることから、両者を鋳造・鍛造の用途に応じて使い分けたり、現地で精錬していた可能性もあります(注6)

 特に注目すべきは、「鉄ながし」「ながし山」という記述が見られることです。『鹿野町誌』が指摘しているように、この「ながす」とは「砂鉄を流す」という意味で用いられたと考えられ、土砂を川で流す「鉄穴(かんな)流し」の方法で砂鉄が採取されていたと思われます。「流し山」とあることから、海岸や川で採れる浜砂鉄や川砂鉄ではなく、山から砂鉄を採っていたと考えられます。

 出雲地方では松江藩が慶長15年(1610)に鉄穴流しを禁じていることから、17世紀の初頭にはすでに大規模な鉄穴流しが行われていたことが確認されていますが(注7)、この記述から、山陰東部の西因幡地域においても、ほぼ同じ時期に鉄穴流しによる砂鉄の採取が行われていたことが指摘できます。

 考古学の成果によれば、旧気多郡内にはたたら製鉄遺跡が何カ所か確認されています(注8)。この中には鹿野町河内の大谷地区のたたら跡のように、多数の鉄滓(てっさい・製鉄の際に生じる不純物の固まり) が出土したり、鉄穴流しの跡とみられる数百メートルにわたる水路跡が確認できる遺跡もあります(注9)。茲矩の時代には、鉄も重要な西因幡地域の産物であったと考えられます。


(3)その他の生業


  • ろうそくを箱に入れて大坂に運ばせるように。(1794号)
  • 小林に対して、煙硝(えんしょう)を焼くことは、無用であると伝えよ。(同)
  • 油をもしぼらせて大坂に運ぶように。魚の油はふく(河豚)などにも多い。(同)
  • 次回の大坂への廻船に、胡麻のみの油を載せるように。(1795号)
  • わた(綿)を三貫目ほど大坂に運ぶように。うるし(漆)も二合ほど運上せよ。(1798号)

 中世の西因幡地域では製紙・製鉄以外にも、さまざまな技術を持った人々がさまざまな生業に従事していました。ここにあげた茲矩書状の内容からは、ろうそく・火薬・油の製造や、綿・漆等の採取が行われていたことがわかります。油1つ取っても椿・胡麻・魚など複数の種類の油が製造されていたことが確認できます。このことは、これらの原材料となる多種多様な天然資源が西因幡地域に存在していたこと、これらの生業に従事する専門的な知識・技術を持った人々がこの地域に多くいたことを示しています。

 また、これらの品々は船によって大坂に運ばれていました。廻船とあることから、これらを積んだ船には商人たちが同乗しており、港伝いに点々と商売をしながら大坂に向かったものと推察されます。中世の西日本の海運構造は石見国の銀を中心に国外ともつながり、活況を呈していたことが指摘されていますが、鹿野の産物を載せた船も、そのような西日本の流通構造と大きく関わっていたものと推察されます。

おわりに

 今回は亀井茲矩の書状を読み解きつつ、文献史料から西因幡地域の自然環境と人々の関わりに迫ってみました。

 中世末~近世初頭の西因幡地域は、様々な産業の原材料となる植物や鉱物などの天然資源が豊富に存在していました。まさにこの地域はさまざまな資源の宝庫であったと考えられます。ここで生み出された天然資源を原材料として、この地域の人々は、農業だけでなく、紙漉きやたたら製鉄をはじめとするさまざまな生業に従事していました。いわば西因幡地域には自然環境と人々の営みが調和した豊かな「里山」の光景が広がっており、その中で人々が自然と深く関わりながらさまざまな生業や経済活動に従事しつつ生活していたと思われます。そして、このような自然環境と人々の営みの深い関係が、この地域の産業構造や地域経済を形成していたと考えられます。

 では、亀井茲矩はこのような西因幡の地域社会とどのように関わっていったのでしょうか。次回はこの点について取り上げてみたいと思います。

図

(注1)引用史料の番号はすべて『新鳥取県史資料編 古代中世1 古文書編』の文書番号を示す。

(注2)網野善彦氏は中世における諸国の紙生産の事例を紹介し、丹波・但馬・播磨・備中・備後が全国有数の紙の産地であったことを指摘しているが、因幡についての事例は取り上げていない(網野善彦『中世民衆の生業と技術』第5章「紙の生産と流通」、東京大学出版会、2001年)。

