四代藩主池田宗泰は、幼名を長吉といい、また勝五郎と改めた。享保二年(1717)鳥取城で生まれた。生母は側室中村氏である。享保十六年(1731)、将軍徳川吉宗の前で元服の式を行ない、従四位下侍従に叙任され、出羽守と称した。
元文四年(1739)は、「元文大一揆」の起こった年である。この一揆は因幡・伯耆両国にまたがる大一揆である。この一揆が静まらない中、三代藩主池田吉泰が逝去し、この年宗泰が家督を継いだ。宗泰は就任早々に、この大一揆の後始末をすることとなった。まず一揆の関係者を処罰するとともに、郡方役人の入れ替えを行った。また、一揆の原因は百姓に対する租税の増加によるものであることから、藩をあげて倹約するようはかった。藩政立て直しの最中で、宗泰は延享四年(1747)三十一歳で逝去した。法号を大広院殿義山衍隆という。
↑4代藩主池田宗泰墓の御案内(youtube動画へ)