九代藩主斉訓の逝去により鳥取藩主になったのは、鳥取池田家の分知家である壱岐守仲律(東館)の長男亀丸である。池田仲律は、池田仲雅の三男で、仲雅は、本家である五代藩主重寛の六男であったので慶行は五代藩主の曾孫にあたる。
天保十二年(1841)僅か十歳で鳥取藩主となり、翌十三年(1842)将軍家慶の前で元服の式を行い、従四位下侍従に任じられ因幡守と称した。将軍家慶の一字を賜り、名を慶行と改めた。弘化四年(1847)には左近衛少将に進んだが翌嘉永元年(1848)僅か十七歳で鳥取城で逝去した。法号を正国院殿純徳玄明という。生前、肥前佐賀藩主鍋島斉正の娘貢姫と婚約していたが、慶行の逝去により流縁となった。
池田慶行は、七代藩主池田斉邦と非常によく似ている。斉邦も若くして藩主となり、ともに短命であったにもかかわらず逸話が多い。斉邦・慶行は人物、性格ともに優れた藩主であったように思われる。
慶行は、体格も良かったようで、武器、刀剣を好み、華美な飾りは嫌ったという。学問にも力を入れ、漢詩を好くしている。また、絵を描くことが巧みで、藩絵師沖探容を師として学び、その腕前は相当のものであった。
↑10代藩主池田慶行墓の御案内(youtube動画へ)