因伯三十二万石鳥取藩の藩祖池田光仲は、岡山藩主池田忠雄の長子として寛永七年(1630)、江戸藩邸で生まれた。母は阿波徳島藩主蜂須賀至鎮の娘三保姫(芳春院)であった。幼名を勝五郎といい、寛永九年(1632)父忠雄の逝去により当時三歳で藩主の座についた。幼年の藩主であったが、家老らの運動と父忠雄が徳川家康の外孫であることなどを訴えた幕府への働きかけが功を奏し、備前(岡山)から因幡・伯耆(鳥取)へ移るだけで藩は存続し、この時、幕府は光仲の叔父にあたる松平(池田)石見守輝澄、右近太夫輝興の両名にその後見役を命じ、岡山藩主で光仲のいとこにあたる池田光政にも後見を命じた。
寛永十五年(1638)将軍家光の前で元服し、名を光仲と改め、従四位下侍従に任じられ、相模守と称した。江戸城内の将軍の前で元服の式がおこなわれ、官位と将軍の名の一字を賜る非常に名誉ある大名は、御三家の他、加賀の前田家、薩摩の島津家、長州の毛利家など「殿上元服之家」十五家がある。その中に鳥取の池田家も含まれている。
光仲の正室は、紀州徳川頼宣の長女茶々姫(芳心院)である。正保二年(1645)、幕府の命により光仲に嫁ぐことになった。こうして婚姻関係が出来たことにより、その後、鳥取池田家の婚姻は紀州家との間に多く成立している。
光仲は慶安元年(一六四八)三月鳥取へ初入国すると、同年四月直ちに鳥取長寿院で東照宮三十三御神忌を実施して徳川家に忠節を示した。同年十二月には、幕府に東照宮を鳥取に勧請することを願い出て、建立場所は王寺谷へ決定した。これが鳥取東照宮(現樗谿神社)である。 藩主の権力は家臣の格式を固定した上に安定するという。家老を出す「着座」家を筆頭とする格式は光仲の時代、すなわち明暦年間から寛文年間に固定した。光仲は初代藩主としてその定着に努力したといえる。 なお、光仲は幼くして藩主となったため、初期の藩政は、荒尾氏をはじめとする家老を中心とする家老政治であった。成長して後は、これを改め、承応元年(1652)には、当時権力を握っていた首席家老荒尾但馬守成利(米子荒尾氏)を責問十余条を挙げて罷免している。以後、光仲の代には藩主の親政が徹底したという。 藩祖としての光仲の逸話は数多いが、学問よりも武芸を好み、性格的には厳正寡黙な人であったらしく、寵臣和田三信でも光仲の前に出ると「厳冬でも背に汗した」という。家臣と衝突することもあったが、常に政治には熱心で、藩主の座を綱清に譲って隠居した後も藩政の舵取りに携わったという。 元祿六年(1693)七月光仲が卒中で逝去し、鳥取藩は翌年、興禅寺(黄檗宗)を菩提寺とした。光仲六四歳、法号を興禅院殿俊翁義剛という。
↑初代藩主池田光仲墓のご案内(youtube動画)