(注3)鳥の子紙は越前を主産地とする和紙で、『和漢三才図会』には「肌滑らかにして書き良く、性堅、耐久、紙王と謂うべきものか」と称賛され、虫害にかからぬ特色を買われて、襖紙のほか上層階級では永久的な保存の望ましい書冊の作成に愛用された。

(注4)「銑押」は銑鉄(鋳物用の鉄)の生産を主とする製造法、「鉧押」は製鉄炉の中に鉧を作り出す製造法。

(注5)角田徳幸『たたら製鉄の歴史』(吉川弘文館、2019年)。古代出雲歴史博物館企画展図録『たたら―鉄の国 出雲の実像―』(古代出雲歴史博物館、2019年)。

(注6)網野善彦氏によれば、中世の畿内においては、和泉国の堺が鉄原料の集積地であるとともに、鋳物師や鍛冶職人の集住地となっていたことが指摘されている(網野善彦「中世の鉄器生産と流通」『講座・日本技術の社会史5 採鉱と冶金』日本評論社、1983年)。畿内の鉄職人たちとの関係は今後の課題であろう。

(注7)『たたら―鉄の国 出雲の実像』42~43頁。

(注8)この地域の中~近世のたたら製鉄遺跡としては、金屋たたら(気高町上光)、小鷲河谷たたら(鹿野町河内・江戸中期)、二ッ家たたら(同末用)、小畑たたら(青谷町小畑)、北河原たたら(同町北河原・江戸末期)などがある(『鳥取県生産遺跡分布調査報告書』鳥取県教育委員会、1984年)。

(注9)鳥取県埋蔵文化財センター作成の遺跡カードの情報による。

(岡村吉彦)

活動日誌:令和元年6月・7月

6月

2日
4日
第1回考古部会(公文書館会議室)。
災害アーカイブズ事業にかかる協議(鳥取大学、岡村)。
6日
災害アーカイブズ事業にかかる協議(鳥取地方気象台、岡村)。
資料返却・借用(鳥取県立博物館、東方)。
9日
高校生のための古文書ワークショップ(鳥取県立博物館、岡村)。
11日
デジタルアーカイブシステムにかかる協議(鳥取県立図書館、岡村)。
15日
山陰歴史館企画展講演会講師(米子市立図書館、岡村)。
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
16日
19日
GHQ関連取材(NHK鳥取放送局、西村)。
25日
県内所在古墳石室測量業務事前説明会(公文書館会議室、岡村・東方・田貝)。
28日
青銅器調査にかかる打ち合わせ(公文書館会議室、岡村・東方)。
県内所在古墳石室測量業務入札(公文書館会議室、岡村・東方)。

7月

5日
第1回鳥取県災害アーカイブズ検討会議(公文書館会議室、田中・岡村・西村)。
6日
11日
NHK鳥取放送局「いろどり」出演(西村)。
12日
古墳測量にかかる打合せ(公文書館会議室・現地、東方)。
尚徳大学講師(鳥取市文化センター、岡村)。
13日
占領期の鳥取を学ぶ会(鳥取市歴史博物館、西村)。
16日
現代部会資料調査(公文書館会議室、西村)。
23日
青銅器調査にかかる協議・資料搬入(奈良文化財研究所、東方)。

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編集後記

 今年の夏も猛暑でしたが、ここ最近は朝晩が涼しくなり、秋に近づいたことを感じさせます。

 さて、今回も前回に引き続き、岡村室長による執筆です。鳥取市青谷町は現在も和紙の産地として有名ですが、その製造は中世にまでさかのぼり、じつに400年以上の歴史があることを初めて知りました。また、中世には、西因幡において鉄生産も行われており、どちらも大坂に運ぶような重要な産品であったことが分かります。鉄といえば伯耆が有名で、調査・研究も進んでいるのですが、因幡における鉄生産の様相はこれまであまり明らかになっていませんでした。

 考古学的には、紙生産の痕跡は明らかにしづらいのですが、鉄生産については、炉・鉄穴流し跡といった遺構、鉄滓(てっさい)や鞴羽口(ふいごはぐち)などの遺物から確認できます。今後、関連遺物が出土した遺跡の調査が進めば、因幡における鉄生産の様相が明らかになってくるかもしれません。

(東方)

  

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