七代斉邦の後をうけて鳥取藩主になったのは、斉邦の弟永之進である。文化四年(1807)、将軍家斉の前において元服の式を行い、従四位下侍従となり因幡守と称した。そして将軍家斉の一字を賜わり、名を斉稷と改めた。
鳥取池田家は藩祖池田光仲以来、例外は除いて代々相模守を名乗っている。ところが、池田斉稷になって、因幡守を名乗ることになった。真偽のほどはわからないが、池田の殿様がこのところ若死にする傾向になったのは、鳥取の領主でありながら因幡守を名乗らないからだというのである。
斉稷の代には大きな継嗣問題が起こっている。藩主継嗣は、池田家の血縁者の中から選ぶのが当然であるが、文化十四年(1817)将軍徳川家斉の十二男徳川乙五郎(のち斉衆)を斉稷の婿養子にしたことである。将軍家斉は男女あわせて五十五人の子があり、これを御三家、御三卿、各大名家に養子等として押しつけた。
これにより、池田斉稷及び鳥取藩に対し、数々の恩典が将軍家より与えられた。例えば斉稷に前例のない従四位上の官位が与えられ、葵の御紋を用いることが許され、更に江戸城での詰所は、大広間から昇格し、大廊下下の間となった。
世子乙五郎は文政七年(1824)将軍家斉の前で元服の式を行い、従四位上侍従に任じられ、名を斉衆と改めた。ところが文政九年(1826)疱瘡にかかり、ついに鳥取藩主の座につくことなく、世を去った。将軍家斉の子を養子にするにあたって鳥取藩士すべてが歓迎したわけではない。徳川将軍の子を養子に迎えたことは、池田家従来の継嗣原則が崩れたわけで、その意義は大きい。後に、慶栄、慶徳の両藩主が他家から迎えられる道を開くことになったからである。
斉稷は、天保元年(1830)四十三歳で逝去、江戸弘福寺に埋葬され、遺髪のみ鳥取に送られた。法号を耀国院殿峻徳光隆という。昭和五年には遺骨も改葬された。
↑8代藩主池田斉稷墓の御案内(youtube動画へ)