諮問会での問題提起
9月11日から2週間弱にわたり、各界の識者や行政担当者が鳥取市内に集まって、県経済の振興策をめぐる諮問会(しもんかい)が開催されました。議題は大小あわせて12。その4番目は、ある地場産業についてでした。
そこでの問題提起を要約すれば、次のようです。近年、当該産業は生産量が急落して衰退傾向にあるが、これはデフレだけが原因ではない。一つには安価な輸入原料などを用いた他産地製品との競合の結果であり、もう一つには同業組合の欠如による「信用狭隘(きょうあい)」がある。では、いかなる方策によればかつての隆盛を挽回(ばんかい)できるだろうか、と。
この問いかけを受け、参加者たちが各自の現状認識と方案を述べていきます。会期2日目の12日午後1時から始まった議論は、途中で翌日に持ち越され、13日午前11時まで続きました。
――年を書き忘れていましたが、これは現代の話ではありません。今から126年前、1885(明治18)年に開催された第1回鳥取県勧業諮問会の1コマです。議題にあがった産業というのは綿織物業、江戸時代における鳥取の主要産業でした。
さて、時代を下り、現代の史家にとってみれば、同諮問会での議論は、明治初期の県経済の状況や地域の認識をうかがうためのよい材料となります。この点、『鳥取県史』の近代資料篇には、棉作・綿織物業に関する議題を中心に議事録が抄録されていますが、いくつか興味深い発言がカットされているのが残念なところです。今回の「県史だより」では、この議事録を改めて繙(ひもと)きながら、江戸~明治時代の綿織物業をめぐる二、三の問題について振り返ってみたいと思います。
生産量急落の実態?
先ほどの問題提起のなかでは、綿織物業衰退の裏付けとして1878~83(明治11~16)年の生産量が示されています。そして、78~79年にほぼ半減(実際には約39%減)した生産量は、以降、年々の変動はあっても78年の水準を回復することはなかった、と指摘されます。ただ、出所不明のこのデータ、どれほど信頼を置いてよいものでしょうか?
図のとおり、問題提起で示された78年の綿織物生産量は41万反強でした。しかし、別資料をあたってみると、35万反程度とする記録も確認できます。もし、そちらの方が正しいならば、78~79年の急落という指摘も割り引いて考える必要があるわけですが、どちらの数字がより現実に近いのかは判断が難しいところです。こうした資料による数字の齟齬(そご)は、明治時代の統計には珍しくないことでした。当時の日本は近代的な統計が導入されて間もなくです。調査の制度・技術は発展途上で、データの精度にも限界がありました。
むしろ問題だったのは、明治10年代の短期的な動向ではなく、もっと長期的な趨勢(すうせい)でしょう。江戸時代の終わり、19世紀前半の鳥取藩については、領外への綿織物移出だけで年間数十万~百万反に上ったという複数の記録が残っています(これらも正確なデータとはいえませんが)。諮問会では、そうした過去と現状を比べたときの危機感が共有されていたはずです。
もっとも、生産の量的な減少だけを強調すべきでもありません。幕末~明治初年の鳥取県(藩)の綿織物業では、白木綿(しろもめん)から絣木綿(かすりもめん)*へと、より単価が高い製品へ主要製品が移っていたからです。
*染めた綿糸で模様を織りだした織物。
挽回策の提案
問題提起の後、議論の口火を切ったのは、高草・気高郡書記の長谷川美喜(はせがわ よしき)でした。彼は、かつての白木綿生産の「農間ニ糸ヲ紡キ区々ニ機出セシモノヲ買集メ諸方ニ売出スノ習慣」* では「各自改良等ノ事ニハ心付カス」といい、綿織物業の挽回策として次の5点を挙げています。
- 紡績と機織りを分業させる。
- 「組合」を設け、原料糸を供給して機織りさせる。
- 原料糸を手紡績糸から安価な機械紡績糸に替える。
- 「木綿問屋」を設け、製品を検査させて信用を保持する。
- 染色法の改良を図る。
*農家が各自で農業の合間に糸を紡(つむ)いで機を織り、その製品を商人が買い集めて販売する制度、という意味。「買入制」と呼ばれます。
ここでの「組合」と「木綿問屋」は現代の感覚では逆のような気がしますが、ともあれ彼の志向は、問屋制度による賃織りと同業組合の組織化にあったようです。
いわゆる問屋制家内工業は、工場導入前の遅れた生産形態と捉えられがちですが、近年の研究では必ずしもそうは考えられていません。原料・製品の品質や工程を管理する上での積極的意義が評価され、また賃織農家にとっても労働力配分の上で合理的なシステムだったとされるのです。その意味で、諮問会において工場化などへの言及が見られない一方、問屋制度の利点を意識した議論が行われていたことは、なかなか興味深いところです。
