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法号

慶徳朝臣命

生年と没年

天保八年(1837)~明治十年(1877)

概要

 最後の鳥取藩主池田慶徳は、水戸中納言徳川斉昭の五男五郎麿で、生母は松波春子である。異腹の弟七郎麿は徳川幕府最後の将軍慶喜である。天保八年七月江戸で生まれた。十一代慶栄が伏見で逝去後、幕府は慶徳に養子を命じ、嘉永三年(1850)十月に家督を相続した。従四位上侍従に叙任、相模守と称した。

 慶徳が藩主となって実施した藩政改革は、徳川斉昭による天保期(1830~44)水戸藩の藩政改革がモデルになり、斉昭の教えを請いつつ実施された。慶徳の藩政改革が行われていた期間は、嘉永六年(1853)のペリー来航から大老井伊直弼が桜田門外で刺殺される万延元年(1860)に至る激動の時期であった。安政元年(1854)幕府が日米和親条約を締結したことに対して、十八歳の青年藩主慶徳は、攘夷の立場から遺憾の意を表明する意見書を提出し、攘夷論者として中央政界に参画する。

 慶応三年(1867)の大政奉還を受けて、翌四年(1868)年七月、鳥取藩は東京行幸供奉を命じられた。それを機に慶徳は上洛して新政府と直接連絡を取るようになり、明治二年(1869)二月には新政府の議定に任ぜられている。それより前の一月二十三日、薩長土肥の四藩主が版籍奉還するや、その翌日に慶徳も鳥取藩知事に任じられるが、家禄は十分の一とされた。

 慶徳は明治十年八月二日明治天皇の還幸を神戸まで奉送の際肺炎にかかり、神戸で逝去、東京の弘福寺に葬られ、後に多摩霊園に改葬された。明治十一年九月鳥取樗谿神社に合祀された。慶徳の後、池田家は十三代輝知、十四代仲博、十五代徳真、十六代百合子と続く。

  

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