天保元年(1830)八代藩主斉稷の逝去により鳥取藩をついだのは、斉稷の実子誠之進である。養子の斉衆が文政九年(1826)に逝去したので嫡子の取り扱いとなり、幕府の許可を得て世子となったのである。
天保二年(1831)江戸城の将軍家斉の前で元服の式を行い、従四位下侍従に任じられ因幡守と称し、家斉の一字を賜わり斉訓と改めた。また、将軍の娘泰姫との婚約も成立し、将軍家より特に厚遇されることになった。天保六年(1835)には左近衛権少将に進み、天保十一年(1840)泰姫との婚儀が行われ、位も従四位上になった。婚儀が終ったのも束の間、天保十二年(1841)斉訓は病となり、あっけなく江戸藩邸で逝去した。二十二歳であった。法号を瑞徳院殿智覚良温という。斉訓と死別した泰姫は江戸城に戻り、天保十四年(1843)十七歳で逝去した。
↑9代藩主池田斉訓墓の御案内(youtube動画へ)