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目次

中世因伯の材木と寺社造営

はじめに

 前近代においては、寺社・城郭の造営や船の建造等において材木は重要な資源でした。

 中世の中国地方においては、安芸国(あきのくに:現在の広島県)が有数の材木の産地であったことはよく知られていますが(注1)、1648(慶安元)年成立の「新撰類聚往来」によれば、安芸国と並んで因幡国も「山深く材木多し」と記されています(注2)。このことから、中世~近世初頭の因幡も材木を多く産出していたことが窺えます。しかし、中世の因幡の材木の活用や流通の実態については、これまであまり注目されていません。

 今回は「材木」をキーワードに因幡・伯耆の中世社会に迫ってみたいと思います。

山陰地域の寺社と因伯の材木

 はじめに、山陰各地の寺社造営において因幡・伯耆の材木が使用された事例をいくつか紹介してみましょう。

  • 杵築大社(出雲国 )

 「杵築大社旧記写」 によれば(注3)、1521(永正18)年7~10月に杵築大社(現出雲大社)の中鳥居が建立されたとあります。この鳥居に用いられた柱木は「此柱ハ伯州ひの郡より出候」とあるように、伯耆国日野郡で伐採され、出雲の地へ運ばれました。その運搬には大社領の七浦(注4)の人々が船を出して杵築浦へ運んだとあります。

 日野郡の山中で伐採された大木は、日野川を下って河口へ運ばれ、そこから大社領七浦の船で島根半島沖の日本海を経由して越えて杵築へ運ばれたものと考えられます。

  • 鰐淵寺(出雲国)

 出雲大社の別当寺として鰐淵寺(がくえんじ)があります。この本堂は1551(天文20)年、夏に焼失して以来、再建が滞っていましたが、1575(天正3)年、毛利輝元が再建に乗り出します(注5)

 このとき輝元は、山陰担当の吉川元春に「本堂の用材を因州(因幡)において採取するので、材木の津出しについて(因幡の)国衆たちに協力を依頼してほしい」と命じています(注6)。「津出し」というのは、この場合、切り出した材木を川や海の港から送り出すことをいいます。

この毛利氏・吉川氏からの要請を受けて、因幡国の武将である山名豊国や武田豊信が材木の搬出に協力しています(注7)

 因幡国の材木が出雲鰐淵寺の本堂の用材として用いられ、その搬出に因幡の武将たちが関わっていたことがわかります。

  • 円通寺(但馬国)

       但馬国竹野(兵庫県豊岡市竹野町)に円通寺という古刹(こさつ)があります。室町~戦国期の円通寺は、地元の竹野郷とともに因幡国津井郷(鳥取市津ノ井)を寺領として所有していました。

       1511(永正8)年の「円通寺壁書写」によれば「因州年貢米并材木、着岸相違あるべからざるの事」とあります(注8)。このことから、円通寺が寺領である津井郷から年貢米とともに材木を徴収していたことがわかります。

       また「着岸」とあることから、この年貢米や材木は但馬へ海上輸送されていました。津井郷で伐採された材木は、千代川を下って日本海へ出され、但馬国へ運ばれていったものと考えられます。

      円通寺の写真
      円通寺の様子

       このほかにも、詳細は不明ですが、戦国末期には、吉川広家が「出雲・伯耆に大きな桑の木があるということなので、長い板となる材木を取って津出しするよう」命じています(注9)

       このように、因幡・伯耆で伐り出された材木は、出雲・但馬など各地の寺社造営に用いられていました。それらの材木は河川や日本海を経由して山陰各地に運ばれていたことがわかります。

      材木供出に関わった人々

       次に、材木供出に関わった人々についてみてみましょう。

       山から伐り出した材木が消費地まで運ばれて建築に用いられるまでには、さまざまな人々が関わっていました。

       一般的な流れとしては、まず山中からふさわしい木を選び、それを「杣(そま)」と呼ばれる人々が伐採します。伐り出された材木は、「山出し」と言って近くの川まで運ばれ、そこから「縄索(じょうさく)」を付けて下流に流されました。川の水が少ない場合は、川底を掘り下げたり、川の水をせき止めて水量を確保する「河普請(かわぶしん)」が行われました(注10)

