三代藩主池田吉泰は幼名を長吉、のち勝五郎、長じて輝清、吉明と改め、のち吉泰といった。父は分知東館の祖壱岐守仲澄、母は松平播磨守頼隆(水戸徳川家の分家)の娘菊子(涼月院)である。
元禄八年(1695)男子のいなかった綱清の養子となり、元禄十三年(1700)隠居した綱清のあとを受け家督を継いだ時は僅か十四歳であった。そして将軍綱吉の前で元服の式を行い、将軍の一字をもらって吉明(のち吉泰と改名)と改め、従四位下侍従に叙任され右衛門督(のち相模守)といった。宝永五年(1708)、加賀宰相前田綱紀の娘敬姫と結婚した。
宝永元年(1704)には、大地震で壊れた江戸城本丸中之門の再建を幕府から命じられている。池田吉泰の治政は、名家老鵜殿長春などを擁しながら、災害の多い時代であった。そのため、すべての不祥を一代に集めた藩主であるともいわれている。世情不安は流言を生み、享保十一年(1726)には、今日、明日中に大火があるとの流言が広まり、城下は騒然となったと記録されている。藩士の気風もだんだん崩れてきたとみえて、藩から度々綱紀粛正の指示が出されている。また、吉泰は無類の能好きで、自ら舞台にも立ってシテ(主役)を勤め、珍しい能・狂言を見ることを好んだ。元文四年(1739)、五十三歳で逝去、法号天祥院殿機運衍応という。
↑3第藩主池田吉泰墓の御案内(youtube動画へ)