販路をめぐって
議論は、長谷川に続く各参加者の発言により広がっていきます。そこでは織機の生産性に話が及ぶ場面もありましたが、もっとも意識された点は製品の販路だったようです。意見のいくつかをニュアンスを汲みつつ要約すれば、次に挙げるとおりです。
- 京阪地方での伯州木綿の不振は、より手軽な製品が好まれているからで、サイズなどの改良が必要。
- 東京地方では、丈夫な製品が好まれるので、販路として有望。
- 綿織物は粗服(そふく)であるため、(手紡績糸による)より丈夫な製品を生産するのが得策。
- 安価な半唐木綿(はんからもめん)*の生産に向かうべき。
- 綿織物の不振は(明治14年以前の好況期に)市場の嗜好が奢侈(しゃし)となり絹織物へ移ったためで、デフレの現下にあっては需要回復の見込み。
*タテ糸に輸入紡績糸、ヨコ糸に国産手紡績糸を用いた綿織物。
また、機械紡績糸への原料糸の転換という案についても、旧来の手紡績糸を支持する立場などから意見が交わされますが、そこでは調達コストだけでなく、耐久性や均一性など、製品の品質に関わる観点からの言及が目立ちます。
結局のところ、この足かけ2日にわたる議論の中心は、マーケットがどんな綿織物を欲しているか、という点にあったといえます。しかし、議事録を読む限り、そのなかから具体的な挽回策が共有されるには至らなかったようです。県をあげた諮問会での議論が後の綿織物業の動向にどう影響したのか、鳥取県の近代史のトピックとして興味深いところですが、それはこの記事の範囲を越えてしまいます。
諮問会の後、鳥取県の絣木綿生産は、1890年代末頃のピークを経て減少へ向かいます。一方、減産傾向が続いていた白木綿生産は、明治末~大正初年に一時の増産を見ますが、間もなく再び減少に転じます。綿織物業が県経済の中心的地位を占めることは、もうありませんでした。
(注)第1回鳥取県勧業諮問会については「勧業諮問会日誌」(鳥取県勧業課編『鳥取県勧業月報』第48~49号,1886年)による(抄録は鳥取県編『鳥取県史 近代第5巻 資料篇』,1967年)。図も同資料より作成。そのほかのデータは大川篤志「近代鳥取県における綿織物業の盛衰」(『岡山大学大学院文化科学研究科紀要』第11号,2001年)を参照。問屋制度については谷本雅之「分散型生産組織の論理」(阿部武司・中村尚史編『講座・日本経営史. 第2巻 産業革命と企業経営』ミネルヴァ書房,2010年)などを参照。
(大川篤志)
2011(平成23)年2月19日(土)、東海大学・岡山県・鳥取県の連携講座「秀吉の中国攻め」に県史編さん室から岡村吉彦専門員(古代中世担当)を講師として派遣しました。
内容は、岡山県が「宇喜多直家―秀家への遺産―」、鳥取県が 「鳥取城をめぐる織田・毛利戦争」というテーマとしました。
今回の講座は、鳥取県東京本部の事業として、首都圏に暮らす県人のみなさんをはじめ鳥取に興味をお持ちの方々に鳥取の魅力を発信し、ファンになっていただく事を目的に実施され、63名に出席いただきました。
連携講座の様子
平成22年度の第2回新鳥取県史編さん専門部会(民俗)を、2011(平成23)年2月18日に開催しました。民俗部会は、今年度の事業報告に続き、来年度の事業計画について、活発な協議が行われました。
また、民俗部会に引き続き、民俗編に係る調査や執筆を担当する新鳥取県史調査委員も参加して、平成22年度第2回新鳥取県史民俗編目次構成検討会を開催しました。民俗編の基本コンセプトから細かい項目構成に至るまで、協議が行われました。
平成22年度第2回専門部会(民俗)での協議の様子
平成22年度第2回民俗編目次構成検討会での協議の様子
7日
資料調査(県立博物館、湯村)。
8日
県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、坂本)。
弓浜半島のトンド調査(~10日、境港市、樫村)。
9日
県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、坂本)。
11日
資料調査(智頭町誌編さん室、大川・足田)。
17日
民具調査(日南町郷土資料館、樫村)。
21日
島根県埋蔵文化財調査センター講演会(出雲市立弥生の森博物館、湯村)。
資料調査(境港市史編さん室、樫村)。
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