池田斉邦は幼名を秀三郎、ついで銀之進といった。父は治道、生母は治道の側室於三保の方で天明七年(1787)鳥取城で生まれた。銀之進には一つ違いの弟、永之進がいた。永之進の生母も側室浦の方であったが、江戸で生まれたことから声援するものが多く、兄である銀之進は影が薄かった。その為、継嗣をめぐって、江戸と国表において対立が起った。これを憂いた鳥取の用人役佐々木磯右衛門は、寛政四年(1792)藩主池田治道の帰国に際して、兄の銀之進を継嗣とするよう強く諫言した。治道は磯右衛門が銀之進を新藩主に押す事により、恩を売ろうとしているのではないかと疑い磯右衛門を叱りつけ、着物の裾を握ってとどめようとした磯右衛門の頭を竹扇で打つという事件が起った。
磯右衛門は自宅に帰り、息子二人とはからい、父子三人は切腹して果てた。この報を受けて、治道は驚き、磯右衛門の死を病死と取り扱い、係累の者をもってその後を継がせた。このことがあって、銀之進が世子である事が決まり、寛政十年(1798)治道の逝去により家督相続が認められた。時に銀之進十二歳、寛政十二年(1800)将軍家斉の前で元服の式をおこない、従四位下侍従に任じられ、相模守と称した。将軍家斉の一字を賜り、名前を斉邦と改めている。
斉邦の治政には、国目付のこと、又、幕府より美濃・伊勢・東海道川筋の手伝普請などを命じられ、藩財政の窮乏に苦しんでいる。 斉邦は文化四年(1807)二十一歳で世を去ったので子供がなく、斉邦のあとは弟永之進が継いだ。
斉邦は短命にもかかわらず藩祖光仲とともに、逸話の多い人である。斉邦は幼時から家臣思いで、慈悲深い性格であったこと、また学問・芸術の育成にも心を配り、藩財政を豊かにするため倹約に心がけた藩主であり、松平定信(老中・白河藩主)と島津重豪(薩摩藩主)の両名からほめられている。文化四年(1807)に逝去、法号を真證院殿徳応義栄という。
↑7代藩主池田斉邦墓の御案内(youtube動画へ)