N-2 河内川砂防ダム 鳥取市鹿野町河内
ダム:アーチ式砂防ダム・コンクリート造
昭和37年
河内川砂防ダムは、鳥取市鹿野町および同市気高町を経て日本海に注ぐ二級河川河内川の上流域である鳥取市鹿野町河内に位置する。河内川沿いに県道(鳥取鹿野倉吉線~河内槇原線)が走り、さらに渓流に沿って林道が整備されているので、ダム近くまで車で行くことができる。
構造はコンクリート製アーチ形式で、その規模は、堤高22m、堤長39.5m、天端幅1.2~1.8mと、砂防ダムとしては大型である。後背地には、大きなため池ができており、一見貯水ダムかと思われる容姿である。
アーチ式ダムは、富山県の黒部ダムなどに代表される発電や貯水を目的とした大規模ダムに多く見られるが、砂防ダムでは国内でも100基に満たないほど例が少ない。その意味で、当ダムは全国的にも貴重なものといえる。
この形式のダムは、ダムの両岸が丈夫な岩盤で、かつ狭い谷地形であることが立地条件となり、自ずと適地が限定されてしまう。このことが、砂防ダムに例が少ない理由の1つであろう。
その点当地は谷が狭く、両岸に堅い岩盤が露出しており、アーチ式ダム建設には適していたといえよう。
ダムの右岸側には、石碑のような標柱が建てられており、そこには「昭和三十六年度 本谷堰堤 鳥取県砂防課」と刻まれている。これがこのダムの正式名称なのだろうか。
実際ダムに近づいてみると、まず、その高さに目がくらむ。恐る恐る谷底を見下ろすと、吸いこまれそうになるほどである。
ダム中央に設けられた水通し部からは、どうどうと水が流れ落ち、まるで滝の近くにいるような独特の爽快感が感じられる。
人工の構造物でありながら、長い月日を経て、すっかり周囲の自然と一体化して見えるほどの馴染みようだ。
このダムが建設されるに至る背景には、地域住民の強い要望と行政機関の地道な努力があったようだ。
河内地区は、鷲峰山を初めとする標高700~1,000m級の急峻な山々に取り囲まれた狭い平地にある。地形図で見ると、無数の谷が幾方からも集結し、この地で急激に緩勾配となるという典型的な集水地形にある。そのため、水や流出土砂による被害が頻繁に発生していたという。
このような状況に悩む地域住民の改善要望を行政が真摯にうけとめ、対策事業化へ向け動き出した。国会議事の記録によると、本件のものと思われる「河内川上流砂防工事施行に関する請願」が昭和26~27年に行われている。しかしながら、全国各地が同様に請願しており、なかなか事業化に至らなかったようだ(鳥取県だけでも40箇所近い砂防工事を請願していた)。
これはあくまで推測だが、事業化へ向けて大きく前進したのは、皮肉にも昭和34年に発生した「伊勢湾台風」により鳥取県東中部が甚大な被害を受けたことがきっかけとなったのではないだろうか。現に、被災直後に鳥取県および兵庫県北部の状況視察に訪れた国会議員が、同年10月に行われた「建設委員会」において、山間部における河川砂防整備の必要性を提唱した議事録が残っている。
そして翌年、請願してから10余年を経て、ダム建設が着工されている。
このダムの建設は、鳥取県が行い、施工は(株)藤原組が請け負った。(株)藤原組の記録によると、「河内川特殊緊急砂防工事」という名称で、昭和35年10月に着工し、昭和37年3月に完成、その請負額は2,400万円だったとされる。
その工事には刑務所に服役中の人々が作業にあたったというが、大卒初任給が約15,000円の時代、請負額から想定して、かなりの多人数が動員されたと思われる。
ダムの規模、周辺地形を見れば、簡単な工事でないことは誰にでも想像がつく。さらに、施工途中である昭和36年9月には「第二室戸台風」が襲来しており、壮絶を極める現場状況が目に浮かぶようである。
それでも遅延なく完工したことが、大きな評価を得たのだろう。この工事は、その年の優良工事として鳥取県から表彰されたという。
その後、このダムの上流にも堰堤が建設されるなど整備が進んだこともあり、砂防ダム本来の機能を発揮するような事態が発生した形跡は見られない。しかし、このダムが、生活圏への土砂流出を防ぐ最後の砦であるという位置づけに変わりはなく、今も静かに下流の地域やそこに暮らす人々の安全を見守り続けているようだ。