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K-9 薮津橋 日野町下菅
橋梁:鉄筋コンクリート造・3径間下路式ローゼ橋
昭和24年
 

薮津橋は、鳥取県の南西部にある日野町下黒坂に位置する一級河川日野川に架かる橋梁である。この付近は「薮津ヶ渕」と呼ばれる日野川有数の景勝地で、それを背景として映えるアーチ状の姿態はとても印象的で、橋名は知らずとも、その光景が思い浮かぶという人は少なくない。
本橋梁は昭和24年に建設された、鉄筋コンクリート造、3径間下路式ローゼ橋で、その規模は、橋長47m、全幅4.67mである。また、両側の高欄から弧を描くアーチの高さは7~8mあるだろう。
2本の橋脚は、両渕に露出する岩盤に直接設置されている。そのため、橋台寄りの径間はともに5m程度と狭く、中央の径間だけが35mと極端に大きい。
大きなアーチは単なる飾りではなく、この不均一な橋脚配置により橋梁中央部に集中する荷重を支える働きを担っている。
外観だけに目を向けると、峡谷に浮かぶ大アーチ、その下を流れる清流と自然が造り上げた彫刻ともいえる岩渕、それらが見事に調和したすばらしい景観である。
だが反面、見るほどに、近づくほどに無粋な疑問が増大してくる。
「なぜ、この場所に橋を架けたのか?」
本橋梁近くに集落などはなく、利用者のメリットが見込めない。まして、左岸側にはJR伯備線が併走していて、安全面にも大きな問題がある。
その理由を紐解くため、本橋梁のルーツを辿ってみることにした。
最初に、この地に橋が架けられたのは天保4年(1833年)にまで遡る。建設当初の橋名は「孫四郎橋」といい、日野郡の交通史に残る由緒ある橋梁であった。
「孫四郎橋」は、日野町本郷の庄屋 船越孫四郎氏の尽力によって建設された、日野川に架けられた日野郡内で2番目の橋梁である。完成した橋は、周辺地域の交通に大きな利をもたらし、彼の功績を高く評価した鳥取藩の命により、氏の名前が橋名として付けられたものと記録されている。
架橋位置に関して「薮津という山脚両方より川を狭めて、その幅最も狭し所」と記述されていることから、山脚の堅固な岩石が橋台として有効利用できること、また、「その幅最も狭し所」とあるように、橋長を短くでき経済的であることが選定理由と考えられる。
明治時代になるまでは、橋梁といえば木橋か土橋が主流で、その構造理念も「洪水に耐えるもの」ではなく「洪水で流されても容易に復旧・再建ができるもの」というネガティブなものだったようだ。ちなみに「孫四郎橋」は木橋であったが、そのような背景であれば、川幅の最も狭い箇所に架橋するのは至極当然のことである。当時では、「薮津峡谷」は架橋するに最適の条件であったといえる。
また、架橋後の補修に関しても、郡史にその履歴が記述されており、4回の架け替えと2度の大破損による補修についての概要が年表形式で列記され、「明治19年8月大洪水にて流失す」という一行で締めくくられている。
明治18年、県道(現在の町道黒坂薮津線)の布設に伴い本橋のすぐ上流に「薮津橋」が新設され、これをもって「孫四郎橋」はその任を退くこととなるのだが、奇しくもその翌年に姿を消すことになってしまったようだ。
「日野川今昔写真集(立花書院著)」には、その「初代薮津橋」の写真が紹介されている。
その写真によると、形式は下路式トラス構造で木造のようである。橋梁を支える2本の橋脚はコンクリート製で、現在のものとほとんど同様に設置されている。(現在、右岸側の橋脚基礎部に、当時の橋脚が横たわったまま残っている)
木造トラス橋が日本ではじめて架けられたのは明治12年といわれており、その僅か6年後に架けられたこの橋梁は、同形式ではおそらく県内初、国内でも例は少なかったのではなかろうか。見慣れない斬新なデザインの新橋梁に人々は大きな期待を抱いたことだろう。
しかしながら、当時の最新技術をもってしても、長い中央支間にかかる大きな荷重を制御し続けることは難しかったようである。同写真には「マラソンの時にこの橋の上を走ると上下に揺れて怖かった」という利用者の談が添えられている。これは、技術云々よりも、伸縮・変形しやすい木材の特性によるものと思われ、むしろ「揺れ」の発生は設計者の想定の範ちゅうだったのではなかろうか。
実際、60余年もの長き間地域交通を支え続けたのだから、その構造および建設技術は確かなものと言ってよいだろう。
そして昭和24年5月、鉄筋コンクリート造の「2代目薮津橋」が誕生し現在に至っている。
前述のとおり、「初代薮津橋」の橋脚が現橋脚基礎部に残ることから、全く同位置に架橋されたものと思いこんでいた。しかし、現地をよく見ると20mほど上流の岩渕に、明らかに人為的なものとわかる穴が2つ掘られている。この位置が「初代薮津橋」の架橋位置と見て間違いなさそうである。
架橋当時はともかく、その後100年以上経った後においても、決して便利とはいえないこの位置に架橋し続けられたのは、そのような歴史的経緯を重んずる“ある種のこだわり”があったのかも知れない。
現在では、上下流とも集落近くに橋梁が建設され、さらに老朽化もあいまって、本橋梁は「車両通行止」となってしまっている。
しかし、本来の機能を失ったとはいえ、その歴史と功績は色あせるものではなく、後世に語り継いでゆくべきものである。


平成18年の藪津橋の写真

通行止めとなった藪津橋の写真

藪津橋基礎部等の写真
  

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