       この材木伐採や河川運搬に関わっていたと考えられる人物に西伯耆の福頼氏があります。1588(天正16)年、秀吉の命令により京都方広寺の大仏殿建立の用材が集められました。このとき、毛利輝元は福頼氏に対して「備中国において材木を伐採するので、要請があればすぐに出向いて協力するよう」命じています(注11)。このときの書状には「挽くべき由」とあることから、福頼氏は山中からの伐り出しや製材にも関わる予定であったと考えられます。その後、派遣先は安芸国(広島県)となったようで、輝元から「縄索・河普請の道具を用意し、必要な人員を連れて(安芸へ)行くように」と命じられています(注12)

       このとき、毛利氏が福頼氏に協力を要請した背景には、福頼氏が材木の伐採・製材や河川運搬に必要な道具・技術を有していたこと、それらの作業に従事できる人々を抱えていたことなど、毛利氏の要求に応えうる条件を満たしていたことが考えられます。このことは福頼氏が西伯耆の材木の伐採・運材に日常的に関わっていたことを窺わせるものでもあります。

       川を下った材木は、河口付近の港に集められ、そこから「津出し」が行われました。先述した鰐淵寺建立における材木供出の場合、山名豊国や武田豊信といった武将たちが毛利氏の要請を受けて因幡からの津出しにあたっています。このとき武田豊信が吉川元春に宛てた書状によれば、「材木の津出しのために人足を百人用意した」と記されています(注13)。因幡の山中から伐りだされた材木は、千代川を下って下流域の港に集積され、多くの人々の手によって津出しがなされ、日本海を越えて出雲へ送られたものと思われます。

      おわりに

       このように、中世の因幡・伯耆の山中から伐りだされた材木は山陰各地の寺社造営に用いられていました。わずかな事例ではありますが、国外からの需要にも応えうるだけの豊富な良材が産出されていた可能性は指摘できると思います。

       その中には、杵築大社の中鳥居の柱木のように、巨木も存在していたと考えられます。時代はやや下りますが、1649 (慶安2)年に鳥取市樗谿(おうちだに)の地に東照宮が建立された際、用材として使われたのは、智頭郡から伐り出された直径1丈(3m)もある巨大なケヤキでした(注14)。中世の因幡・伯耆はこのような巨木を育む風土にも恵まれていたのかもしれません。

       また、因幡・伯耆の材木供出を考えるとき、この地域の自然地形にも注目する必要があります。因幡・伯耆両国は、山間部と海岸部の距離が近く、また河川の数が多いという特徴があります。このような地形は山間部から材木を切り出して海岸部へ運搬するという点においては好都合であったと考えられます。このような運材の利便性も、中世の因幡・伯耆の材木供出を支えていたと考えられます。

       その後、近世になると、城下町の造成や大火による再建、たたら製鉄・木地加工等の発展により、多くの樹木が伐採され、それを補うために植林もなされました(注15)

       現在は中世以前の山の姿はほとんど残っていませんが、中世の因幡・伯耆の山間部には、今と変わらない深い霧の中で育まれた天然林が多く存在し、そこから産出された多くの良材が国内外の人々の営みを支えていたと考えられます。

      (注1)『広島県史 中世』(広島県、1984)を参照。

      (注2)『続群書類従』第十三輯下 消息部。

      (注3)「千家家文書」136号『大社町史』(大社町、1997)。

      (注4)大社領七浦とは、杵築・黒田・宇竜(うりゅう)・免結(めい)・鷺・宇峠(うど)・井呑(いのめ)の各浦を指す。

      (注5)「鰐淵寺文書」304号、曽根研三編著『鰐淵寺文書の研究』(鰐淵寺文書刊行会、1963)所収。以下「鰐淵寺文書」はすべて同書に依った。坂村香苗「中世末・近世初頭 中国地方における造営事業と木材流通」『史学研究』第210号(広島史学研究会、1995年)。

