菊港は鳥取県中部の琴浦町(旧赤碕町)に位置する。すぐ背後に拡がる町並みは、かつて港を中心として栄えたものであることを物語る。 菊港の名は、当地で大庄屋を勤める河本家に嫁いだ「菊姫」(松江藩主堀尾忠晴の伯父の娘)に因んだものと云われる。 菊港とそれを挟むように位置する東港(亀碕港)、西港の3つの港が隣接し、それらすべてを含めて赤碕港と呼ぶ。 現在は東港が本港となっているが、この地に船番所が置かれ、年貢米を移出するための藩倉が建ち並び、北前船の寄港地となっていた藩政期(1600~1871年、この地方が鳥取藩所領となっていた時代)は、菊港が本港として機能していた。 倉吉の産物や、その原料・日用品等の移出入にも利用されるなど、商港としても発展し、後に鳥取藩十湊(じゅうみなと)の1つとなる重要な港であった。 菊港は東西2つの防波堤をそなえる。それらは東堤が享保・元文年間(1716~1741年)に120間(218m)の規模で、その後西堤が180間(327m)の規模で築造されたと『鳥取郷土史』に「古老の言」として記されている。一方、西堤基部に設置される案内板には、寛政年間(1789~1801年)に築かれたとある。 また一説には、明暦3年(1657年)に江戸で起きた大火事により被災した鳥取藩の藩邸再建のため、堀尾長兵衛(菊姫の長男)に材木の調達の命が下り、その積み出しを行うため、この時に菊港の大幅改修がなされたともいわれている。 各説で若干の違いはあるが、いずれにしても18世紀頃築造されたものであろう。 さらに、文政年間(1818~1830年)頃に西堤が改築されたと、赤碕町郷土史において推察されている。 当時の菊港の様子を知る資料として、2枚の古絵図が残されている。それらは赤碕浦湊絵図といい、1つは江戸後期(県立博物館蔵)、もう1つは明治3年(河本氏所蔵)のもので、そこには菊港を中心に船番所や藩倉、そして家々が立ち並ぶ様子がつぶさに書き記されている。 また、前者には各堤の名称や大きさが表記されており、東堤は「大波戸」という名で、幅8間(約9.5m)、長さ102間(約120m)、一方西堤の名称は「新波戸」とあり、幅8間(約9.5m)、長さ66間(約78m)と書かれている。ちなみに西堤は、陸地につながらず、離岸堤(海岸から離れた沖合に、海岸線と平行に設置される防波堤)のような形態に描かれている。 この名称からも、西堤の方が後に築造されたか、あるいは大幅な改築により一新されたことは確かであり、今に伝わる各説の信憑性を後押ししている。 赤碕港の中心として栄えた菊港だが、水深が浅いため、近代化に伴って大型化する船舶への対応ができなくなり、明治以降は東港(亀碕港)に本港の座を譲ることとなった。 現在、波止の規模は、東堤が長さ150m、幅13.8m、高さ2.3m、西堤が長さ90m、幅5.3m、高さ3.4mであり、前述の古絵図のものと多少の違いはあるものの、ほぼ当時の姿であると言っていい。どちらも捨石積構造(防波堤の基礎として巨石を沈め、そこへさらに石を積み上げて築堤する構造)だが、使用している石の大きさは、西堤の方がやや小振りである。 西堤は途中までは古い捨石積構造だが、その先は消波ブロック(複数基が強固にかみ合うよう凹凸に成形された護岸用コンクリートブロック)やコンクリートによる補強がなされている。 一方、東堤は提体に大きな補強痕は見受けられないが、先端部に小さな石積灯台が建ち、その背後に「波しぐれ三度笠(平成元年建立)」という3体の石像モニュメントが設置されている。堤上面には芝がはられ、基部に架けられた「菊姫橋」からモニュメントへ向け舗装された歩道が走る。ちなみに、この「波しぐれ三度笠」は、平成7年鳥取県景観大賞を受賞している。 かつての重要港湾 菊港は、その役割を後進に譲った後も築港当時の状態をよく残し、江戸時代後期の状況を知る貴重な文化遺産としてあり続けるとともに、県内有数の観光スポットとして変貌を遂げている。
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