      (注6)「鰐淵寺文書」334号。

      (注7)「鰐淵寺文書」336号、同339号。

      (注8)「円通寺文書」12号『兵庫県史 資料編 中世三』(兵庫県、1988)。なお、中世の山陰における海運や地域間交易については、近日刊行予定の鳥取県史ブックレット12『古代中世の因伯の交通』(錦織勤著)で具体的に述べられている。

      (注9)年不詳10月9日付吉川広家書状(岩国徴古館所蔵「藩中諸家古文書纂」井上喜兵衛)。

      (注10)坂村前掲(注5)論文。

      (注11)宮本文書」(天正16年)8月晦日毛利輝元書状。釈文は岡村吉彦「『宮本文書』の翻刻と紹介」(『鳥取地域史研究』第13号 2011年)参照。

      (注12)「宮本文書」(天正16年)9月20日毛利輝元書状。

      (注13)「鰐淵寺文書」341号。

      (注14)『鳥取県史5近世 文化産業』(鳥取県、1982)513頁。

      (注15)『鳥取県史5近世 文化産業』(鳥取県、1982)513~523頁。同書によれば、鳥取藩における植林が本格的に始まったのは18世紀初頭であるとされる。参考までに『鹿野小誌』には亀井茲矩が薩摩の島津から杉苗を取り寄せて鷲峰山一帯に植えたという記述がある。

      (岡村吉彦)

    • 活動日誌:2012(平成24)年10月

      1日
      2日
      中世史料調査(県立博物館、岡村)。
      3日
      古墳測量入札(県立公文書館会議室)。
      4日
      史料調査(境港市、岡村・渡邉)。
      5日
      県史編さんに係る協議(鳥取大学、岡村)。
      6日
      県史編さん協力員(古文書解読)東部地区月例会(県立博物館、渡邉)。
      7日
      県史編さん協力員(古文書解読)中・西部地区月例会(倉吉市・米子市、渡邉)。
      11日
      第2回新鳥取県史編さん専門部会(近代・現代合同)開催(県立公文書館会議室)。
      資料調査(日野町歴史民俗資料館、樫村・渡邉) 。
      12日
      佐治町歴史講座講師(鳥取市佐治中央公民館、清水)。
      13日
      米子城講演会講師(米子市文化ホール、岡村)。
      14日
      史料調査(伯耆町、渡邉)。
      16日
      資料調査協議(倉吉博物館、湯村)。
      17日
      史料調査(県立博物館、岡村)。
      18日
      資料(倉吉千刃)調査(三朝町、樫村)。
      全国都道府県史協議会(~19日、沖縄県公文書館、清水)。
      19日
      史料調査(南部町、渡邉)。
      20日
      資料調査(兵庫県立図書館、清水)。
      22日
      龍谷大学公開講座講師(龍谷大学梅田キャンパス、岡村)。
      古墳測量立会い(湯梨浜町宮内、湯村)。
      23日
      中世史料調査(~25日、広島大学・岩国徵古館・津和野町太鼓谷稲成神社、岡村)。
      24日
      史料調査(日南町阿毘縁 、渡邉)。
      25日
      遺物借用(県立博物館、湯村)
      民具調査協議(北栄町教育委員会、樫村)。
      26日
      資料調査(境港市史編さん室、清水・岡)。
      28日
      民俗調査(~29日、大山町宮内、樫村)。
      30日
      史料調査(米子市淀江町、渡邉)。
      31日
      遺物返却(県立博物館、湯村)。

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      編集後記

       公文書館2階の県史編さん室から見えるケヤキとイチョウの街路樹の葉もほとんど散ってしまい、まだ雪こそないものの、外はすっかり冬になりました。

       今回は、木材の流通に関する記事でしたが、(注8)にあった通り、2013(平成25)年1月には鳥取県史ブックレット12『古代中世の因伯の交通』(錦織勤著)が刊行予定です。中世鳥取の交通についての今までの研究成果を受けつつも、研究者でない一般の方々にもわかりやすい書籍になっております。皆様、御期待ください。

       また鳥取県史ブックレット11『褒められた人々』鳥取県史ブックレット13『鳥取県の妖怪』も近日刊行予定です。こちらも御期待ください。

      (樫村)

        

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